紀藤正樹著『マインド・コントロール』の批判的検証05


このシリーズでは、紀藤正樹著『マインド・コントロール』を批判的に検証しているが、前回は統一教会を元信者が訴えた「青春を返せ」裁判で、2000年9月14日に広島高裁が下した判決は、司法がマインド・コントロールの違法性を認めた判決であるとは言えないことを説明した。広島高裁判決は「マインド・コントロール」概念を採用せず、それは脇に置いておいて、布教行為や勧誘行為の目的、方法、結果が社会通念上認められる範囲を逸脱しているかどうかを判断し、この個別の案件に関してのみ、不法行為として認定したのである。
実は、名古屋地裁における敗訴と、この広島高裁での判決をきっかけとして、元信者が統一教会を訴える「青春を返せ」裁判はその戦略を大きく転換することになる。すなわち、原告側は「マインド・コントロール」といったような法律用語として成立しない漠然とした主張をやめ、「正体を隠した伝道」や「不実表示」を理由に法的責任を問う戦略に切り替えたのである。
結局、「マインド・コントロール」の存在やその効果は立証できないので、勧誘の「目的」「方法」「結果」の各要素の具体的な反社会性、違法性を主張する方向に方針を変え、「青春を返せ訴訟」は「違法伝道訴訟」と呼ばれるようになった。その結果、札幌「青春を返せ」裁判で、原告側が勝訴し、東京「青春を返せ」裁判で統一教会側が和解金を支払う形で和解が成立など、原告にとって有利な展開となった。しかしこれは、「マインド・コントロール」の主張をやめたからこそ得られた結果であるといえよう。その後も、少なくとも統一教会を相手取った民事訴訟では、「マインド・コントロール」を違法性の根拠とした判決は出ていない。
ここで、「少なくとも統一教会を相手取った民事訴訟では」とわざわざ断ったのには理由がある。それは統一教会を訴えた事件以外なら、法廷が「マインド・コントロール」を違法性の根拠として認めてしまった判決が存在するからである。それは「ホームオブハート」の事件に対する判決である。紀藤弁護士はむしろこちらの成果を自慢すべきであろう。
元 X JapanのToshiが関係していたことで有名になったホームオブハートは、自己啓発セミナーを行う会社組織である。この団体を相手取り、栃木県内の女性(38)が、「マインド・コントロール」を受けて多額の金銭を支払わされたなどとして損害賠償を請求する裁判を起こした。2007年2月26日に東京地裁が下した判決で、野山宏裁判長はセミナーで「マインド・コントロール」が行われていたことを認定。ホームオブハートなどに1500万円の支払いを命令した。
以下はその判決文からの抜粋であるが、かなり明確にマインドコントロールの存在とその違法性を認定している。
「精神医学や心理学の知識を基礎とする自己啓発セミナーのノウハウを流用してマインドコントロールを施し・・・」
「このようにマインドコントロールされた状態を維持するために、思考を停止する訓練を継続させ、フィードバックやセラピーにより被告MASAYAの言うことが正しいと思いこませ続けた。」
「目的及び手法をもってマインドコントロールされた状態に照らし意図的に陥れる行為は、社会通念に照らし、許容される余地のない違法行為であることは、明らかである」
この判決文に関心のある方は、は以下のサイトで見ることができる:
http://homepage1.nifty.com/kito/hohcace20070226.html

なぜ裁判所が問題のある「マインド・コントロール」をここまで明確に認めてしまったのかについては、裁判の経過を詳しく追っているわけではないのでよく分からない。しかし、統一教会を相手取った「青春を返せ」裁判では、教会側が「マインド・コントロール」の非科学性を立証する証拠を提出して徹底的に戦った。私もその戦いに加担した1人であり、「青春を返せ」裁判では4回も法廷で証言した。「ホームオブハート」は恐らくこうした反論を十分にできなかったのではないかと推察される。
そもそも自己啓発セミナーを行う会社組織である「ホームオブハート」と宗教団体である統一教会はまったく異質な組織であり、勧誘や教化の仕方も全く異なっている。したがって、「ホームオブハート」に対する判決が、直ちに統一教会を相手取った訴訟に影響を与えることはなかったし、今後もないであろう。

第1章 「マインド・コントロール」とは何か? を読み解く
それではここから、紀藤弁護士の著作『マインド・コントロール』の第1章の内容を見ていくことにしよう。この章は、「マインド・コントロール」とはそもそも何なのかを分かりやすく解説することを目的としている。冒頭で紀藤弁護士は以下のように述べている。
「手始めに、マインド・コントロールを文字通り『心や精神が支配されること』と考えてみましょう。すると、ある人が自分以外の人や組織から精神的な影響を受け、自分が意識しないままに態度・思想・信念などが強く形成され、それにすっかり凝り固まってしまい、心や精神が支配されているように見える状態は、ごく普通にあることだと気づきます。」(p.52)
続いて紀藤氏は、こうした状態の例として、㈰教育ママが子供に勉強するよう言い聞かせる、㈪スポーツ選手がコーチに心酔する、㈫イスラム教の国の宗教教育などの例を挙げ、㈰〜㈫は、広い意味でのマインド・コントロールとよく似ており、マインド・コントロールの一種といえないことはないかもしれないが、しかし「三つとも本書では、これらを『マインド・コントロールされている』とはいいません」(p.54)と断言するのである。
同じような例として紀藤氏が挙げているのが、支配的な夫と従属する妻、厳しい親に従う子、厳格な教師と教え子の関係、『会社主義』と言われる企業や役所内の上下関係、暴走族や暴力団など集団内の支配・被支配関係、派閥ボスと派閥に集う政治家の関係、キリスト教の幼児洗礼、戦前の日本の軍国主義、ヒトラーを熱烈に支持したドイツ国民、文化大革命時代の中国、禁酒法や赤狩りに狂奔したアメリカ、などなどであるが、紀藤氏はこれらはすべて、マインド・コントロールではないと言い切るのである。
それでは問題視すべきマインド・コントロールと、それに似て非なるものとは、どうやって見分けられるのであろうか? それに対する紀藤氏の答えは以下のようなものである。
「両者の違いを見分けるカギは、その時代の社会通念や一般的な社会常識を前提とした『法規範』や『社会規範』です。・・・目的、方法、程度、結果などを見て、それらが『法規範』や『社会規範』から大きく逸脱している場合は、これを『マインド・コントロール』と判断して問題視すべきである。私はそう考えています。」(p.55)
冒頭にあげた三つの例が「マインド・コントロール」に該当しない理由を、紀藤氏は以下のように説明する。
①教育ママの目的は、「子供の将来を考え、良い学校に入れる」ことで社会通念から逸脱していない
②コーチとスポーツ選手の例も、目的は「全国大会出場」というように、はっきり限定されている
③イスラム教国の例では、生まれながらみんなアラーの神に帰依することも、日に5回の礼拝も、歴史や社会の文化に深く根差した社会通念や社会常識そのもの。それを異なる文化圏から見て「マインド・コントロール」などというのは、余計なお世話。
要するに「マインド・コントロール」かどうかは、その国の社会通念や社会常識にもとづいて決定する、というのが紀藤弁護士の判断基準なのである。
そうなると、結論的に「マインド・コントロール」は科学的に定義される概念ではなく、政治的概念であるということになる。それは社会通念や社会常識はその国の政治状況によって大きく変わるからである。例えば、「キリスト教の宣教」という同一の行為であっても、それが行われる国や地域の「法規範」や「社会規範」は大きく異なっているため、その行為が「法規範」や「社会規範」から逸脱しているかどうかは、その国や地域の政治的立場によって大きく異なるのである。

図:「マインド・コントロール」は政治的概念?
「キリスト教の宣教」という行為は、西洋先進諸国と日本においては「信教の自由」という原則の下に保護されるであろう。しかし、中国や北朝鮮ではそれは逸脱行為として取り締まりの対象となるのであろう。イスラム教諸国では、基本的に改宗の自由を認めていないので、やはりキリスト教の宣教は逸脱行為である。イスラム法の影響力が極めて強い国々においては棄教者は死刑と明確に定めている所が多い。「イスラム国」(IS)ならば即刻死刑だろう。このように、同一の行為がその国の政治状況、法規範、社会規範の違いによってまったく異なった評価を受けるのであるから、それに基づいて定義される「マインド・コントロール」なる概念にはそもそも普遍性はなく、政治的概念に過ぎないことは明らかである。

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