紀藤正樹著『マインド・コントロール』の批判的検証04


このシリーズでは、紀藤正樹著『マインド・コントロール』を批判的に検証しているが、これまで3回にわたって、この本が書かれるきっかけとなった中島知子さんの洗脳騒動について事実関係を追ってきた。結論として、中島知子さんが占い師とされる女性によってマインド・コントロールされていたという紀藤弁護士の見立ては、完全に間違っていたことが判明した。これは彼が中島さん本人に会ったこともないのに、断片的で不正確な情報をもとに断定的な発言をしたことが原因であり、弁護士としては軽率な行動であった。
しかし、紀藤弁護士の著作『マインド・コントロール』の中には、単に見立てを誤っただけではなく、真っ赤な嘘が含まれている。これは見立て違いよりもはるかに重大な問題である。今回はこれについて扱うことにする。
その嘘は、はやくも「まえがき」に登場する。
「こうした経過を経て、2000年9月14日、広島高等裁判所岡山支部で、ついに司法がマインド・コントロールの違法性を認める初判決を出します。これについては本書の第1章以下で詳しく書きました。その後も続々と『マインド・コントロール』の違法性を認める判決が相次いでいます。すでに最高裁判所の判例も出ており、司法ではもはや結着事項ともいえます。」(p.4)
この発言には二重の嘘が含まれている。第一の嘘は、「マインド・コントロール」を否定した判決が存在するにもかかわらず、そのことには一切触れずに意図的に隠蔽し、「司法ではもはや結着事項ともいえます」などと決めつけていることである。
「マインド・コントロール」なる概念が日本の法廷で初めて争われたのは、いわゆる「青春を返せ」裁判においてである。これは、統一教会を脱会した元信者らが統一教会を相手取って起こした集団訴訟であり、原告らの主張の内容はおよそ以下のようなものである。
「われわれは統一教会の名前も実態も知らされないまま虚偽の勧誘を受け、正常な判断能力を奪われて入信させられた。その結果、長期にわたって精神的に抜き差しならない状況に置かれ続け、違法な行為(いわゆる霊感商法をはじめとする経済活動)に従事させられ、この間ただ働きであったので、その逸失利益、慰謝料等の請求をする。」
このブログの他のシリーズ「『青春を返せ』裁判と日本における強制改宗の関係について」で詳細に扱ったように、こうした裁判の原告のほとんどが、強制改宗によって棄教した元信者らであった。こうした訴訟は札幌、東京、新潟、名古屋、神戸、岡山など全国各地で起こされたが、全国で初めて下された判決が、1998年3月26日の名古屋地裁判決であった。この訴訟では、統一教会を相手に元信者の女性6人が総額6千万円余の損害賠償を求めていた。これに対して稲田龍樹裁判長は原告側の請求を棄却する判決を下し、「マインド・コントロール」に関しては以下のようにはっきりと否定している。
「原告らの主張するいわゆるマインド・コントロールは、それ自体多義的であるほか、一定の行為の積み重ねにより一定の思想を植え付けることをいうととらえたとしても、原告らが主張するような強い効果があるとは認められない」
その後、控訴審で原告側と教会は和解している。
同様の訴訟において、1999年3月24日の岡山地裁判決でも統一教会側が勝訴し、この判決は確定している。
さらに、2001年4月10日の神戸地裁判決でも統一教会側は勝訴しており、原告がいわゆるマインド・コントロールを受けていたかに関しては以下のように判断している。
「(原告らが)信仰に至る過程において、被告あるいは被告の教義の内容及び入信後の信者の生活や活動についての情報が不足していたとは認められず、外部との接触も遮断されておらず、被告あるいはその信者による原告らに対する勧誘、教化行為が詐欺的、洗脳的であるとはいえず、原告らは自己の主体的自律的判断において信仰を持つに至ったものであり、被告や信者らの勧誘、教化方法は違法とはいえない」
「(原告らは)主体的自律的意思決定をなしえない心理状態にあったとはいえない」
このように、「マインド・コントロール」を完全に否定し、統一教会が勝訴した判決が複数存在するにもかかわらず、紀藤弁護士はこれらには一切言及せずに、「司法ではもはや結着事項ともいえます」などとうそぶいているのである。これは意図的な事実の隠蔽としか言いようがない。自分に都合の悪いものには蓋をするのである。
さて、1998年6月3日にもう一つの「青春を返せ」訴訟に対して岡山地裁が下した判決が存在する。これは、統一教会を相手に元信者の公務員男性が200万円の損害賠償を求めた裁判であった。この判決で小沢一郎裁判長は、「原告○○は最初に勧誘を受けてから棄教・脱会に至るまで約1年5カ月の期間を要しているが、その間、被告法人の教義、信仰を受容する過程において、その各段階毎に自ら真摯に思い悩んだ末に、自発的に宗教的な意思決定をしているというほかはない」と述べ、勧誘や教化のあり方についても「社会的相当性を逸脱したものとまではいえない」として、原告側の訴えを退けている。つまり、一審判決は名古屋地裁判決と同様に「マインド・コントロール」を否定し、統一教会が勝訴していたのである。
しかし、原告は控訴審で逆転勝訴し、これが最高裁でも認められて、統一教会の敗訴が確定することとなった。これが「まえがき」で紀藤弁護士が「2000年9月14日、広島高等裁判所岡山支部で、ついに司法がマインド・コントロールの違法性を認める初判決を出します」と言及した、問題の判決である。この判決で、原告の元信者が勝訴し、統一教会が敗訴したことは事実であるが、「司法がマインド・コントロールの違法性を認めた」というのは、嘘である。それでは広島高裁は「マインド・コントロール」なる概念に対してどのような判断をしたのか、引用してみよう。
「なお本件においては、控訴人がマインドコントロールを伴う違法行為を主張していることから、右概念の定義、内容等をめぐって争われているけれども、少なくとも、本件事案において、不法行為が成立するかのどうかの認定判断をするにつき、右概念は道具概念としての意義をもつものとは解されない(前示のように、当事者が主観的、個別的には自由な意思で判断しているように見えても、客観的、全体的に吟味すると、外部からの意図的操作により意思決定していると評価される心理状態をもって『マインドコントロール』された状態と呼ぶのであれば、右概念は説明概念にとどまる)。」
「道具概念」とか「説明概念」というような難解な用語を用いており、素人には何を言いたいのか分かりにくいのであるが、そこは法律のプロである紀藤弁護士が以下のように説明してくれている。
「難しいものの言い方をかみくだけば、マインド・コントロールという概念(考え方)は心理状態を説明しているだけで、不法行為が成立するかどうかを判断するときの道具には使えない、といっています。」(「マインド・コントロール」p.62)
これはどう読んでも、マインド・コントロールの違法性を認めた判決ということはできない。にもかかわらず、紀藤弁護士は「まえがき」の4ページでこの判決を「マインド・コントロールの違法性を認める初判決」と紹介しているのである。完全に矛盾しており、とても同じ著者の言葉とは思えない。まともな国語力のある者なら、62ページの文章を読んで、これがマインド・コントロールの違法性が認められた判決だと言うことはできないであろう。
結局、広島高裁判決は「マインド・コントロール」概念を採用せず、それは脇に置いておいて、布教行為や勧誘行為の目的、方法、結果が社会通念上認められる範囲を逸脱しているかどうかを判断し、この個別の案件に関してのみ、不法行為として認定したに過ぎない。裁判所は一般論として「マインド・コントロール」の存在とその違法性を認めたわけでもなく、統一教会信者の行った勧誘行為が「マインド・コントロール」であると認めたわけでもない。したがって裁判所は事実上、法律用語としてはこれを却下したことになる。にもかかわらず、紀藤弁護士はこの判決を「マインド・コントロールの違法性を認める初判決」と紹介している。これは判決文の意図的な曲解であり、論理的に破たんした真っ赤な嘘にほかならない。

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