シリーズ「霊感商法とは何だったのか?」04


シンクレティズム以前:教会草創期

2.立正佼成会との出会い
 統一教会草創期の手記で例外的な(すなわち、キリスト教的でない)ものの一つが、小宮山嘉一氏(1962年7月入教)によるものである。

小宮山嘉一氏の手記:「7月4日から4日間、東京教会において西川勝先生の原理講義を感激と緊張のうちに一通り聴講させて頂いた。中学時代より、母が立正佼成会に入って法華経の信仰をしていたのに影響され、以後会長庭野日敬先生の『法華経解説書』等を読み、その人格的なものに触れ、釈尊・日蓮聖人の真意を教えられ、以後10年間一代仏教の統一経にして帝王経なるこの一代光明思想の哲理たる『法華経』の研究に没頭してきた。……『天宙の原理』を聴講して感じたことはまさしく如来の予言せる『如来の余の深法』に、3000年に一度花咲く『優雲波羅華のごとく、また一眼の亀の浮木の孔に植えるが如し』(妙荘厳王品)の感慨深きものがある。終わりに『無上甚深微妙の法は百千万却にもあい奉ること難し、我今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の第一義を解せん』ことを決定し、不退転の獅子王のごとく弘宣流布の第一線に立たんことをお誓いして結びとする」(注1)

 ここには、立正佼成会にける法華経の信仰と、統一原理の混同もしくは融合らしきものが見受けられる。これは小宮山氏の信仰初期における手記であることから、実質的には立正佼成会の法華経信仰が中心であり、その視点から統一原理を「予言の成就」として受け止めていると理解できる。しかしこの手記は、後に小宮山氏が展開する統一原理と仏教哲学の融合の試みを暗示している。これは草創期の統一教会におけるシンクレティズムの一例であると解釈できるが、教会全体の方向性を変えるほどの影響力を持つことはなかった。
 1962年9月7日、崔奉春宣教師と立正佼成会の庭野日敬会長が会談を持った結果として、立正佼成会の青年たちを統一教会の40日修練会に参加させることが合意された。(注2)自分の教団の青年信徒を、他の宗教団体の研修に参加させるという決断自体が稀有なことであるが、これは庭野日敬会長の個人的な英断によるものだったようである。久保木会長自身が、「この一瞬は歴史的な瞬間でした。日本における統一教会の基礎が、この時点で形成されることになったと言っても決して言い過ぎではありません」(久保木修己著『愛天 愛国 愛人』より)と回想しているように、この立正佼成会の信徒たちが、草創期のクリスチャンを中心とする信徒たちに続いて、日本統一教会初期の信徒たちの重要な構成要素となっていった。(注3)

第一期特別修練会
第一期特別修練会の発会式(前列左側3人目から久保木修己氏、崔奉春宣教師、庭野日敬立正佼成会会長)1963年3月1日

 1962年12月10日から1963年1月20日までの40日修練会を皮切りとして、その後「特別修練会」と呼ばれる40日間の修練会に、立正佼成会の青年幹部たちが次々と参加していくことになる。(注4)このまま両教団の友好関係が続いていれば、立正佼成会の仏教哲学と統一原理の本格的な融合という事態もありえたかもしれない。しかし、立正佼成会から青年幹部を送る形で行われる修練会は、長くは続かなかった。それは庭野日敬会長が独断で決めたことであったため、周囲の幹部たちが信徒を奪われることを恐れて反対したことが原因であると言われている。(注5)
 結果的には、立正佼成会から統一原理の修練会に参加した青年たちは、統一教会に改宗する者と、立正佼成会に戻る者に二分されることとなり、二つの教団間の教義上の融合は起こらなかった。当時統一教会に入会した青年たちは、「立正佼成会出身」という過去を持ちながらも、組織的にも信条的にも過去とは一線を画し、全く新しい信仰である統一原理を受け入れていったのであり、そこにはシンクレティズムはなかったと判断できる。
 その後、統一教会は原理講義を主体とする「特別修練会」を41期(1967年5月)まで行い、韓国から文鮮明先生と協会幹部たちを迎えるなどして、伝統の確立と伝道活動の展開に全勢力を傾注していく時代を迎える。(注6)1967年6月に行われた「原理大修練会」は、前年に韓国で出版された『原理講論』に基づくものであり、日本に正統的な原理の伝統を打ち立てることを目的としたものであった。1967年10月には日本語版の『原理講論』が発刊され、1968年4月には光言社が設立されて『原理講論』の販売活動が開始された。(注7)

原理大修練会
1967年6月に行われた「原理大修練会」で講義する劉孝元協会長

 1968年から1970年代にかけては、勝共連合の設立に伴い、統一教会がイデオロギー的色彩を強めた時代であった。すなわち、『原理講論』『勝共理論』『統一思想』の三本柱による思想武装が強調され、統一十字軍を中心とした伝道活動と、国際共産主義と戦う政治活動が展開された。(注8)この時代の統一教会の信徒たちは、思想的に先鋭化したエリート集団であり、このような状況下ではシンクレティズムは発生しにくい。
 このように、草創期から1970年代までは、統一教会の中心的教えである「統一原理」と日本の土着の宗教伝統が習合する現象は、ほとんど見受けられなかったと分析することができる。日本において、本格的なシンクレティズムが見られたのは「霊感商法」と呼ばれる現象が出現した1980年代以降である。

(注1)歴史編纂委員会編『日本統一運動史』光言社、2000年、p.170
(注2)同上、p.169
(注3)同上、p.171
(注4)同上、p.174-7
(注5)小山田秀生元日本統一教会会長の証言より
(注6)歴史編纂委員会、前掲書、p.185-234
(注7)同上、p.279
(注8)同上、p.283-332

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