アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳89


第10章 結論(11)

例えば、ウイリアムのケースを取り上げよう。彼はきちんとした下流中産階級の出身で.バプテスト派の背景を持っており、教会の日曜学校で教えていた。彼は、自分が運動に入会した真の理由は、聖書理解において持ち続けてきた諸問題を「統一原理」が解決してくれるのを発見したからであると説明した。しかし彼はまた、自分が夢見てきたような理想的な関係をガールフレンドとの間に見いだすことに若干困難を感じていた。彼が最初に運動に出会ったのは、それまで何度か訪れていたあるクラブで誰かが講義しているのを聴いたときである。彼がそこを訪れていたのは、自分が抱いていた疑問に対して大学の同級生たちよりもっと関心を持っている人々に会えるのではないかと思ったからであった。以下の引用の中で、私が第5章で分離した4つの変数が全て、彼が運動に参加するよう感化する上で、互いに影響し合いながら役割を果たしている様を垣間見ることができる。

私を本当に魅了したことの一つは、私が神の原理に基づく何かを探していたということだった。私が行っていた全てのグループは、それほど神を持ち込もうとしていなかったし、彼らが長続きしなかった理由はそこにあると私は考えていた。そして次に完全な結婚という考え方、そこでは人々を引き合わせるのは神であると言うこと。それには本当に感動した。なぜなら私も多くの葛藤の末に、そのような結論に到達していたからだ。私は「分かりました、神様。あなたにお任せすします」という段階にまで至っていた。私は神が相応しい人に導いてくれることを信じた。神は私自身よりも私を知っていたし、まさに私に相応しいひとりの人を知っていた。だから完全な結婚という考え方は、本当に私を興奮させた。私は「もちろん、これが回答だ」と考えた。なぜなら私の友人は誰もが多くの不幸を抱えていた。彼らの関係は壊れており、幸福な結婚ではなかった。だから私は物事に少し幻滅しつつあった。しかし私が原理を聞いたとき、それが真の答えだった。あまりに正しくて、疑問を差し挟む余地はなかった。私がそれまで取り組んできたことの全てが入っていたし、それをさらに推し進めて、聖書の中で少し不明瞭だったことも全て解決した。聖書を読んでいて、ときどきうまくあてはまらないと思われたことがあったが、全て解決した。そして全てのことのパターンが非常に素晴らしい。まさにそういうことだ! これが絶対に正しく、真理でなければならないということを、私は知っただけだ。

ある人がなぜ統一教会に入会するかしないかについて理解する上で、その人の過去の人生の影響によって説明が可能であると指摘することは、選択の要素が全く関与していないと示唆しているのではない。実際、第5章における私の選択の定義によれば、個人の過去の体験が、一つの決定にいたるプロセスの中で、少なくともなんらかの役割を演じているということは「必然的」であろう。ムーニーになる人々は、彼らがすでに持っていた希望、恐れ、価値観、社会における以前の体験が「使われている」という限りにおいて、能動的主体と見ることができるのは明らかだと思われる。ムーニーたちもまた、ある程度これらの特徴を「使っている」(利用している)と見ることができるが、彼らは単に被暗示性「だけ」を利用することには成功していないのである。私が論じてきたのは、データが示唆するところによれば、新会員候補者は一つではなく多くの多面的な影響を受けており、また多くの「選別」が行われてきたであろうということだ。それは比較的無意識レベルであったとしても、ゲストは運動を拒絶するために、統一教会の教えと共鳴「しない」特性を完全に「使う」(利用する)ことが完璧にできるのである。言い換えれば、ムーニーの説得力が効果を発揮するのは、ゲストがもともと持っていた性質や前提と、彼に対して提示された統一教会の信仰や実践の間に、潜在的な類似性が存在するといえるときだけだ、ということを外部の観察者が認識することは可能であると思われる。すなわち、そのときわれわれは「そのような人」がなぜ「そのようなもの」に魅力を感じるのかを理解できるのである。

ムーニーの中にも、また統一教会の実践の中にも時と場所によって多様性があることを考えると、私の結論のあまりに明確な最終要約を試みるのは明らかに無謀である。しかし、多数のムーニーの入会勧誘における4つの変数の相対的な影響力を測定し、その構成を(三次元版の)表4の中で最も適切な位置に描こうとするならば、最大の群れ(半数をはるかに上回る)が、4つの変数が全く均等に釣り合っている一点(それは私が「無意識の適応」と呼ぶ状況である)の周辺にあるのを発見するであろう。また統一教会の環境がほとんど影響を及ぼさなかったケースが少数ある(例えば、軍役に就いている間に「原理講論」を学んだイギリス人のムーニーが一人いる)。しかし、統一教会の環境が「唯一の」影響として示される点の周りには、いかなる事例も存在することは疑わしい。直前や過去の社会での体験の故に、そのムーニーが特に暗示にかかりやすかったというケースも少数ながら存在するだろう。統一教会の選択肢が彼に対して持っている本質的な魅力の故に入教したのではなく、単にたまたま統一教会に出会い、たまたま異常に暗示を受けやすい性格の持ち主であったので入教したムーニーのケースも、若干あるだろう。しかし、ここでも非常に一般的に言えば、もし「押し」が「引き」よりもはるかに大きいのであれば、すなわちその個人の性格と統一運動の提供するものとの間に明らかな「一致」がないのであれば、彼は入教して間もなく人々や信仰やライフスタイルに魅力を感じるようにならない限りは、あまり長くムーニーであり続けることはないだろう。

もちろん、ひとたび誰かがフルタイム・メンバーとなり、その生活の大部分を極めて権威主義的な構造の中で、同じ信念を持った人々と共に過ごせば、個々のメンバーに対するグループの影響ははるかに大きくなる。最初の1カ月ほどは、彼は運動による説得とそれに反対する忠告の両方に対して最も脆弱な状態であるだろう。すなわち、彼は自分自身に対してあまり確信を持てなくなり、それ故に、最近獲得した現実の見方の中にまだ存在しているギャップを「埋める」何かについての提案をより受け入れやすくなるだろう。なぜなら、不慣れな「世界観」を受け入れることによって、彼はある程度、それまで新しい情報を評価する際に用いていた参照基準を失っているからである。しかし同時に、彼はそれほど献身的ではないために、運動は実際には彼が思っていたものや望んでいたものではなかったと判断する傾向があり、それゆえに極めて離れやすいのである。

運動内でしばらく時間を過ごすとムーニーたちは実際に何らかの形で変化するが、それはときおり想定されているほど大きな変化ではない。たまに「燃え尽きるケース」もあるが、それは特定の任務(通常はファンドレージング)に長期間を費やした者が挫折するときである。しかし、ムーニーが心を持たないロボットのようになっているというのは、彼らと同世代の者たちが毎朝8時23分に市街地に出かけていくのと同じようなものだ。彼らは情的にも知的にもいろいろな形で成長していく。そして彼らはある一連の機会や経験を逃すかもしれないが、通常は他の多くの経験をする機会があり、それはしばしば非常に広範で挑戦的なものである。しかし、彼らはまた広範囲な問題、幻滅、失望に直面するようになるであろう。そして過半数は、外部の関与の必要もなく、入会してから2~3年以内に離脱する(あるいは少なくとも、フルタイム・メンバーではなくなる)であろう。残りの者も問題を抱えているかもしれないが、それにも関わらず、自分たちに与えられている他の選択よりも、やはり統一教会は自分たちが居るのによい場所であることを確信しているだろう。彼らは地上天国の復帰という理想を固守し続けるだろう。しかしながら、彼らの天国のビジョンと、その復帰を実現するための手段に対する彼らの理解は、年月が過ぎるにしたがって著しく変化する傾向がある。しかし、このことはもちろん、まったく別の話である。

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