アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳85


第10章 結論(7)

ムーニーたちは人生を無駄にしていると感じているような人々は、例えば、若者たちが価値を感じると同時に他者に対して価値ある貢献ができる職業を見いだすことは困難である、ということは認めてあげたいかもしれない。(注19)われわれの大部分は、現代社会の諸問題に対して簡単な答えがあるとは信じていない。だがそのことは、若者たちのエネルギーと理想主義が、当該の個人とより広い社会の両方にとって利益となるように利用される方法がないということを意味しない。もちろん、ある程度の機会は存在していて、多くの若者たちが他の人々や社会全般の福祉に積極的に貢献している。だが、欲求不満を感じ、無力感と絶望感を抱き、方向性の欠如と人生の無意味さを感じて苦しんでいる者も多いのである。伝統的に、宗教は信者たちの人生に方向性や意味を提示してきた。そしていまもなお、それは多数の人々に対してそうしている。しかしながら、伝統的な宗教はしばしば官僚的で儀式的になりがちである。そして新宗教が歴史を通じて表れてきて、その信者たちに、制度化された宗教よりもより確実でより差し迫った救済の約束を提示してきた。とくに急激な社会変化の時代にはそうである(注20)。もし羊の群れを守りたいのであれば、より正統的な教会は若者たちと個人的なレベルで宗教的な問題についてもう少しオープンに議論をした方がよいだろう。聖職者たちはあまりに近づきがたい存在であるか、神や宗教について真剣に考えるにはあまりに流行に流されやすいかのどちらかだと思っているのは、なにもムーニーになる人々ばかりではない(注21)。

だがここは、社会一般や、特に伝統的な宗教によって生み出されるギャップについて詳しく立ち入る場所ではない。私がこの書物の中で自分に課した仕事は、なぜある人が統一教会という選択肢を取るのかという問題に取り組むことに限定している。そして非常に多くの人々が、彼らがそうするのは洗脳の結果に違いないと考えているので、そのような可能性に対して支持するか、あるいは疑問を呈するような証拠と議論に焦点を当ててきた。

それでは私の結論は何であろうか? 私は研究の結果、人々が抗し難い洗脳テクニックの結果として統一教会に入会すると信じるようになったであろうか? それとも理性的で計算された選択の結果であると信じるようになったであろうか? これまでこの本を読んできた人々にとっては誰の目にも明らかであると思うが、そのような質問に対する短い回答は、どちらの答えも満足のいくものではない。しかしその答えは、抗し難い洗脳という一方の極よりも、理性による選択というもう一方の極にかなり近いところにある、ということを証拠は示していると思われる。そのような回答は、しばしば次のような疑問を引き起こすであろう。もしそうであるなら、そのムーニーを最もよく知っている人々を含めて、それほど多くの人々が、彼が洗脳「された」と主張するのはなぜなのか? これは私がここで答えられる以上にはるかに詳細な回答を必要とするテーマであるが、簡単に1,2点を述べることはできるであろう。(注22)。かなり明らかな回答の一つは、「私の子供はムーニーによって洗脳された」という方が、「若者が統一教会の信仰を持つことを決心した」というよりも、はるかに良い新聞の見出しになるからである。その質問者は言うであろう。「もちろん、私は新聞で読むことを全て信じているわけではない。だが確かに、火のないところに煙は立たないのではないか? とにかく、運動について聞いたことから判断すると、それが唯一の納得できる説明だ。」そして実に、(私が第5章で論じたように)洗脳の説明は通常は矛盾だらけなのだが、それ以外では説明し難いと思われることに対して首尾一貫した説明を提供することができるのである。(注23)誰かが誰かの脳を洗って、異質な信仰と動機を挿入するという考えは、確かにそれ以外では理解不能な行動を説明するための強力な比喩を提供した。そして過去半世紀の間に戦争捕虜たちに対して誘導された「思想改造」の研究は、すでに私が同意したように、人々の有する一連の信条を別の信条に変えるようになるさまざまなプロセスには、「いくつかの」類似性があることを明らかにした。

私は自問した。「だがなぜ、ムーニーたちと直接の比較がなされるのか? なぜ彼らが選ばれるのか?」実際、統一教会は決して新入会員たちを洗脳していると非難されている唯一の運動ではない。「洗脳」という言葉そのものが流行ったのは比較的最近のことであるが、似たような非難(恐らく、魔法の言葉や催眠術師のような力を使うということによって)が、人々の信仰や実践に望ましくない急激な変化が起きたと思われたときの説明として用いられたのは、新しいことではない。その変化は、無力な犠牲者の手に負えない力によって引き起こされたというのである。過去20年間、洗脳の非難は、シンバイオニーズ解放軍(パティ・ハーストを誘拐したグループ)のようなグループや、ある30代の女性が「不相応な」相手と結婚したいと宣言した後に、(「不適切な相手の支配下にあるという理由で」)「ディプログラムされなければならなかった」といった事例に適用されてきた。(注24)この本を書いている時点で、クリシュナ意識国際協会は、クリシュナの信者が、後にディプログラムされた15歳の少女を洗脳したと訴えられた裁判で、970万ドルの支払いを命じる判決を受け、これに対して控訴している。(注25)

10章248ページ

「何かをする」:政府の余剰チーズを地方の行政機関に配るボランティア・プロジェクト(10章248ページ)

10章249ページ上

「ボルタ川上流での国際救援友好財団(IRFF)(10章249ページ上)

10章249ページ下

ボリビアの洪水被害者に米を支援(10章249ページ下)

10章250ページ

日本からタイへの統一教会員による医療奉仕団(10章250ページ)

(注19)ムーニーは恐らく、L・タイガーとR・フォックスの「帝国の動物」ロンドン、セッカー&ワーバーグ、1971年を、無神論的で還元主義的なマルクス主義の視点から書かれたものと非難するだろう。だが、第5章(「ギブアンドテイク」という題がついている)は、「帝国の動物(人類)」にとって、取る機会と共に与える機会を持つことがいかに必要であるかを論じている。そして現代社会ではその構成員が価値ある目標に寄与していると感じることが困難であることを論じている。
(注20)B・R・ウイルソン「社会学的視点から見た宗教」オックスフォード、オックスフォード大学出版、1982年。またD・マーティン「イメージの破壊:キリスト教の理論と実践の社会学」オックスフォード、ブラックウエル、1980年、第9章を参照せよ。
(注21)15歳の名付け子の堅信式に出席した後、私は堅信式を受けるまでの授業の中で、教区牧師が興味ある議論をしているのを聞いた。「堅信式の後には若者たちは何をするのか?」と私が尋ねた。教区牧師はぼんやりした様子であった。「つまり、これらから彼らと会合があるのか、ということだが」と聞くと、「はい、毎週火曜日の夕方に、ピンポンをします」と答えた。これに関連する興味深い統計については、L・フランシス 「十代の若者たちと教会」ロンドン、コリンズ・リタージカル出版、1984年を参照せよ。
(注22)新宗教に対する反応に関する詳細な分析については、次のものを参照せよ。A・D・シュープJrとD・G・ブロムリー「新しい自警団員:ディプログラマーと反カルト主義者と新宗教」バーバリー・ヒルズ、ロンドン、セージ出版社、1980年。またD・G・ヒル「オンタリオにおける精神開発集団、セクト、カルトの研究:オンタリオ政府への報告」トロント、1980年の特に第6章を見よ。
(注23)洗脳の説明に関するこの無矛盾性と統合性の区別をする上で、ジェームズ・ベックフォード(個人的な情報交換)に感謝する。またベックフォードの「回心を説明する」ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・ソシオロジー、第29巻p.246-62を参照せよ。
(注24)この実践が始まってから、成人(20代から30代)は強制的なディプログラムを受けていた。その理由は、彼らがプロテスタントからカトリックに転向したとか、またホモの兆候を示したとか、あるいは両親が許可しない人との結婚を望んだというものであった。以下を参照のこと。D・ブロムリーとJ・リチャードソン(編)「洗脳・ディプログラミング論争:社会学的、心理学的、法律的、歴史的視点」ニューヨーク、エドゥイン・メレン・プレス、1984年。M・D・ブライアント(編)「カナダにおける宗教の自由:ディプログラミングとメディアによる新宗教の報道」ドキュメンテーション・シリーズ第1号、トロント、宗教的自由保護のためのカナダ人、1979年。H・リチャードソン(編)「ディプログラミング:論争の記録」ニューヨークのアメリカ市民自由連合と、宗教ディプログラミングについてのトロント神学校会議のために、1977年に準備された。H・リチャードソン(編)「新宗教と精神衛生」ニューヨーク、エドウイン・メレン・プレス、1980年。
(注25)ジョージ対クリシュナ意識国際協会、サンタ・アナ、カリフォルニア、1983年。

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