アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳22


第2章 統一教会:その歴史的背景(9)

運動はまた、当局ともトラブルを起こし始めていた。IOWCメンバーのビザが切れ、1974年9月までに国外退去手続きを受けた外国人メンバーが583人いた(注156)。しかし、最も頑固な抵抗は、何人かのメンバー自身の親たちから来た。心配した家族たちが集まって小さな自助グループを形成し始めた。「反カルト運動」という言葉が生まれ、それは統一教会に対してだけでなく、公衆の注目を集めつつある他の新宗教に対しても反対する団体や個人の数が増加していることを示していた(注157)。反カルト運動のメンバーたちはニューズレターやメディアを通して批判的情報を広め、政府の役人やその他の組織の職員たちに対するロビー活動を行い、新宗教の実践を規制したり、カルトとの関係を断つよう個々のメンバーを説得するために、さまざまな方法を用いたり提唱したりした。説得の手法は、信者たちが来るのも去るのも自由な状況下で行われる非公式のカウンセリングから、違法な拉致や「ディプログラミング」まで多岐にわたっていた。最も極端な例では、ディプログラミングの過程には、「被害者」をワゴン車の後ろに押し込んでモーテルに連れていくことが含まれていた。そこで彼は、眠ろうとすればいつでも起こされ、言葉と暴力による虐待を受け、彼が「正気に戻り」、ディプログラマーがそれを消し去るために雇われたすべての信条を放棄するまで、鍵を掛けて常に監視されたままになるだろうと告げられた(注158)。決してすべてのディプログラミングが攻撃的なテクニックを用いたわけではないが、その実践に対する恐れは、部外者に対して新宗教のメンバーたちが感じる懐疑心を増大させた(注159)。正確に(あるいは大まかにでさえ)、何件のディプログラミングが実践されたかを見いだすのは実際には不可能だが、1979年半ばまでに400人の統一教会メンバーがディプログラミングを受けてきたということが報告されてきた。そして彼らのちょうど半数強が、結果的に運動に戻ったということも主張されてきた(注160)。

ミスター崔やミス・キムのグループは1960年代の終わり頃にはかなり成功していたが、日本と韓国における運動の数的成長や組織的洗練には及ばなかった。正確な数字を得ることは困難である。一人の初期メンバーは、1967年に彼女が運動に初めて出会ったたとき、アメリカにはおそらく約50人のメンバーがいただろうと報告している(注161)。はるかに高い数字が報告されてきた事実にもかかわらず、宣教活動が10年目の1969年の時点で、西洋全体における改宗者の数は250人を超えていたとは思われない(注162)。

おそらく、1970年におけるアメリカの改宗者の合計は300人以下(注163)で、1971年でもまだおよそ300人(注164)で、1972年までにおよそ400人(注165)だったようだ。かつては高い地位の職員だったが、現在は運動を去っている一人の人物は、500人の名簿を持っており、それは1973年における全米のメンバーで構成されていると私に語った。文がアメリカに移住したときから、運動は急速に拡大したと報告されている(注166)。1974年12月に、当時運動のアメリカ教会長だったニール・サローネンは、会員は3000人近くいるとメンバーたちに告げた(注167)。運動とその反対者の双方がときどき、30000人という高い数字を挙げているが、ロフランドは、この時期(1974年)の計画記録では、リーダーたちが2000以上のメンバーについて話したことはなく、それに宣教師訓練のビザでアメリカに滞在しているおよそ600人の外国人メンバーが加えられると報告している(注168)。1978年にサローネンは、35000人のアメリカ会員がおり、そのうちの7000人がフルタイムだと主張した、と報告されている(注169)。一年後にその数字は、37000人だと報告され、同じくそのうちの7000人がフルタイムだとされた(注170)。しかしながら、フルタイムのメンバーは一度も4000人以上になったことはないという可能性がある(注171)。1981年の夏に、私がより信頼できる情報提供者の一人は、合衆国の1800人のメンバーの名前が載っているリストを見たと私に告げた。もちろん、はるかにもっと多くのメンバーが1982年の「祝福」のためにニューヨークに集まったが、これらの多くは「70カ国以上の国々」から来たのだった(注172)。世界全体の会員は数百万人になるとしばしば主張されてきた。私の「当て推量」に確信はないが、もしフルタイムメンバーの合計人数が(1980年代初期までに)5万人を超えたのであれば驚きである(注173)。また、もし会員の合計が25万人に達したとすれば、それも驚きである。

自発的な脱会の高い数字はしばしばムーニーと彼らの反対者の双方から無視され、双方とも勧誘の成功を指摘するのが好きだ。500人の名簿を持つ元メンバーは、1980年の夏までに、これらのうち300人が脱会したと私に告げた。大抵は非常に信頼できるもう一つの情報源から、私は1970年代に、アメリカの統一教会におよそ3万人が入会し、「かつ」脱会したと聞いた。この主題については後で戻るが、高い離脱者率は西洋における運動のほぼ全期間を通じての特徴であるということが、ここで観察される(注174)。

1970年代後半に、統一教会と反カルト運動の双方がその活動を拡大した。私はもう一冊の本の中でこうした後の展開の異なる側面に言及するつもりだが、おそらく主な出来事のいくつかを簡単に概観すれば、西洋における統一教会の歴史について、この紹介的内容を結論づけるために有益な全体像を見ることができるであろう。

1970年に教会は、文が合同結婚式で791組のカップルを「祝福」したとき、ギネスブックに載った。この記録は1975年2月8日に、教会が20カ国の異なる国々から来た1800組のカップルをソウルで祝福したことで、世界的な重大ニュースとなったときに、完全に破られた。その記録は、1982年7月1日に2075組のカップルがニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで祝福されたとき(注175)、さらにまた1982年10月15日に5800組のカップルがソウルで祝福されたときに超えられることになった。(注176)

1976年5月に教会はマンハッタンにあるニューヨーカー・ホテルを、報告によると5百万ドルで買った。翌年、ティファニー・ビルは240万ドルで運動に売却された。運動は漁業を始め、マサチューセッツ州グロースターで相当の反感を引き起こし、また噂によれば、至る所で地方共同体の生活を脅かした。それはまた、造船業と機械産業も展開した(注177)。

1982年、ソウルのリトル・エンジェルス学校における「マッチング」式で、文が(デヴィッド・キムに助けられて)結婚相手を選んでいる。「兄弟たち」はホールの片側に、「姉妹たち」はもう一方の側に座っている。(2章66ページ上)

1982年、ソウルのリトル・エンジェルス学校における「マッチング」式で、文が(デヴィッド・キムに助けられて)結婚相手を選んでいる。「兄弟たち」はホールの片側に、「姉妹たち」はもう一方の側に座っている。(2章66ページ上)

1982年10月、ソウルにおける5837組のカップルの祝福。文夫妻は白い式服を着て、カップルが列を成して通り過ぎるとき、彼らに聖水を振りまく。(2章66ページ下)

1982年10月、ソウルにおける5837組のカップルの祝福。文夫妻は白い式服を着て、カップルが列を成して通り過ぎるとき、彼らに聖水を振りまく。(2章66ページ下)

 

(注156)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」。
(注157)アンソン・D・シュープJrとデヴィッド・G・ブロムリー『新しい自警団員:ディプログラマーと反カルト主義者と新宗教』バーバリー・ヒルズ、ロンドン、セージ出版社、1980年。
(注158)テッド・パトリックとトム・ディユラック『子供に自由を』ニューヨーク、ダットン、1976年は、パトリック(「黒い稲妻」というニックネームで知られている)が実行してきた、もっと暴力的なディプログラミングのいくつかを記述している。
(注159)デヴィッド・G・ブロムリーとジェームズ・T・リチャードソン(編)『洗脳・ディプログラミング論争:社会学的、心理学的、法律的、歴史的視点』ニューヨーク、エドゥイン・メレン・プレス、1984年。M・D・ブライアント(編)『カナダにおける宗教の自由:ディプログラミングとメディアによる新宗教の報道』ドキュメンテーション・シリーズ№1、宗教的自由保護のためのカナダ人、トロント。C・エドワーズ『クレイジイ・フォー・ゴッド』エングレウッド・クリフス、ニュージャージー州、プレンティス・ホール、1979年。B・アンダーウッドとB・アンダーウッド『天国の人質』ニューヨーク、クラークソン・N・ポッター、1979年。H・リチャードソン(編)『ディプログラミング:論争の記録』ニューヨークのアメリカ市民自由連合と、宗教ディプログラミングについてのトロント神学校会議のために、1977年に準備された。H・リチャードソン(編)『新宗教と精神衛生』ニューヨーク、エドウイン・メレン・プレス、1980年。S・スワットランドとA・スワットランド『ムーニーからの脱出』ロンドン、ニュー・イングリッシユ・リバティ、1982年。
(注160)サローネン『クリスチャニティ・トゥディ』1979年7月20日付に報告されている。
(注161)ノーラ・スパージン、R・ケベドーとR・サワツキィ(編)『福音派教会と統一教会との対話』ニューヨーク、ローズ・オブ・シャロン・プレス、1979年。
(注162)当時メンバーだったアレン・テト・ウッドは、1969年に統一家庭(ミス・キムのグループのメンバー)は100人から120人の間だったと報告している:ウッド『ムーンストラック』281ページ。ロフランドは1974年6月までに米国全土に少なくともそれくらいの会員がいたと報告している:ロフランド『終末論を説くカルト』257ページ。
(注163)この数字は、1971年1月の指導者会議で作成されたエドウイン・安の「二倍化計画」から計算されており、ミクラーの「ベイエリアにおける統一教会の歴史」168ページに引用されている。しかしながら、ロフランド『終末論を説くカルト』281ページは、1971年に「およそ500人」のメンバーがいたと見積もっている。
(注164)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」254ページ。
(注165)サローネン「アメリカ統一教会の歴史」174ページ。
(注166)同書、241ページ。
(注167)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」254ページ。
(注168)ロフランド『終末論を説くカルト』347ページ。
(注169)ジョゼフ・M・ホプキンズ「彼らの領土でのムーニーとの出会い」、『クリチャニティ・トゥディ』第22巻、№20、1978年8月付。
(注170)ジョン・マウスト「カルト観察批判と知恵比べをするムーニーたち」『クリスチャニティ・トゥディ』第23巻、№19、1979年7月付。
(注171)デビッド・テイラー「新しい人々の成り立ち:アメリカ青年の統一教会入会」、R・ウォリス(編)『千年至福説とカリスマ』ベルファースト、クイーンズ大学、1982年に在中は、「教会自体の内部出版物『希望の日ニュース』は常に、専属メンバー全体をおよそ2000人と見積もってきた」と報告している。
(注172)『トゥデイズ・ワールド』1982年7月号、19ページ。また、異人種間と異文化間の統計値のために、23ページも参照。
(注173)12000組弱のカップルが合同結婚式に参加し、そのうちの何組かはもはや専属メンバーではなくなっている。
(注174)ロフランド『終末論を説くカルト』、ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」、ウッド『ムーンストラック』が、改宗者の脱会に関するそのような報告の中に含まれる。
(注175)『トゥデイズ・ワールド』1982年7月号。
(注176)『トゥデイズ・ワールド』1982年11月号。
(注177)例えば、『ヒューストン・クロニクル』1981年9月4日付、『ミルウオーキー・ジャーナル』1979年1月18日付、『ニューヨーク・タイムズ』1981年7月28日付。

 

 

 

 

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