アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳82


第10章 結論(4)

やや違った言い方をすれば、お金を儲けることや、激しい出世競争で「成功する」ことに主要な関心をもっている人々に統一教会がアピールすることはなさそうである。それは現代社会の物質主義よりも「高い」理想、すなわち、宗教的な理想を提示するのである。しかしそれは、あの世について瞑想したり、神秘的な体験を通じて自己の内的な神性を垣間見るために、信者たちに世俗から離れる方法を提供するといった類の宗教ではない。また、会員たちに来世における報いを待つように命じるような類の宗教でもない。それは万人のためにこの世をより良い世界に変革することを約束する宗教である。それはまさに実現可能な最善の世界であり、神が最初にエデンの園を創造したときに意図した世界である。天国が実際にどのようなものであるかの詳細については個人の想像に任されているが、次のようなことが知られている。残酷さ、不確実さ、妥協が消え去るであろう。誰もが神の原理によって、何が真実であり善であるかを知るようになるだろう。全ての人が自分の立場を知るであろう。それは愛情深く思いやりある神が各個人と愛と思いやりのある関係を結ぶ世界であり、その中で個々人もまた、神を中心とした家族を構成する不可欠な部分としての自己を見いだし、原罪から解放された子供たちは、新しい時代の継承者として生まれてくるだろう。
詳細はどうあれ、その目標を達成するための手段は神が知っており、さらに神の原理を明らかにし、完璧とは言えない弟子たちのために完璧な模範として行動するために来たメシヤが知っていると信じられている。そして目標はある意味で抽象的に見えるが、手段は全くそうではない。個々人は霊的な指導を与えられるだけではなく、非常に実務的な性格を持つ仕事を与えられている。ムーニーが個人の目標を追求する際に、何を達成しているのかを「見る」ことは可能である。そしてこれらの当座の目標が資金集めや新会員獲得の形態をとっている限り、毎日の仕事の成功と失敗を計算することさえ可能である。厳格な組織と規律であるということは、誰もが何を達成しようとしているかを正確に知っており、また自分がより大きな統一された全体の一部であるということを意味する。しかしその組織は、交換可能な歯車によって動いている非人間的で官僚的な機械として示されているのではない。それは「真の父母」によって愛情をこめて世話された兄弟姉妹の献身的な家庭と見られているのである。蕩減の概念が意味することは、犠牲的なムーニーがする仕事が困難であればあるほど、より多くを達成するだろうということである。ただし、その犠牲も永遠に続くわけではない。自分の責任を全うするために挑戦を受け入れる人々は、天国の建設に貢献する結果を享受できるようになるまで、長く待つ必要はないと約束されている。

非ムーニーの選択肢
ここで非ムーニーの選択肢に話題を移せば、ある特定の個人に影響を及ぼす具体的な「圧力(プッシュ)」と、広範な個人に影響を及ぼすことができるより一般的な不満感とを区別することができる。コリンは比較的具体的なプッシュを体験していた例を示している。彼は麻薬を使用し、彼との結婚を望んでいた女性と深く関わっていた。彼は統一教会を思いも寄らないほどの平和の避難所として見た。

私は牢獄の扉が徐々に私を取り囲んでいるように感じ、本当に悲惨な人生が自分の前途に待っているのを見た。私はよく思ったものである。私がこうしたことを悩んでいるとすれば、他の人がこうしたことで悩んでいないなんてことがあるだろうか? 誰もが人生にこうした困難を抱えているということも知らずに、それらを打ち明けたり、お互いに話し合ったりする者は誰もいない。だから、誰もが自分だけの小さな世界に住んでいて、決してお互いを知り合おうとしない。結婚したカップルでさえ、こうしたことはある・・・。
私は(修練会に参加した)週末の後、ただ泣いていたことを覚えている。これまでの人生の中で味わったことがなかったような幸福感を感じた。そして人生で初めて、人類が行くべき真の方向性と真の希望を見た。本当にそうだったのだ。

コリンの状況はユニークなものではなかった。だが証拠が示唆するところによると、典型的なムーニーは同世代の人々と比べて自分自身が格別悲惨な状況におかれていると感じている傾向にはなさそうだ。もっと一般的なのは、新会員の候補者たちが自分自身を見いだしている社会は、一般的な幻滅と不満という背景を形成しているという以上の、何らかの直接的な脅威を与えているわけではないというケースである。こうした背景と対比して統一教会の選択肢が判断され、その結果として、ムーニーが「私の周りの悪なる社会が、ファミリーの生活こそ正しい道であることを示してくれた」と宣言するような、ある種の直接的な比較がなされるのである。
次に、これらのより一般的な社会の体験のどのようなものを、新会員候補者は統一教会の修練会に持っていくのだろうか? 私は、社会についての記述を「ありのままに」表現するつもりはない。もちろん、ムーニーの描写は彼らが統一運動の現役の会員であることに影響されていると予想されるだろう。だが、以下に示すのは、統一教会によって定義されたごとくの「外部の」社会の像を意図したものではない。ここでのわれわれの関心事は、新会員候補者が統一運動に出会う「以前」に、その人の意識に影響を及ぼしたであろう社会環境を理解しようという試みである。そしてそれはまた他の人々も、たとえ統一教会を実行可能な選択肢として選ばなかったとしても、認識するであろう社会環境である。その描写は、統一教会に入る以前の生活についてのムーニーたちの説明からのみ引き出されたのではなく、私が話をした対照群と非ムーニーの反応から直接・間接に引き出されたものでもある。それは、前章において直接的な社会経験が考慮されたような種類の人々に対して、統一教会によって提示された選択肢に向かってプッシュすること(それから引き離すのではなく)に貢献するような社会の側面に焦点を当てているという点において、選択的な描写である。
戯画化して描くと、新会員候補者は非統一教会の世界を、人種差別と、不正と、熾烈な競争と、方向性の欠如を特徴とした、分裂し、混乱し、混沌とした社会であると見ることができるであろう。その社会は統制を失っていて、差し迫った大惨事に向かっているよう見えるのである。彼は、もはや絶対的な価値観や基準を認識することのできない、不道徳な(あるいは道徳不在の)社会を見るであろう。功利主義的な関心と、快楽を求め、お金を儲け、権力を渇望する人々の欲求の前には、すべてが相対的である。骸骨のように痩せた子供たちの哀れな目が、オックスフォード飢餓救済委員会(訳注:発展途上地域を支援する英国のNGO)のポスターの中からとがめるように見詰めている。そのポスターはカフカ的なユーモアで、カラーテレビや、豪華な自動車や、外国産のワインのピカピカの広告と一緒に並んでいる。それは、宗教的な問題や霊的な探究を前科学的な時代の無意味な残滓として退けたり、神学大学の象牙の塔だけに閉じこめてしまうような、世俗的な社会なのである。伝統的な教会は依然として機能しているものの、そこには神に捧げるエネルギーは形ばかりの儀式を時折するだけで十分だと考えている偽善的で無関心な信徒たちや聖職者たちが(まばらに)住んでいるだけである。

10章241ページ
ロンドンのトラファルガー広場で行なわれた「ポルノは愛を破壊する」と題する集会(10章241ページ)

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