アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳18


第2章 統一教会:その歴史的背景(5)

日本の経験の影響

 統一教会日本支部によって得られた教訓は、西洋における運動の後の発展にとって決定的に重要なものとなった。日本への最初の三人の宣教師は完全に失敗した(注71)。崔翔翊は、そこに1958年に密入国したとき数カ月間投獄され、前任者たちと同様に、ほとんど丸一年間何の成功もなかったが、最終的には最初の日本人メンバー(一人の「非常に活動的な女性」)を回心させることができた(注72)。真の突破口が開かれたのは1962年後半であり、そのとき、1938年に日本で設立された日蓮系の仏教宗派である立正佼成会の若い指導者グループの改宗が起きた(注73)。そのとき以来、統一教会は日本における何百もの新興宗教運動のように(注74)、ますます強力になっていくように見えた。そして、1965年に崔は日本を出発して(注75)、カリフォルニアに移り、日本で発展させた多くの実践方法を持ち込んだ。

 ベイエリアにおける教会の顕著な特徴となり、その成功の結果として、後にマインド・コントロールと洗脳テクニックというかなり広まった非難を引き起こすことになった日本人の運動の一つの特徴は、体系的な訓練プログラムの開発だった。ロフランドの時代の運動が用いた、むしろ無計画で形式ばらない手段とは対照的に(注76)、日本人は入会する可能性のある人々に対してもメンバー自身に対しても、その「修練会」において非常に高い洗練のレベルに到達した。正規のスタッフが教育に専念し、講義は明瞭に組織化されたパターンに従った。ミクラーは、以下の1966年の「日本からの報告」を引用している。

「スケジュールは集中的なグループ活動によって特徴づけられる。修練生は定期的に8人から10人のグループで集まって、食事や祈祷をしたり、疑問や困難について話し合う。彼らは常に一人のリーダーの指揮下にある。修練生の就寝後、リーダーたちは評価と計画のために集まる。彼らは修練生のリーダシップの質や参加、そして起こり得るあらゆる問題について、注意深く観察する」(注77)。

 韓国と日本の間にあった恨みのゆえに、日本の統一運動は自らの起源よりもむしろ教えそのものに焦点を合わせる傾向があった(注78)。これと同じことが、ベイエリアで1970年代の大部分を通して継続的に実践されていた。そこでは、改宗者が数日間あるいは数週間そのグループと一緒にいるまで、文の名前を知らされることがなかった(第4章、第7章を参照)。運動が1970年代に受け始めた悪い評判によって、伝道者たちは、入会する可能性のある人々と堅固な関係が確立されるまで、自分がムーニーだと宣言することが少なくなったことは確かである。しかし一般的に言って、「オークランド・ファミリー」のメンバーたちは、西洋における他の大部分のメンバーよりも、韓国人メシヤとの関係を公開することに関して、はるかに消極的であったということもまた事実である。

 日本における雇用は通常、一つの会社に生涯にわたって関わることを意味する。日本の会社は、西洋の会社に見られるよりもはるかに多く、福祉や余暇の時間の便宜に対して、ある意味で「家族的」関心を提供する。これは、戦後の日本において学生が名誉と影響力のある地位を保持していたという事実と相まって、メンバーたちが布教活動を学生たちに集中させる方向へと導いた(注79)。後に全国大学連合原理研究会(CARP)と改名することになった全国的な学生運動が1964年に設立されたのは、日本の早稲田大学においてだった。CARPは1973年までアメリカでは組織されなかったが、現在では西洋において統一教会の新会員を獲得するための主要な団体となっている。

 ミクラーは、ミス・キムは霊的預言を通して聴衆に希望を抱かせたが、崔氏はユートピア的思想で希望を抱かせた(注80)と報告している。日本はかつてないほどの経済成長のまっただ中にあった。新興宗教運動は、復興の情熱に巻き込まれ、来世的期待よりもむしろ現世的期待に焦点を当てていた。崔もまた、地上天国の具体的な思想を心に抱いていた。「彼は、私たちを希望で満たしてくれた。リンゴはスイカのように大きくなった。近所に行くのに、私たちはエスカレーターに乗ってそこへ行くことができる・・・」(注81)。

 そのようなものが、カリフォルニアに輸出され、「再教育センター」として知られるようになったものに組み込まれたビジョンだった。さらに、その後の10年間を通してカリフォルニアの新入会員たちに教えられたのは、『原理講論』の厳密に神学的な解釈を、はるかに人間主義的な哲学に翻訳したビジョンだった(第三章参照)。したがって、統一神学はまず日本人の関心を満たすために翻訳され、さらにベイエリアの世俗的・理想主義的青年求道者たちの関心を満たすために翻訳されたのである。「もし、ミス・キムがスウェーデンボルグを思い起こさせる形而上学的真理や(統一神学における)個人的癒しに反応したとすれば、崔氏は倫理的真理と社会再建の可能性に反応したのである」(注82)。オリジナルの韓国の神学を直訳的に教えるのではなく、崔は1969年に一連の小冊子として出版された『教育の原理』と呼ばれる改作を教えた(注83)。

 崔が日本で始めたもう一つの実践は、共同生活であった(注84)。それは運動の韓国支部では起こったことがなく、今日もなお起こっていないものである。これは志を同じくする信者の共同体の強さと結合力をグループに提供し、部外者との接触という侵食性の懐疑主義からそれを保護した。ミス・キムのグループは自分たちのことを「ファミリー」と呼んだが、ミクラーは次のように論じている。「強力な共同体的ライフ・スタイルが欠如していたことと、年齢が著しく不均衡であったことが、家族の特徴である明確な権限系統よりも、同等な関係を作り出した(注85)。ミクラ―は、崔の元での共同体について、あるメンバーの描写を引用している。その描写は、区別と強力な親のコントロールを伴っており、統一教会の共同体だけでなく、次の10年間を通して、多くの共同体について書かれ得たであろう。

 我々のファミリーの構造は、パパさん(崔氏)とママさん(崔夫人)を頭として成り立っている。パパは我々のファミリーの教育運動の部分に携わっている。彼は常に、我々の原理を宣伝する最善の方法は何か・・・我々のファミリーの兄弟たちの話しや講義が上手になるための最善の教え方は何か・・・いかにして著名な人々に影響を与えることができるかについて考えている。・・・ママさんは反対側から、外的というより内的に働きかける。彼女は、ファミリーのメンバーたちの家族関係や自己理解における問題、そして短気、傲慢、鈍感といったような彼ら自身の弱点や欠点を克服することに携わっている。パパさんはファミリー全体に働き掛け・・・ママさんは個々の兄弟や姉妹に働き掛ける。パパはとても外向的な人で、常に大きなことを考えている・・・ママは内向的な人で、自己の人格の成長について考えている・・・したがって、彼らは陽陰の象徴であり、正反対だが、極めて相互補完である(注86)。

 共同生活の出現と共に、日本人は共同で働き始めた。一軒一軒家庭を訪問して廃品を集めることから始め、後には教会が運営する小さな企業で働いた(注87)。また、日本の教会の組織は、少なくとも文がニューヨークに定住した1970年代初期までは、アメリカの教会の組織よりもはるかによく構造化されていた。日本教会は強力な本部をもっており、それはいくつかの異なる部局に組織され、地区制度を管理していた。それらの地区は1966年までに36の県単位の教会に順次分割された(注88)。

(注71)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」、97ページ。

(注72)マチャック『統一主義』26ページ。

(注73)一郎その他(編)『日本の宗教:文化庁による調査』ニューヨークとサンフランシスコ、講談社インターナショナル、1972年、209-10ページ。ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」99ページ参照。

(注74)マックファーランド『神々のラッシュ・アワー』参照。

(注75)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」88ページ。

(注76)J・ロフランドとR・スターク「救世主になる:逸脱した視点への回心の理論」、『アメリカ社会学レビュー』第30巻、1965年、862-74ページ。およびロフランド『終末論を説くカルト』。

(注77)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」101ページ。「日本からの報告:訓練プログラム」『ニュー・エイジ・フロンティア』1966年2月号からの引用。

(注78)同書、1022ページ。

(注79)同書、103, 240ページ(マチャック『統一主義』26ページは、1962年をCARP設立の日付にしている)。

(注80)同書、104ページ。

(注81)同書、松本道子「西川先生の歩んだ道」、『信仰と生活』東京、世界基督教統一神霊協会、1976年、32ページ、未出版の英訳に在中。

(注82)同書、124ページ。

(注83)同書、123ページ。

(注84)同書、100ページ。

(注85)同書、111ページ。

(注86)同書、112ページ。エドナ・リーの未出版の論文「家庭」からの引用。

(注87)同書、100ページ。

(注88)同書。

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