第6章 修練会に対する反応(7)
アメリカ人にとって「統一原理」の第一章(そして「歴史」)が相対的に重要になっているのは、カリフォルニアでの「統一原理」への導入の初期段階に見られるように、宗教的な側面よりもむしろ社会的側面を強調していることを反映している可能性がある。表8の中でもう一つ興味深いのは、回答者のほぼ四分の一が、統一原理を初めて聞いたときに最も印象を受けたのは、統一教会のイエスの使命についての解釈だったと答えていることである。数人の会員(特に、カトリックとして育てられてきた人々)は、なぜイエスは死ななければならなかったのかについて、いつも思い悩んできたと私に語った。イエスが世界に救いをもたらしたとしたなら、どうして今もなお悪い世の中なのだろうか、というのだ。
見れば分かるように、少数とはいえ無視できない数の回心者が、世界の諸問題に対する説明として堕落の物語によって影響を受けている。厳格な道徳的(性的)基準を常に維持しようとしてきた者たちは、世間一般の(性に対する)寛容性に対する嫌悪感を共有できる者たちを見つけてホッとしている。性関係を通じて幸福を得ようとしてきた者たちにとっては、原理の堕落の説明は、自分たちが求めていたものがなぜ得られなかったのかを説明しているように思われた。ある青年は次のように書いた。
私は「統一原理」を聞いたが、何の影響も受けなかった。それから数日後、私は一年間一緒に暮らしてきた女性と深い議論をした。私たちは非常に不幸で、どうしてそうなのかを何度か見出そうとしてきた。この機会に私が非常に強く感じたことは、私たちが双方とも話すことを非常に恥ずかしがっていた重要なことがあるということだった。私がそのことを明らかにすると、それは統一教会の原罪についての教えと類似していた。私はびっくりして、その次にとても幸福になり、自由を感じた。陶酔した気分になった。この体験の故に、私は統一教会に入会することになり、これが多くの困難にも関わらずに統一教会に留まっている力となっている。
半数以上のムーニーが回心の体験をしたと主張した。それは多くの場合、非常に深い宗教的または霊的な性質のものであり、これこそが、この運動に献身しなければならないと彼らに確信させたものだという(注6)。彼らの大多数にとって、その体験は5分から30分の間続くものだったが、数秒間だけだったという者もいれば、数日間続いたという者も数名いた。独りでいたときに体験した回心者もいるが、講義を聞いているときに起こったというのが大部分だった。
回心の体験例を選ぶことは難しい。というのは、それは非常に広範囲な出来事と感情を含んでいるからである。非常に劇的に話す者もいれば、そうでもない者もいる。しかし、回心者自身は全て、これが人生にとって重要な転換点だと見ている。第一の例は、あるイギリス人の新会員が描写した、極めて典型的な「静かな」体験である。
街頭でファミリーの誰かに初めて会ったとき、その日の夜にセンターに行くことを決めた。そこに引っ張られていくのを感じた。センターに到着すると、会員たちに非常に歓迎されているのを感じた。階段を上ってラウンジに行き、第一章の講義を聴いた。私はたちまち深い平安と喜びを感じた。心の中で教えを受け入れることができた。家に帰ると、信じられないほどの喜びと幸福感を味わった。そしてどういうわけか、神が存在していることが分かった。ベッドに横たわったものの、眠りたくなかったことを覚えている。この気持ちがどこかへ消えてしまうのではないかと感じたからだ。翌朝、依然として神が自分と共にいることを感じることができた。このような素晴らしい体験はこれまでの人生の中で味わったことがなかった。神の存在を受け入れることができたのは、こうした基盤があったからだ。
別のイギリス人は次のように書いた。
初めて「結論」を実際に聞いたとき、私は愛と喜びに完全に陶酔して新生する体験をした。――私の両親に対して神を強く証したほどだった――実際、新生体験の後の一週間、私は神についてのみ語り続けた。両親は、私が狂ったのではないかと思った。だが実際、私はただ霊に満たされ、幸福で、歌い続け、愛に満たされていた。驚くべき体験だった。今この瞬間にもそれを感じる。
この運動が「私に対する神のみ旨」であるかどうかの指針として、「しるし」が欲しいと祈り続けていたあるアメリカ人は、次のように書いた。
目をしっかりと閉じ、頭を地面につけながら、私は深く祈っていた。すると、白い光がひらめき(非常に曇った日だった)、まるで私の祈りが聞かれたかのように、大きな平安と静けさを感じた。共に祈っていた兄弟もまた、同時に同じ体験をして、同じように感じた。
必ずしも全ての体験が心地よいものばかりではなかった。確かに何かが起こっていることは感じるが、それが何であり、どうしてそうなのかがよく分からないという者もいた。「『結論』を聞いたら、逃げ出したくなった。怖くなった」という者もいた。その人は、回心の体験をしている間、「崖から落ちているように感じ、固い地面に落ちるのか、柔らかい地面に落ちるのか分からなかった。だからただ目を閉じて、私の霊の親に手を伸ばした」と打ち明けた。
非常に多くの回心者が、文についての夢を見て、それが入会を決意する要因となったと言った。また、文や統一教会を知る以前に、文についての夢を見たという者も数名いた。あるアメリカ人の回心者は次のような体験を語った。
文師に出会う前に、・・・私はイエスについての別の夢を見た。イエスが文師の背後に立っていた。文師の頭は白い雲で覆われていたが、今の私にはそれが彼だったことがわかる。なぜなら、彼の身体つきを知っているからだ。ともかく、彼は腕を開いて、彼のもとに来るよう、私に霊的に指示した。彼は私を抱きしめた。私は自分の生涯で初めて、自分の本当の家を見つけたように感じた。その時に感じた愛情のゆえに、私は泣きながら目を覚ました。
(注6)オックスフォード大学マンチェスター校の宗教体験研究ユニットとデービッド ヘイに、彼らが用いたいくつかの質問の言葉遣いを私の研究に利用することを許可してもらったことに対し、感謝している。以下を参照せよ。T.ビアズワース「臨在感」オックスフォード大学マンチェスター校、宗教体験研究ユニット、1977;A.ハーディ「人間の霊性」オックスフォード、オックスフォード大学出版、1979;D.ヘイ「内的宇宙の探求:20世紀においても神は存在し得るか?」ハモンズワース、ペンギン、1982;E.ロビンソン「オリジナル・ビジョン」(1977)と「疑問と共に生きる」(1978)、どちらもオックスフォード大学マンチェスター校、宗教体験研究ユニットの出版。