日本人の死生観と統一原理シリーズ04


(4)キリスト教の死生観

これまで三回にわたり、日本人の死生観に大きな影響を与えた外来思想である古代インドの思想と古代中国の思想、そして日本固有の死生観である「祟り」と「先祖祭祀」について説明してきました。今回説明するキリスト教の死生観は、必ずしも日本人の伝統的な死生観とは言えないかもしれませんが、少なくとも400年以上前に日本に伝えられた思想であり、多くの迫害を受けても受け継がれ、現在でも国民の1%近い人々が信じている宗教の死生観という意味で扱う価値があると思われます。

また、統一原理はユダヤ・キリスト教の伝統の上に立つものであるため、既成のキリスト教の死生観が統一原理と比較してどのようなものであるのかを見ておくことは意義あることと思われます。

 

1.使徒信条に見る「からだの復活」信仰

キリスト教の死生観の重要なポイントに「からだの復活」に対する信仰があり、これはキリスト教の正統信仰において重要な位置を占めていることを理解する必要があります。キリスト教の信条の中でも最も基本的で、最も古くからある信条の一つである「使徒信条」は、以下のような内容になっています。

天地の創造主、全能の父である神を信じます。父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。(2004年2月18日/日本カトリック司教協議会認可)

この中に明確に「からだの復活」を信じると書かれているように、それを信じることは正統的なキリスト教の信仰告白の重要な要素であったことが分かります。

キリスト教信仰には、まずイエス・キリストが復活されたことを信じ、それを土台として、キリストを信じる聖徒たちが復活することを信じるという基本構造があります。

キリストの復活①

キリストの復活②
イエスの復活

新約聖書の言葉の中には、以下に示す聖句のように、イエスの再臨のときに死者が復活するという記述があります。

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。(テサロニケⅠ4:16-17

死者の復活②

死者の復活①
イエスの再臨のときに死者が復活する様子を描いた聖画

2.キリスト教における霊界の否定

キリストの再臨にともなって死者が肉体をもってよみがえると信じているということは、終末論的に見れば、カトリック教会、プロテスタント教会の全教派において霊界の存在が否定されることを意味します。

すなわち、キリスト教では人類始祖が堕落することによって、「霊的死」および「肉体の死」が起こったと考えており、「終末」が到来し、人間の救いが完成して「栄化」(栄光の体:ピリピ3:21)すれば、人間は「永遠の生命」を得て永生するようになるので、その「栄光の体」で生きる世界とは別の「霊界」は存在しなくなると考えるのです。

人間は、堕落することで肉体が朽ち果てて死ぬような卑しい存在となったため、その応急処置的な世界として、陰府(黄泉)と呼ばれる、「霊界のような」世界が存在するようになったと想定しています。

旧約聖書にはヘブル語で「シェオール」(陰府)、新約聖書ではギリシャ語で「ヘーデース」(黄泉)および「ゲヘナ」(地獄)が登場しますが、特に陰府(黄泉)の世界は、人間の肉体が朽ち果てた後に、最後の審判を受けるまで住む「死者の住居」と考えられています。

このように、キリスト教における「霊界」は、神が積極的な意図をもって創造された永遠の世界なのではなく、堕落によって副次的に生じた暫定的な世界としてとらえられているのです。

 

3.キリスト教の抱える根本矛盾

ここにキリスト教信仰の抱える根本矛盾があります。もし終末時に「からだの復活」が起こり、人間の救いが完結するとすれば、霊界の存在は否定されることになります。反対に霊界が永遠に実在し、「からだの復活」が起こらないとすれば、キリスト教神学の根本が崩壊することになってしまいます。ところが、現代においては多くの信徒たちが「からだの復活」ではなく永遠の世界としての霊界を信じているというのです。それゆえ、カトリック教会は1979年に『「終末論に関する若干の問題について」解説:教皇庁教理聖省書簡』を出版し、「もし、復活がなければ、信仰のすべての構造は、その基礎から崩れる」(p.6)と警鐘を鳴らしました。

フランスの神学者オスカー・クルマンは『霊魂の不滅か死者の復活か』(1958)を出版し、以下のような問題を提起しました。

パウロから始まる正統といわれるキリスト教神学は、「肉体の復活」を信じているのであって、死後の「霊魂の不滅」を教えているのではない。ところが多くのクリスチャンはいつの間にか、パウロの教えを忘れ、死後の「霊魂の不滅」を信じるようになっている。これはキリスト教の真正な教えと相容れない。

オスカー・クルマン 霊魂の不滅か死者の復活か

 

通俗的には「霊魂の不滅」を信じていた多くのクリスチャンが、この指摘に失望し、落胆したと言われています。このように、正統とされるキリスト教の信仰と、現実のクリスチャンたちの通俗的な信仰の間には大きな乖離があり、根本的な矛盾を内包しているのです。

また、キリスト教では、あくまでも信者一人一人が自分自身で信仰をもつことによって救われると説いており、基本的に個人主義の立場を取っています。したがって、「先祖の因縁」を否定し、子孫が功徳を積むことによって先祖が救われるという「先祖供養」も否定する傾向にあります。特に、福音派のプロテスタントでは、先祖を拝むことは「偶像崇拝」として否定されます。一方カトリックでは、「死者の為の祈り」という習慣があるので、先祖供養に対してより寛容な傾向があります。

いずれにしても、キリスト教においては日本人が大切にしている「先祖供養」に対して積極的な意義を見いだすことはできません。これが日本人にキリスト教が広まらない大きな要因の一つであると指摘する神学者や聖職者は数多くいますが、日本の文化に合わせてキリスト教の神学を変容させるという試みは、少なくとも主流のキリスト教においては積極的に行われてきませんでした。

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