神学論争と統一原理の世界シリーズ31


第八章 宗教の現在と未来 マインド・コントロールとは何か?

日本において「マインド・コントロール」という言葉が知られるようになったのは、山崎浩子さんが統一教会を脱会したときに出版された、スティーヴン・ハッサンの著書「マインド・コントロールの恐怖」(浅見定雄訳・恒友出版)によるところが大きい。(注1)この言葉はその後、地下鉄サリン事件(注2)で日本中を震撼させたオウム真理教を批判する際にも頻繁に用いられ、日本語としてしっかり定着してしまった感がある。

スティーヴン・ハッサン

スティーヴン・ハッサン

マインド・コントロールの恐怖

マインド・コントロールの恐怖

何もかもがマインド・コントロール
もともとこの言葉は、反カルト主義者たちが「カルト教団が用いている、信者の獲得と統率のためのテクニック」という意味で用いていたものだ。それが例によってマスコミにもてあそばれているうちに、反カルト主義者たちの意図を離れて言葉だけが独り歩きして行った感がある。今やなんでもかんでも「マインド・コントロール」という言葉が適応されるようになり、言葉としてほとんど意味をなさないほどに膨張してしてしまった。
マインド・コントロールとは直訳すれば「心を操作する」ということだが、いわゆるセルフ・コントロールのように自分で自分の心を操作して精神的なバランスをとろうとするような行為は、その意味から除外されている。すなわちそれは、かつて「洗脳」とか「催眠術」とかいう言葉で表現されていたような、人間を外部から操るためのテクニックという意味で使われているのだ。そしてそれを行使する主体は、自分の野望を達成するために人を利用しようとする動機をもっているとされる。

しかし最近のマインド・コントロール理論の特徴は、それが監禁とか拷問とか薬物投与などの特殊な方法を用いなくても、日常的な手段の組み合わせによっていとも簡単に人の思考の自由を奪い、奴隷のような状態に陥れることができるのだと主張しているところにある。その日常的な手段とは、強力な教え込みや情報操作、環境的な隔離や集団行動などによる個人の行動の支配を指している。これを長く受けることによって人は自由に発想する力と批判能力を失い、命令通りに動くロボットのごとき存在にされてしまうのだというのである。

しかしこの概念を拡大解釈して適応すれば、社会で行われているあらゆる行為がマインド・コントロールになってしまい、マインド・コトロールとは何かという定義の線引きが極めて怪しいものとなってくる。例えば、親が教育的配慮から子供に対して与える情報を操作し、一定の行動様式をとるように「しつけ」をすることも一種のマインド・コントロールと言える。またそれが親でなくて、教師や心理療法家によって行われることもあるが、この場合も同様だ。さらに企業による新入社員教育などは、マインド・コントロール以外の何ものでもないだろう。

さらにマスコミによる報道や、コマーシャリズムもまたマインド・コントロールに近いことは、実際に多くの人々が感じている。マスコミは一定のイメージを視聴者に与えようとする意図に基づいて情報を操作し、世論を操ることが多々ある。またコマーシャルの目的とは、自社の製品が素晴らしいというイメージを徹底的に視聴者の脳に焼きつけ、それが本当に必要なものかどうかを考える視聴者の批判的判断力を、一方的な情報の洪水によって圧倒することにある。したがってマインド・コントロールとは、私たちの日常のどこにでも転がっている、ごくありふれた現象であり、今さら問題視するようなことでもない、ということになるのである。

これに対して、いや確かにそうともいえるが、マインド・コントロールの問題点はその方法というよりは、それがカルト教団のような悪い集団に利用される危険があるからなのではないか? という人もいるだろう。しかし「悪い宗教」と「良い宗教」という区別も非常に主観的なものだし、次の節でも説明するように「カルト」という言葉自体もマインド・コントロールと同じくらい曖昧な概念だ。そしてもし「カルト」と呼ばれているような教団の行っていることが、前に述べたような広義のマインド・コントロールとは異なり、特別に有害なものであるというなら、そのことが科学的・客観的に証明されなければならない。

マインド・コントロールが含むトートロジー
もともとスティーヴン・ハッサンやマーガレット・シンガーなどの反カルト主義者たちが主張していた「マインド・コントロール」なるものは、宗教活動の法的規制を実現するために作り出された概念であった。彼らは自分達が社会の敵であるとみなしている新宗教運動を、法的に抹殺したかったのである。したがって彼らはマインド・コントロールという言葉が「カルト」と呼ばれる宗教団体がやっていることに限定したかったし、しかもそれが科学的に証明できる概念であると主張したかった。しかし現在では彼らの理論がアメリカの法廷で否定されることによって、マインド・コントロールは何ら科学的根拠をもたない言葉であり、新宗教の弾圧を正当化するためのプロパガンダ用語だったことが明らかにされている。

実は「カルト」と「マインド・コントロール」という言葉は、互いが互いを定義し合うという、トートロジー(同語反復)的な関係にある。反カルト主義者たちは端的にいえば、マインド・コントロールとはカルトが行っている手法であり、カルトとはマインド・コントロールを行っている団体である、といっているのに過ぎない。これは一種の循環論法であり、その具体的な内容は何かというと、客観的に判別することが不可能な、実に曖昧なものである。すなわちイメージのみが先行したレッテルに過ぎないということだ。

「マインド・コントロール理論」―その虚構の正体

「マインド・コントロール理論」―その虚構の正体

この経緯に関する詳しい学問的な解説は、増田善彦の著作『「マインド・コントロール理論」―その虚構の正体』(光言社)で詳細になされているから、それに譲ることにする。そこには増田自身の宗教学者としての分析だけでなく、米国心理学会や、米国キリスト教協議会が法廷に提出した「法廷助言書」など、心理学や宗教学の専門家による幅広い客観的な分析が全文訳で掲載されており、この問題に関心のある人にとっては、一読に値する本である。

 

増田がこの本の中で述べているポイントは、そもそもマインド・コントロールによる信仰の強制と、自発的な信仰の獲得とを区別することなど不可能であるということだ。これはほかの専門家の意見と完全に一致している。大抵の場合は、ある人が信仰への目覚めをきっかけに人間が変化し、それまでの人生を否定したり、周囲の価値観と対立するようになった結果を見て、これは通常では理解できない強力な力によって変えさせられたのに違いないという憶測が生まれ、それが「洗脳」や「マインド・コントロール」という科学的な響きをもった神話を作りだしたのに過ぎないというのだ。そして実際にその人を変えてしまった恐ろしい力とは、我々が古来「信仰」「信念」あついは「イデオロギー」などの言葉で呼んできたものと、何ら変わりがないのだという。統一教会がマインド・コントロールを行っているという批判も、このような神話に基づいた偏見であることはいうまでもない。
現在、政府は宗教に対する規制を強化しようとしていると聞く。(注3)反カルト主義者たちが作りだした「カルト」や「マインド・コントロール」といった怪しげな概念により、今まで守られていた信教の自由が脅かされようとしているとすれば、これは日本の宗教界全体の危機につながりかねない。となれば彼らこそまさしく、人の「心を操作」しようとする者だということになるのではないだろうか。

<以下の注は原著にはなく、2015年の時点で解説のために加筆したものである>
(注1)山崎浩子さんの統一教会脱会記者会見は1993年4月21日。スティーヴン・ハッサンの著書「マインド・コントロールの恐怖」の日本語訳の出版もほぼ同時期である。
(注2)地下鉄サリン事件は1995年3月20日で、山崎さんの事件の約2年後である。
(注3)原著の執筆中に始まったこうした動きは、2000年12月に発表された、「カルト特定集団」からの離脱支援を目的とする厚生・法務・警察三省庁(省庁名は再編前)の合同研究会の報告書という形で結実した。

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