アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳16


第2章 統一教会:その歴史的背景(3)

西洋へ向かう統一教会

 本書は、主に1970年代中期以降の統一教会の伝道活動に関するものであるが、西洋における運動草創期についての幾分かの基本知識が、後の期間の状況を説明するためには不可欠である。アメリカにおける統一教会草創期について記した二つの信頼できる研究調査がある。第一に、ジョン・ロフランドが社会学における博士論文のために成した直接体験によって得た研究の成果が1964年までの期間を扱っており、ペンネームを使って『終末論を説くカルト』というタイトルで出版されている(注39)。この優れた研究は容易く手に入れることができるので、ロフランドが既に十分に良く取り扱っている分野を私が繰り返してもほとんど何も得るものがない。第二の研究は、マイク・ミクラーによる未出版の修士論文なので(注40)、より入手しにくい。ミクラー自身、運動のメンバーである。彼の論文は、1974年(私が初めて運動に出合った年)までのサンフランシスコベイエリアにおける運動の情報と、詳細に記録された歴史を提供している。

 1959年初頭、金永雲博士(一般的にミス・キムとして知られている)は、ユージーンにあるオレゴン大学の学生として入学し、アメリカ合衆国の市民に「統一原理」を紹介する仕事に取りかかった(注41)。ミス・キムは、他の何人かの教師と学生と共に統一教会を脱会することを拒否したために1955年に免職されるまで、メソジスト系の梨花女子大学で、新約聖書学と比較宗教学の教授をしていた(注42)。彼女は西洋を知らない人ではなかった。彼女は3年間トロント大学で大学院の勉強を行うために学問したことがあり、その後ヨーロッパで6カ月過ごしたことがあった(注43)。十代の初期から、彼女はエマヌエル・スウエーデンボルグのビジョンを含む一連の神秘的体験をもっており、彼女はカナダにいる間に彼についての論文を書いた(注44)。1954年に39歳で彼女自身が運動に改宗して以来(注45)、彼女は西洋に「原理」をもたらす決意をしたのだった。そして1956年に彼女は、いくつかの『原理講論』の英訳のうちの、最初の翻訳をなしたのである(注46)。

 到着後しばらくの間、彼女の努力はほとんど実を結ばなかったが、1960年に小さな団体の関心を得ることとなり、その中に西洋で初めての改宗者の一人となったドリス・ワルダーがいた。1959年9月にデヴィッド・S・C・キム(彼は1954年に国連学者として英国へ渡ったことがあり(注47)、世界基督教統一神霊協会の創立会員の一人であり、現在、統一神学校の学長である)もアメリカに到着した。(デヴィッド・キムは、ミス・キムとは親戚ではない。キムは韓国でとてもよくある姓である。)二年後にもう一人の韓国教会初期のメンバーである朴普熙大佐(彼は後に文の中心的な公の通訳となり、韓米関係の調査聴聞会で統一教会の中心的証人だった)は、ワシントンにある大韓民国大使館で大使館付き武官補佐となった(注48)。それから1965年に、その人格形成期のほとんどを日本で過ごした韓国人である崔翔翊がアメリカに到着した。西川という名前で彼は日本に密入国し、そこで彼は最初に成功した統一教会宣教師となった(注49)。西洋での運動の発展に重要な影響をもつことになった5番目の韓国人宣教師は、林年洙(オンニ)である。彼女は日本での最も効果的な伝道者であることを通して、アメリカに来る権利を「勝ち取った」二人のうちの一人だった。ワシントンで2、3カ月過ごした後で、彼女は崔と共に働くために、1965年12月にベイエリアへ移った(注50)。彼女は文によって1974年にモーゼ・ダースト博士と結婚し、共に彼らは、ダーストがアメリカ統一教会会長になった1980年5月まで、西洋で新会員を入会させるのに最も成功したセンターである「オークランド・ファミリー」を運営することになった。

1959年に金永雲博士が合衆国への初めての宣教師として送られる前に文と一緒に撮った写真(2章45ページ)。

1959年に金永雲博士が合衆国への初めての宣教師として送られる前に文と一緒に撮った写真(2章45ページ)。

 

 合衆国で入会した初期のメンバーの中には、ヨーロッパ諸国の国籍を持ったままの移住者が数多くいた。1963年にこれらの何人かが、大西洋の向こう側へ送り返された(注51)。しかし、彼らがすぐに成功したとは言い難い。1964年の終わりの時点で、ドイツの7人の教会員のうち6人はアメリカ合衆国で入会した者たちだった(注52)。しかしながら、翌年オーストリア、スペイン、フランスにセンターを設立したのはドイツ人だった(注53)。1965年4月にドリス・ワルダーは、イタリア語を全く話さないにもかかわらずイタリアに行き、そこで最初の宣教師になった(注54)。同時に、文はミス・キムに「イギリス人に『原理』を教える指示」を与えたが、その年の終わりまでに彼女はアメリカに帰った(注55)。1960年代にイギリスでその他の宣教活動が幾分あったが、これはあまり成功しなかった。しかし、ドリス・ワルダーが1968年にイタリアから帰国した時には、5人のメンバーがいた(注56)。1969年に彼女は文によって、彼女が伝道した英国人改宗者の一人であるデニス・オームと結婚した。そして夫妻は次の十年間、「英国ファミリー」を運営することになったのである。

(注39)J・ロフランド『終末論を説くカルト:回心と改宗と信仰維持の研究』改訂版、ニューヨーク、アービントン、1977年。

(注40)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」。

(注41)同書、6ページ。

(注42)同書、5ページ。サローネン「アメリカ統一教会の歴史」167ページ。マチャック『統一主義』10ページ。

(注43)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」3ページ。

(注44)ロフランド『終末論を説くカルト』35ページ。

(注45)同書。

(注46)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」5ページ。

(注47)マチャック『統一主義』11, 28ページ。

(注48)D・フレーザー『韓米関係調査:米下院・国際関係委員会の国際関係小委員会報告』ワシントンDC、米政府出版、1978年10月31日、446ページ。

(注49)マチャック『統一主義』26ページ。ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」93, 97-9ページ。サローネン「アメリカ統一教会の歴史」166-7ページ。

(注50)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」90, 106ページ。

(注51)同書、78ページ。サローネン「アメリカ統一教会の歴史」169ページ。

(注52)B・ハーディンとG・ケーラー「新信仰システムの排斥に作用する社会的要因」、アイリーン・バーカー(編)『新宗教運動:社会理解のための視点』ニューヨーク、エドゥイン・メレン・プレス、1982年、272ページに掲載。

(注53)同書。

(注54)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」78ページ。サローネン「アメリカ統一教会の歴史」169ページ。

(注55)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」78, 85ページ。 (注56)P・ハートレイ「英国統一教会初期の歴史」未出版のタイプ印刷物、1983年。ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」63ページ。

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