アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳21


第2章 統一教会:その歴史的背景(8)

ベルベディアが購入されると、教会は続いて近くのイースト・ガーデン(文とその家族が住む家となった)を62万5千ドルで獲得した(注135)。1974年に教会はニューヨーク州ベリータウンの250エーカーの土地と、クリスチャン・ブラザーズに所属していた神学校を購入するために、150万ドルを支払った(注136)。1975年9月には、そこで超教派的教授団と56人の学生からなる第一期生をもって、統一神学校が開校された(注137)。1974年におけるその運動の収入は800万ドルと見積もられ、当時のアメリカにおける運動の会長ニール・サローネンによると、その大部分はピーナッツ、ろうそく、花、ドライフラワー・アレンジメントの街頭販売から得られた(注138)。MFTは1974年に、一般的な教会費用のための「全国本部MFT」と、特別プロジェクトのための「お父様のMFT」とに分かれた(注139)。しかしミクラーは、日本(そこには年中無休で働いている120の花売りチームがあった)から送られた資金はおそらく、アメリカのMFTよりもっと、ツアーや不動産購入のためにに重要だっただろうと推測している(注140)。そして文自身が「私は非常に多くのビルを買うために、韓国その他の国から何百万ドルも持って来た」と宣言している(注141)。

2章60ページ

ニューヨーク州ベリータウンにある統一神学校(2章60ページ)

韓国では、教会の事業の数は増大していった。統一産業は機械の部品を造った。(初めに文は、運動が西洋へ空気銃を輸出することを望んだが、宗教団体がそのような活動に携わることはアメリカ国民によく受け入れられないだろうと説得された)。一和製薬は1972年2月に政府の認可が下りたが、その翌年には約100万ドル相当の人参茶を製造し、(主に日本の運動へ)輸出した。また1972年には、ペンキとコーティング剤を生産する二つの工場が、韓国の仁川近くで操業を始めた(注142)。

統一教会は単にその存在について学ぼうとしている人々の数だけでなく、社会的に重要で影響力のある立場の人々の注目を集めることにも関心をもっていた。韓米関係を促進するために1964年に朴大佐によって設立された「韓国文化自由財団」(KCFF)は、他の文化組織と共にリトル・エンジェルスをプロモートした。1974年までにこの韓国舞踊団は7回の世界巡回を達成し、一つはホワイト・ハウスでの、もう一つは女王の出席するロンドン・パラディウムでの公演を含め、千回以上の公演を行った(注143)。さまざまな公演旅行の間に、地方の著名人たちがバンケットに招待された。渉外活動に従事したメンバーたちは、教会のキリスト教的かつ倫理的価値観を強調した(注144)。FLFを通して政界にコンタクトをもったメンバーたちは、運動の反共的立場を強調して、文と多くの上院議員・下院議員たちとの一連の会合を手配した(注145)。1972年からは、学者たちが毎年の「科学の統一に関する科学者会議」に招待された(注146)。1973年後半からは教授と学生もまた、CARPによって全米の大学構内での一連のプログラムや集会を通してコンタクトされた。さらなる発展は、統一教会の信条を紹介するためにヨーロッパや日本の大学からアメリカへ数百人の学生を連れてきた「国際指導者セミナー」(ILS)の組織だった(注147)。文師と統一教会が英国の新聞で初めて大ニュースになったのは、英国の学生がILSに参加した結果としてだった。そしてその報告は決して安心させるような内容ではなかった(第一章参照)。

当初は、文と統一教会の知名度が上がるに伴ってなされた報道は、比較的良好だった(注148)。教会が見せた公的イメージは国家の道徳水準を高め、共産主義との闘争に勝つよう援助したがっている理想主義的な青年クリスチャンというものだった。このイメージを確立することにおける運動の比較的な成功は、1974年に出版された『他の人々が我々を見るとき』と呼ばれる本の中に描かれており(注149)、その中には文とその運動に対する支持を表明する(たいていは、むしろ当たり障りのない内容であったが)公職者や聖職者、民間人からの約百通の手紙が印刷されていた。手紙の一つはリチャード・ニクソンからのものだった(注150)。

しかしながら、そのような本が出版されたというまさにその事実は、統一教会が多くの筋からいくつかの点でかなり激しく攻撃されることになり始めていた前兆だった。知名度は悪評へと変わりつつあった。統一教会は、名声だけでなく悪名をも得つつあった。それまでは、運動は散発的な反対を受けてきたが、1974年1月にクリスチャン団体の雑多な集合組織であるバークレーの「クリスチャン学生連合」は、「統一教会とその創始者・文鮮明とのいかなる霊的関係」をも正式に否認する声明をまとめた(注151)。そのとき以来、ますます多くのキリスト教組織や個人、特に右派、根本主義者、福音主義的な教派の人々が、文とその信条はキリスト教的ではないと宣言することに必死になり、中にはサタン的だと宣言するものもいた。

反感は、1973年の終わりからのウォーターゲート事件の期間中に、ニクソンが大統領職を継続することを統一教会が表立って支持したことによって増幅した。全米の至る所で文の「ウォーターゲートへの解答」声明が全面広告で掲載された。それは、「アメリカは神のみ旨に生きなければならない。そしてこのアメリカ史の岐路における神の命令は、許せ、愛せ、団結せよである」と主張していた(注152)。40日間の「ウォーターゲート危機のための全国祈祷会と断食」が12月に始められた。千人以上のメンバーがワシントンDCで、例年のクリスマス・ツリーの点灯に際してデモ行進を行い、ニクソンからじきじきに感謝された。文は1974年1月31日、大統領の朝食祈祷会に招待され、翌日彼はニクソンと20分間の公式会見をもち、そのとき、彼は大統領に対して自分の信念のために立ち上がるよう告げたと伝えられている(注153)。7月にそのスキャンダルが危機を迎えた時、610人のメンバーが連邦議会議事堂の階段で3日断食と徹夜祈祷を行い、メディアで全国報道されたが(注154)、その大部分はニクソンと統一教会のどちらに対しても共感を示さなかった。根本主義のクリスチャンたちに左翼の過激派が加わって、運動に反対するデモ行進を行った。いくつかの不愉快な事件が起きた。ワシントンDCのキャンペーン本部の窓からブロックが投げ込まれ、ワゴン車のタイヤが切られ、電話線が切断され、一連のいたずらが行われた。例えば、フィラデルフィアのセンターを煙でいぶすために、注文しない害虫駆除業者が来たりした(注155)。

2章62ページ

ウォーターゲート危機のために連邦議会議事堂の階段で行われた3日断食、1974年7月(2章62ページ)

(注135) ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」235ページ。
(注136)同書、236ページ。
(注137)統一神学校、学校便覧:1979-80年、5ページ。
(注138)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」236ページ。
(注139)同書。E・ヘフトマン『ムーニーの暗い側面』ハーモンズワース、ペンギン、1983年、95ページ。
(注140)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」236ページ。
(注141)マスター・スピークス、MS-447, 10-13-74, 7ページ。
(注142)マチャック『統一主義』25ページ。ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」237ページ。
(注143)D・S・C・キム『希望の日の回想』第一部、165-76ページ。マチャック『統一主義』12ページ。ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」239ページ。
(注144)同書、206ページ。
(注145)同書、219, 218ページ。
(注146)D・S・C・キム『希望の日の回想』第一部、33, 161ページ。第二部、597ページ。
(注147)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」240ページ。D・S・C・キム『希望の日の回想』第一部、37ページ以下、第二部、137ページ以下。1973年の国際指導者セミナー(ILS)に参加し、ほとんどすべての「ゲスト」がムーニーにならなかった英国人学生による報告のために、P・F・ハットン「統一教会への招待」論文、謄写印刷物、ケンブリッジ大学、1974年を参照。
(注148)D・S・C・キム『希望の日の回想』第一部。
(注149)F・W・ジョーンズ(編)『他の人々が我々を見るとき』ワシントンDC、世界基督教統一神霊協会、1974年。
(注150)同書、69ページ。
(注151)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」248ページ。
(注152)D・S・C・キム『希望の日の回想』第一部、177-225ページ。
(注153)同書、217-23, 240ページ。ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」243ページ。
(注154)D・S・C・キム『希望の日の回想』第一部、177-225, 237-59ページ。ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」244ページ。
(注155)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」250ページ。

カテゴリー: 「ムーニ―の成り立ち」日本語訳 パーマリンク