アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳08


第一章 接近と情報収集(4)

 私の「秘密情報提供者」は、大きく4つに分類された。どうせ私はすべてを知っているんだと思い込んでいる人々がいた。次に、見ないで想像しているほどその「秘密」が恐ろしいものではないということを知るだろうから、私にすべてを見てほしいと考える人々がいた。他には、運動の全体的目的に対しては概ね忠実でありながらも、彼らが懸念している特定の実践や方針に関しては、部外者によって指導者たちにプレッシャーをかけてほしいと思っている人々がいた。最後に、全体的に幻滅しており(そして、おそらくもはやメンバーではなくなっていたり)、メディアや反カルト主義者の所へ実際に行くことなしに、運動のあまり魅力的でないと思われる側面を暴露したいと思っている人々がいた。

 研究することが心理的に不快だと感じる時があった。主な困難の一つは、知的孤独と表現すれば一番的確であるような何かだった。私はたいてい運動に接している時を面白いと感じ、数人の個々のムーニーたちを純粋に好きになっていたが、統一教会式の現実理解を信じることができたことは一度もなかった。他方で、部外者たちが私に当然発見するはずだと言い続けた運動の像を、私は受け入れることができなかった。私が私自身の現実像を分かち合ったり、試したりできる人は誰もいなかった。すると、ちょうど研究の半ば過ぎに、公開大学のために私の研究について2本の映画を撮ることになったBBCのプロデューサーが、撮影に備えて「共同参与観察者」になって、しばらくの期間を私と共に過ごした。私たちが訪問を終える度ごとに、私は彼女の手にテープレコーダーを握らせ、彼女に起こったことは何でも吐き出すよう頼んだ。彼女の印象が全体的に私自身の印象と一致したという事実は、もちろん私たちが正しく、他のすべてが間違っているということを証明しはしないが、しかしそれは、私が全く特異だというわけではないことを知る上で非常に心強かった。

 研究者が常に自分自身に問わなければならない一つの問いは、自分の情報提供者をどこまで信頼できるかということである。私は常に、ムーニーは「天的詐欺」(サタン世界で神のみ業を進めるために許容される嘘をつくこと)を行っているので、ムーニーから得る情報はすべて無価値だ、と警告され続けた。

 問題があることは知っていたが、しかし私はたとえムーニーが嘘をついたとしても、嘘をついているムーニーを観察することは、元ムーニー(第五章参照)の証言にのみ限定して得られるよりも価値のあるデータを生み出すことができる、という確信があった。しかしながら、もちろん、私はどれが嘘なのかを発見する必要があった。これには、情報提供者を互いに照合検査し(特に運動内の人々からの情報と部外者からの情報の間に存在するあらゆる矛盾を)、特定の問題に対していくつかの異なるアプローチを用いるという、非常に入念なシステムを構築しなければならなかった――それは非常に時間がかかり、実践の性質そのもののゆえに急ぐことのできない手続きだった。

 私をだますための全体的指示のようなものは存在しないということは明らかだった(そしてこれは、その後脱会したメンバーによって常に確認されてきた)。「トップ」からの許可を得た後に、私はできる限り目立たないやり方で研究を始めた。私は英国の第2レベルのリーダーたちの何人かと知り合いになり、特定の情報(例えば、私のインタビュー・リストに載っている誰かの消息など)について彼らに尋ねたが、研究の初期の段階においてはトップレベルの指導者たちを避けていたし、彼らも、全体としては私自身のやり方に任せてくれた。訪問中の学者として、最も重要なムーニーたちがいる時に食事を一緒にすべきだということが私に期待されなくなるまでに、時間はかからなかった。そして私がセンターに滞在するようになるとすぐに、その夜私にベッドがあるのか、床の上に寝袋で寝なければならないのかについて「姉妹たち」に運を任せている自分を発見した。メンバーたちが私について何かを告げられる限りにおいて――そして私は、彼らがしばしば何も告げられていないということを発見して驚いたのだが――私は彼らの共同体の友人(と彼らは告げられていた)なので、いつも協力するようにと彼らは頼まれていた。インタビューやアンケートの回答、そして普段の会話から明らかになったことは、運動がいかに素晴らしいかについて話すだけでなく、私が既に述べたように、運動や彼らが直面している問題についてもあまりに熱心に話したがるムーニーが数多くいるということだった。私は地方や国のリーダーに対する洪水のような不満の受け皿だった。数人のムーニーは明らかに私に嘘をついたが、信頼すべきでない人を見つけるのに時間はかからなかった。最もあからさまな嘘は、かなり昇進した立場の指導者の数人からと、非常に興味深いことに、より熱狂的な一人、二人の新入会員から語られる傾向があった。公然とした嘘よりもはるかに大きな問題は、ムーニーたちが特定の情報を抑圧している可能性であった。この壁を回避するために、私は少しずつ情報の半端な断片を収集し、つなぎ合わせなければならなかった。私はこれを部分的には、私が特定の事柄を知っていることをそれとなく話すことによって確証の度合いを強めたり、ことによると関連情報を引き出したり、あるいはまた私が何かに気づいているという事実を隠したりした。このようにして私は、自分の情報がどのくらい「公開された」ものなのかを確認することができた。

 何人かのムーニーにとって、特に研究の初期の段階において私があまり接触したくないと思った人々にとって私は、どちらかと言えば鈍感だが無害な存在として、そんなに多くの注意を払わなくてもよい人物として映った。その他の人々にとって私は、日々の生活について話し合うことのできる、話好きな一人の仲間だった。ある者は私を母親的親友として扱い、他の者は母親になって私の世話をしようと決意していた。数人のメンバーたちは私を学者として扱いたがり、哲学的、政治的、神学的な議論を長々としようとした。その内容は、全てではないにしても、ほとんどが彼らの信条や実践に関することだった。一人か二人のムーニーは最大の疑いをもって私を扱い、私と一緒に何かをすることを一切望んでいないという立場をかなり明確に表明した。こうした異なる関係性がまさに多様に存在しているということ(それは注意深く計画されたというより、むしろ「偶然に」起こった)によって、私はゆっくりであっても確実に、運動の多次元的なイメージを蓄積しチェックする機会を与えられたのである。

 私とメンバーたちが互いに知り合うようになると、私は予告なしに多くのセンターに立ち寄り始めた。これによって私は、通常の生活状況(どんな食事が食べられているか)、メンバーの全体的状況(何人が風邪をひいているかなど)、そして誰がどこに住んでいるか、といったことをチェックするさらなる手段を得た。

 私が正確さを特にチェックしたいと思った一連の情報は、メンバーの基本リストと、彼らについて記録されている詳細な情報(例えば年齢、入会年月日、国籍、誰が彼らを運動に導いたか、どのような「使命」についているのかなど)だった。研究の始めに私は、フルネームを開示されていない英国メンバーのリストを与えられた(注10)。私はすぐに名前を完成させることができるということが分かり、少し後になって、既にメンバーについてかなりの量の情報を収集し、英国「事務所」を任されている人々が、私が個々のメンバーに関する詳細を一切公表しないと信じることができると確信した時点で、私は現在と過去のメンバーの入会申込書のファイルを利用する許可を与えられた。私はまた、研究の期間中、一連の完全なメンバー・リストを収集することができた。これによって私は、それまで未知であったが非常に重要な、運動からの離脱率を計算することが可能になった。  私は、英国本部から獲得したリストやさまざまな記入用紙や記録文書の中に「ごまかし」が成されている事例を全く発見しなかった(例外は一人の女性の誕生日であったが、彼女が欺こうとしていたのは私ではなく、彼女の親愛なるメンバーたちであったと私は推測している)。さまざまな資料から私は、入会する人々、去っていく人々、外国へ行く人々、ワークショップに参加する人々の数として提供されているものをチェックし、再チェックした。ここでもまた、私はときどき効率の悪さを発見したけれども、私は英国においてそのような事柄に関する虚偽に出くわしたことがなかった。研究の終了までに私が訪問したヨーロッパのセンターの大部分は、私が要求したメンバーの情報を私に渡す用意があった。そして、私は彼らの数字をチェックする手段はほとんど持ち合わせていなかったが、それらが正確なものではないと信じる理由は何もなかった。米国においては話は別だった。私はある特定のセンターの、あるいはいくつかの州の人数を把握することができたが、国としての正式な人数を把握することは決してできなかった。そして日本と韓国の見積もりほどではないにしても、入手した見積もりのいくつかは大きく異なっていた。私は米国指導者の何人かが、時には十倍あるいはそれ以上も人数を誇張していたのを知っていたし、彼らのその他の情報のいくつかも信用できないことを私は発見した。しかし、既に述べたように、研究終了までに私は、どの情報源が信頼できて、どの情報源が信頼できないかについて極めて明確な認識を持っていた。

(注10)上記の注4に既述。

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