書評:大学のカルト対策(16)<第二部 1.外来宗教とカルト問題①>


櫻井義秀、大畑昇編著の「大学のカルト対策」の書評の16回目です。今回から第二部に入ります。この第二部は、「カルト問題―学生相談との関連」というタイトルで、2012年5月20日に北海道大学で開催された「日本学生相談学会第30回大会シンポジウム」の記録を起こして書籍化したものです。第二部の最初の記事は、「1.外来宗教とカルト問題」というタイトルで、櫻井義秀氏が再登場しています。これより、この記事の紹介と批判的分析を行っていきます。

櫻井氏は「カルトとは何か」「宗教とは何か」を考えるにあたって、次のような持論を展開しています。

「欧米のカルト論は欧米諸国における宗教的脈絡を踏まえた議論ですので、日本でそのまま展開するには無理があります。やはり日本においてカルト視されているのはどのような団体なのか、何が問題とされているのか、そこから議論を立ち上げていくことが大事ではないかと考えています。」(p.147-8)

この文章は、欧米の宗教社会学は、「カルト」や「マインド・コントロール」などの概念に対して批判的な見解が主流であり、自分の研究姿勢が必ずしも受け入れらないことを櫻井氏が自覚していることを物語っています。つまり、欧米の見解は参考にならないから、日本は独自路線で行こうというわけです。ちなみに、櫻井氏は海外の学会で発表したり、論文を提出したりした際に、さまざまな批判や問題点の指摘を受けたことをかなり正直に公表しています。例えば、『「カルト」を問題化する社会とは―第1回ICSA(国際カルト研究学会)マドリッド大会報告―』という報告書は、以下のURLで公開されています。

CiNii論文:『「カルト」を問題化する社会とは―第1回ICSA(国際カルト研究学会)マドリッド大会報告―』

この報告書の中に、以下のような記述があります。

「筆者は、日本における統一教会の宣教活動が『違法伝道』として最高裁で元信者の損害賠償請求が認められ、物品販売や献金強要が『霊感商法』と認知され、しかも殆どの裁判で被害者である一般市民の損害賠償請求が認められてきたことを学会でも報告し、某誌に投稿したこともある。しかし、新宗教、とりわけ統一教会に対して偏見を持った表現(「被害者 victims・損害 damages・教化 indoctrination」)や先行研究を適切に評価しない(上述の通り)論考は、新宗教研究として『ふさわしくない』という評価を得た。」(上記報告書p.4)

「筆者はAFFのCultic Studies Reviewに日本の脱会カウンセリングに関わる論文(前記の投稿論文とは異なる)を投稿した際に[Sakurai 2004]、 M.ランゴーニ氏から、筆者が脱会カウンセリング(exit-counseling)として紹介した事例は、アメリカの感覚ではディプログラミング(deprogramming)と受け取る人が多いのではないかという指摘を受けた」(上記報告書p.5)

このように、欧米の宗教社会学の感覚と、日本(あるいは櫻井氏)の感覚には大きな隔たりがあるので、欧米の先行研究はあまり参考にせずに、日本は独自の感覚を貫くべきだということでしょう。ちなみに、筆者もICSAの会議には何度も参加しているので、M.ランゴーニ氏にも会ったことがあります。彼は宗教社会学者ではなく、ICSAという「反カルト団体」のトップなのですが、日本で行われている「保護説得」や「脱会カウンセリング」は、両親や脱会カウンセラーが主導的役割を果たして信者を説得する行為であり、しかも自由の拘束を伴うので、欧米の感覚から言えばディプログラミングに該当するという判断だと思います。ICSAは公式にディプログラミングに反対する立場を表明しているので、日本のやり方には違和感を覚えたということでしょう。

「大学のカルト対策」の櫻井氏の記事に話を戻しましょう。彼は続いて、以下のような主張をします。

「信教の自由には特定の宗教を信仰する自由に加えて、宗教を信じない自由および宗教の選択における自己決定権を侵害されない自由も含まれる、ということです。信教の自由というのは抽象的なものではなく、『ある人がある宗教を信じる』のは自由だが、他の人は意に反してその宗教を強要されない自由を持っているというわけです。」(p.148)

これは統一教会反対派の典型的な論点で、山口貴士弁護士なども同様の主張をします。つまり、宗教団体による勧誘が、勧誘を受ける人の「信じない自由」を侵害するのだと言いたいわけです。これは原則論としては正しいでしょうが、統一教会の伝道が他人の意に反して宗教を強要しているかどうかは未検証であるにもかかわらず、それを前提にして議論を進めている点が問題です。勧誘する側が、勧誘を受ける側の「信じない自由」を侵害しているという主張は、結局は「マインド・コントロールしている」と言うのと同じことです。この問題は、「マインド・コントロール論争」の中心テーマであるので、ここでは詳細は省きます。過去の記事を読んでください。

一方で、大学のカルト対策は、特定宗教の学生を呼び出して脱会を勧めたりしているので、「ある人がある宗教を信じる」自由を事実上侵害しているのではないでしょうか。しかし、櫻井氏にはその自覚はないようです。この本の第二部の6番目の記事「6.シンポジウムを終えて」の中で、編著者のひとりである大畑昇氏は、「北海道大学におけるカルト問題相談の模擬事例」について説明していますが、そこには大学当局が本人の意思に反して学生を呼び出し、特定宗教からの脱会を説得する事例が紹介されています。これは大学が「ある人がある宗教を信じる」自由をあからさまに侵害していることが明らかな事例なのですが、それを自ら行っている櫻井氏には、侵害しているという自覚がないのです。

櫻井氏はさらにこう続けます。

「大学には学生に対する教育責任ということもあり、学生が大学に入った本来の目的、すなわち、さまざまな学問を通して自分の知識・思考力あるいは人間性を磨くという目的が達成されるように可能な限り支援するというのが大学の使命であると思います。そのために、それを妨害しようとするものに対しては毅然とした対応をしなくてはならないのではないか。これがなぜカルト対策をしなければならないのかということの基本的な立場になろうかと思います。」(p.148)

大学の本来の目的や使命に対して忠実であろうとする櫻井氏の志は認めましょう。しかし、「それを妨害しようとするもの」に対する認識が本当に正しいのかどうか、もっと実態をよく見ていただきたいものです。

こうした主張に対して、CARPの学生諸君は、自らの活動が「さまざまな学問を通して自分の知識・思考力あるいは人間性を磨く」ことと矛盾しないばかりか、逆にそれを目指し、促進するものであることを立証していただきたいと思います。それができれば、「カルト対策」の根拠は崩壊するわけですから、何も恐れることはありません。

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