Web説教「信仰による家族愛の強化」06


 3月31日から「信仰による家族愛の強化」と題するWeb説教の投稿を開始しましたが、今回はその6回目です。前回は夫婦関係と親子関係というのは実は深いところでつながっていて、夫婦関係に問題があるとそれが親子関係に現れてくると指摘している専門家の見解を紹介しました。いまの日本が抱えているもっとも本誌的な問題は、良い夫婦関係のモデルがないことであり、男と女の仲が悪くなっていることだというのです。

 これまで「親子の愛」と「夫婦の愛」の話をしてきましたが、家族とは一体何かといえば、「親子の愛」と「夫婦の愛」があり、この二つが合わさったときに家族の絆が生まれるということなのです。この二つの愛を信仰によって強化することこそが、家庭連合が存在している目的なのです。

家庭連合の結婚観

 それではこの二つの愛のうち、夫婦の愛を私たちはどのように築いていこうとしているのでしょうか?

 それを説明するために、家庭連合の結婚観についてしばらく話をしたいと思います。旧約聖書の創世記1章17節には、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」と書いてあります。

 私はアメリカでキリスト教神学を学びましたが、この「神のかたち」と日本語に訳されている部分は、ラテン語では“Imago Dei”と言います。英語にすれば“Image of God”になります。これは、人間は神様にそっくりに造られたのだということが要するに言いたいのです。そのように神様にそっくりに造られた人間だから、尊厳性があるということになり、それが人権思想の根本になっています。したがって、創世記1章17節はキリスト教の人間観においては非常に重要な聖句なのです。

 その「神のかたち」の内容については、キリスト教神学ではいろんな説があって大論争をしてきました。すなわち、どういう点で人間は神様に似ているんだろうかということを議論し合ったのです。ある人は、「それは理性である」と言いました。神は全知全能の存在であり、その偉大な理性の一部を頂いている人間は、合理的な存在であるという点において神様に似ているんだと主張した神学者もいました。頭のいい人はだいたいこういうことを言うのです。

 そのほかにもいろいろと「あーでもない、こーでもない」と言ったのですが、いろいろと論争をする前に、聖書を素直に読んでみましょう。聖書には「すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と書いてあるんですから、「男と女である」ということがすなわち「神のかたち」なんだということになります。素直に読めば、そういう意味になるのです。しかし、これはいったいどういう意味なのでしょうか?

 通常、西洋のキリスト教において神様という存在につける修飾語は、唯一、絶対、完全無欠、全知全能といったような言葉です。もし神様の最も中心的な属性が、「唯一、絶対、完全無欠、全知全能」であったとするならば、それにそっくりに造ったら人間はどのような姿になるでしょうか? 唯一なんですから、一種類の人間でいいですね。そして絶対で完全無欠でありますから、一人で完成している、誰の助けも必要としないような、自立した完璧な中性人間を一つ造れば、それが一番神に似ているだろうという話になります。

 ところが実際に神に似せて人を造ったら、完全無欠の中性人間にはならずに、男というどこか中途半端な存在と、女というどこか中途半端な存在に分かれて出てきたというのであります。そして男女をよく観察してみると、どうも男が得意なことは女は苦手で、女が得意なことは男は苦手なようになっているのです。すなわち男と女は、互いに補い合うような関係、すなわち相互補完的な関係になっているのです。

 男と女は、わざわざそのように性質を分けて造られており、必然的に助け合わなければ生きていけないような属性をもって造られているのです。これが何を意味しているのかというと、人間は単独で何でもできて生きる存在なのではなくて、他者との関係において生きるように、そもそも創造されているということです。この他者との関係において助け合って生きることを「愛」と言ったわけです。ですから人間は愛し合わなければ生きられないし、男女が愛し合わなければ繁殖さえも出来ないように人間を創造されたということになります。これはいったい何を意味しているのでしょうか?

 それは神様の最も中止的な属性は唯一でも、絶対でも、完全無欠でも、全知全能でもなくて、「愛」であるということなのです。ですからそれに似せて造った人間は、愛さなければ生きていけない、愛さなければ存在できないようにそもそも造られているのです。その愛を表現するのが、「男と女」というペアシステムだというのです。

愛し合う夫婦の中に神が臨在される

 したがいまして、男性と女性が愛し合っている姿は神様に似ているということになりますから、そこに神様が臨在されるということになります。愛し合う夫婦のど真ん中に神様が臨在されて、男女の愛に神の愛が増し加わって、さらに高い愛の世界に入っていきます。そのとき、男性は女性を通して神に出会うのであり、女性は男性を通して神に出会うのです。ですから、結婚している男性は妻という存在を通して神に出会わなければなりません。妻の背後に神様を感じなければならないのです。また逆も然りであり、結婚している女性は夫という存在を通して神に出会わなければなりません。夫の背後に神様を感じなければならないのです。

男性と女性は神の半分を代表

 そもそも人間が男性と女性に造られた意味が何であるかというと、もともと神様ご自身の中に陽と陰、プラスとマイナスがありまして、それが二つに分かれて出てきたのが人間の男と女であります。ですから、一人の男性は宇宙の(陽性の)半分を代表すると同時に、神様の半分を代表し、全人類の男性の代表として立っています。そして一人の女性は宇宙の(陰性の)半分を代表すると同時に、神様の半分を代表し、全人類の女性の代表として立っています。したがって、一組の男女が結婚するということは、神から分かれた二つの宇宙が出合って、神に似たものとなるということなのです。このようにして夫婦となり、愛を完成させることが結婚の本来の目的だったのです。
(次回に続く)

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