Web説教「信仰による家族愛の強化」02


 前回から「信仰による家族愛の強化」と題するWeb説教の投稿を開始しましたが、今回はその第二回目です。前回は渡辺京二という人が書いた『逝きし世の面影』の内容に基づいて、近代以前の日本は親子の愛情がとても深く、「子どもの楽園」と呼ばれていたことを紹介しました。昔の日本人は、純粋で濁りのない愛情をことに触れてほとばしらせることのできるような、たいへん情の深い民族であったという話でした。

 このような親子の愛ということについて考えてみたいと思います。家庭連合の信者で、森山操先生という方がいらっしゃいました。2015年4月に亡くなられましたが、この方のお母さんは、生みの親ではなく育ての親だったのでありますが、かつての日本人が持っていたような「ほとばしるような情愛」を持っていた人でありました。その証しを紹介したいと思います。なお、以下の内容は「世界平和統一家庭連合公式チャンネル」で公開されている動画から掘り起こしたものです。

在りし日の森山操先生

「昭和16年、私は秋田県能代市で健康優良児として誕生しました。生家は祖父が染物屋を営んでおり、父も仕事を手伝っていました。働き盛りだった父は、私が3歳の時、フィリピンで戦死しました。出征の時、私に『強い人間たれ』と紙に書き残した父ですが、面影はほとんどありません。

 母からは『お父さんは町一番の美男子で、立派な人だった』と聞かされ、誇らしく感じていました。母は私と弟に一生懸命尽くしてくれ、その存在が唯一の支えでした。しかし、私が小学2年生のある日、母は外出したまま帰ってきませんでした。

 私は毎日毎日、駅に立って、帰りを待つようになりました。後になって母はある男性と再婚するため、駆け落ち同然に出ていったと知りました。『母に捨てられた』という心の傷ばかりが大きくなっていきました。

 そんな私と幼い弟を養子として引き取ってくれたのが叔母でした。私は叔母に対して、『いつかどこかに消えるに違いない』と疑いの目で見ていました。素直になれず『お母さん』ではなく、『ちょっとちょっと』と呼んでいたのです。義母になってくれた叔母は、それでも私たちを温かく見守ってくれました。

 私が子供の頃はテレビが普及しておらず、紙芝居が数少ない楽しみでした。紙芝居を見るには当時のお金で、1回5円が必要でした。私はどうしても見たくて、義母の財布からこっそり5円を盗みました。1度見ると続きが気になり、何度もお金をくすねては、最終回まで通ってしまいました。

 ある夜、ふと目覚めると、仏間に明かりがついていました。のぞくと、義母が仏壇の前で泣きながら手の甲を火箸でたたいていたのです。『操ちゃんはいい子なんだ。ただ5円を取るこの手が悪いんだ…』

 祈りともうめきとも取れるような声が私の心に深く伝わってきました。義母の手には痛々しいミミズ腫れがありました。その瞬間、私はワーッと泣きながら義母にすがりついたのです。『お母さんごめんなさい。もう二度とこの手で5円を取らないから…』

 涙とともに、今まで言えなかった『お母さん』という言葉が出てきました。母の愛の前に、冷え切っていた私の心は完全に溶かされたのです。あの頃の私が欲していたのは、母親の確かな愛の深さだったのだと思います。
 『父母は子どもを愛するのに自分を主張せず、自分がない立場で子供を愛するのです』 文鮮明」
https://www.youtube.com/watch?v=kPCb_kUoJ4M

 このようにほとばしるような愛情が出てくる心の奥底の部分、これを私たちは「心情」と呼んでいます。この心情から、真の愛がほとばしるように出てくるのです。この心情とは、愛したいという衝動であり、人間の心の最も中心的な部分をなしています。したがって、よき人格の持ち主とは究極的にはどんな人であるかといえば、よき心情の持ち主であるということになります。すなわち、相手を愛そうという情がほとばしるような心情を持っている人が、良き人格の持ち主であるということなのです。

 そしてこの心情こそが、よき人間関係を結び、幸福な人生を送るために最も重要な属性であるということになります。私達の人格にはほかの構成要素もあります。たとえば知性とか意志など、いろいろな要素があるわけですが、それらよりももっと重要で中心的なのが、愛したいという衝動が心から湧き出でているか、心情が育っているかどうかということなのです。なぜなら、この森山先生のお話からも分かるように、圧倒的な心情の前にときとして理屈は無力であるからです。

 それでは、そうした豊かな心情の持ち主になるためにはどうしたらよいのでしょうか? 豊かな心情が、幸福な人生を送るうえで最も重要な資質であるとするならば、どうしたらそれが育つのでしょうか? 実は、「心情は心情によって育つ」という原則があります。知識の教育や、技術の伝達や習得によっては、心情というものは得られないのです。豊かな心情を持った人から豊かな愛情を受けることによって、はじめて心情が育つということになります。したがって、豊かな心情を持った親から愛された子どもは、情が豊かになるのです。

 しかし、不幸にして親から愛されなかった人はどうなるのでしょう? その場合には、代わりに愛してくれる人に出会うか、それを見つけることによって、幸福な人生を拓くことができるのです。森山操先生の場合には、実の親からは愛を受けることができませんでしたが、育ての親に愛されることを通して、情が育っていったのです。

 豊かな心情を持つためのもう一つのポイントは、愛されるだけではなく、愛する体験をすることです。そのためには愛する対象を持つことが必要で、一人で生きていたのでは情は豊かになりません。なぜなら、対象によって自分の愛情が引き出されるからです。だからこそ私たちは結婚しなければならないし、子供を持たなければならないのです。それは私たちの心情の成長にとって必要だからです。

 しかし問題は、常に愛情をほとばしらせながら生きるのは、現実には非常に難しいということです。どんなに愛そうとしても、疲れてしまったり、情が枯渇してしまうということがあります。私たちの心の中から無限の愛が出てくるというのは、なかなか難しいわけです。ですから私たちは、無限なる心情の源泉に触れて、そこからエネルギーを頂かないと、ほとばしるような心情の持ち主になることはできないのです。そのためには、無限なる心情の源泉、すなわち神様の愛に触れなければならず、神様の愛を知らなければならないのです。

 これがこの説教の第一番目のポイントだということになります。私達が心情豊かな人になるためには、豊かな心情の源泉である神様を知らなければならないということです。
(次回に続く)

 

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