憲法改正について04


⑤日本国憲法の成立過程に対する当時の有識者の評価

 日本国憲法が成立した当時、その時代に生きた知識人たちは新憲法をどのように評価していたのでしょうか? 注目すべき評価の一つに、東京帝国大学総長や貴族院議員を務めた南原繁の言葉があります。彼は内村鑑三の弟子で、無教会派のクリスチャンでした。彼は以下のように言っています。
「日本政府がその憲法の改正に対して、最後まで自主的自律的に自らの責任をもってこれを決行することのできなかったことをきわめて遺憾に感じ、国民の不幸、国民の恥辱とさえ私どもは感じておるのでございます。・・・これは、あたかも何かの都合で初めひとまず英文でまとめておいて、それを日本文に訳したごとき印象を与えるものであります。占領治下の暫定憲法というなればいざ知らず、これをそのまま独立国家たる日本の憲法として、我々が子孫後代に伝えるに足る形式を果たして持っているかどうか。」

憲法改正について図⑨

⑥日本国憲法の成立過程に対する現代の有識者の評価

 それでは現代の有識者たちは、この憲法の成立過程をどのようにみているのでしょうか? 保守派の評論家として有名で、東京大学教養学部教授を務めた渡部昇一は『アメリカが畏怖した日本』(2011年)という本の中で以下のように述べています。
「憲法は国家最高の主権発動である。では、主権のない時代に憲法が制定できるか。存在しない主権を発動できるはずがないから、たとえつくったとしても憲法となりえない。これは法律の素人でもわかる理屈だと思う。

 日本国憲法は昭和21年に公布され、翌22年から実施された。このとき、日本は占領軍の占領下にあった。あの頃、占領軍は憲法に関する一切の議論を封じていたから、憲法の発布に関する詔勅に記された『国民の総意』などあるはずもない。これは真っ赤な嘘である。」

 ちなみに渡部昇一は「日本国憲法無効宣言」という本を書いています。

 もう一人の有名な保守派の論客に、同じく東京大学教養学部教授を務めた西部邁がいます。彼は隔月刊誌『表現者』(2018年)の中で以下のように述べています。
「日本国憲法は『米定』のものであって、『欽定』でも『民定』でもない。あっさりいって、それは日本国民の常識を変更することに狙いがあったのであり、さらには皇室の存在意義をうすめることをも意図して作られたものである。

 アメリカの意図によってつくられた実験国家『戦後ニッポン』の設計書なのであった。今、明治期・大正期の煤だらけの書庫の中から『立憲主義』という単語を取り出して世間に喧伝しようとする知識人が少なくない。

 フランスの人権宣言やアメリカの独立宣言を猿真似して(たった6日間の)拙速で公法学そのものに無知も同然のアメリカの若い軍人たちが草案を書き、それを2日間で翻訳し、ほぼそのまま決まったのが(戦後)日本国憲法であり、それを後生大事に守り抜けというのが今風の立憲主義なのだ。

 立憲主義を本気でいうのであれば、『現行憲法に重大な欠陥ありと判明すれば、できるだけ速やかに改正する』というのが立憲の本意のはずではないか。『悪しき憲法の上に立つ』などという立憲主義はどこをどうひねっても出てくる思想ではない。」

3.GHQの検閲により日本国憲法が聖典化された

 憲法改正が必要な3番目の理由が、日本国憲法があたかも宗教の聖典のように一字一句変えてはならないものにされてしまっているということです。日本国憲法は長年、非常に素晴らしいものであって、批判してはいけないような雰囲気にありました。実はそのルーツは、GHQによる検閲にあったのです。

 憲法については、「連合国最高司令官が憲法を起草したことに対する批判、日本の新憲法起草にあたって、連合国最高司令官が果たした役割についてのいかなる言及、あるいは憲法起草にあたって連合国最高司令官が果たした役割についてのいっさいの批判」を公刊物で発表することが許されませんでした。

 これは全体主義国家の検閲と少しも違わない性格のものです。日本国憲法第21条2項には「検閲は、これをしてはならない」とあるのですが、これを起草したGHQみずからが検閲を行っていたという矛盾があるのです。

 日本国憲法「聖典化」のプロセスは、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」という、GHQによる日本人に対する徹底した思想教育によって進められました。

 1945年10月2日のGHQ一般命令文書には、「各層の日本人にかれらの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する責任、連合国の軍事占領の理由と目的を周知徹底せしめること」と記されています。これに基づいて行われた日本人の思想教育のためのプログラムが以下のようなものです。
・総司令部発行の『太平洋戦争史』による教育(1945年12月~)
・NHKの『真相はこうだ』シリーズ(1945年12月~)
・GHQの命により、国史と修身の新教科書の作成
・戦意高揚や連合国に批判的な書物の没収

 そして最後の仕上げが東京裁判(1946年5月3日~1948年11月12日)です。この「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」に基づく「東京裁判史観」が戦後日本を長らく支配しつづけたのです。これらはすべて、日本を悪、米国を正義と位置付け、日本人に贖罪意識を持たせることが目的でした。したがって、アメリカからいただいた有難い日本国憲法を批判してはならなかったのです。

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