書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』190


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第190回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏は「4 祝福と結婚生活の本質」と題する項目を設け、聞き取り調査の結果得られた知見に対して自分なりの解釈を施している。そこで彼女が下している結論は、祝福は結婚であって結婚ではなく、むしろ結婚という形をとった社会変革運動であり、宗教実践であるというものである。これは暴言に近いものの言い方であり、他者の結婚の本質をこれほどまでに断定的な物言いで規定する資格が一宗教社会学者にあるというのだろうか、と思わざるを得ない内容であった。

 前回はこれに対して、彼女の結婚の定義そのものが現代社会に特有の世俗的で、個人主義的で、(「上昇婚」という言葉に代表されるような)自己中心的な動機に基づくものであることを説明した。たしかに祝福結婚はこうした結婚の定義に収まらないかもしれない。しかし、伝統的な社会においては、結婚は個人の欲望のためにするというよりは、家や血統の存続のため、種族や社会の維持のためといったより公的な目的を持っていた。中西氏の結婚の定義によれば、こうした近代以前の結婚もまた、結婚ではなくなってしまう。

 渡辺京二の著作『逝きし世の面影』は、幕末・維新の時代に訪れた外国人が見た古きよき日本の姿を、彼らが残した文献をもとに再現した本であるが、彼は江戸時代の日本が「子供の楽園」であり、当時の日本人の親子の情愛の深さは、西洋人たちが羨ましがるほどであったことを報告する一方で、夫婦の愛情に関しては日本人にはまったく見るべきものがなかったと述べている。彼はプロイセンの軍人であり外交官であったラインホルト・ヴェルナーの以下のような言葉を引用している。
「わたしが日本人の精神生活について知りえたところによれば、愛情が結婚の動機になることはまったくないか、あるいはめったにない。そこでしばしば主婦や娘にとって、愛情とは未知の感情であるかのような印象を受ける。わたしはたしかに両親が子どもたちを愛撫し、また子どもたちが両親になついている光景を見てきたが、夫婦が愛し合っている様子を一度も見たことがない。神奈川や長崎で長年日本女性と夫婦生活をし、この問題について判断を下しうるヨーロッパ人たちも、日本女性は言葉の高貴な意味における愛を全く知らないと考えている」

 日本の上流階級の女性たちは、しあわせな少女時代を過ごすが、そのしあわせは結婚とともに終わったという。結婚は個人と個人の精神的な結びつきというよりも、家と家の結合であり、実家を離れて夫の属する家に入ることであった。家の支配者である舅姑および夫に対する奉仕者として、徹底した忍従と自己放棄の生活をするのが新婚生活だったのである。昔の日本の女性たちが余裕や自由が持つことができたのは、舅姑が亡くなり、子供が一人前になった後の晩年だけであり、「甘い新婚生活」などというものはそもそも存在しなかったのである。もし中西氏がタイムスリップして江戸期から明治期にかけてのこうした結婚のあり方を調査したならば、彼女の記述は以下のようなものになるだろう。これは統一教会の祝福に対する彼女の評価を、そのまま近代以前の結婚に対して当てはめたものである。
「聞き取り調査から近代以前の日本人女性達は、婚家での生活を『家』を存続させるための義務であるとして受けとめていることが窺われる。彼女達にとっては結婚と結婚生活はこのためにあり、愛情や精神的安定を求めて結婚したのではないことは明らかである。結婚に愛情や精神的安定を第一に求めたのならば、近代以前の結婚は到底受け入れられない。彼女達は儒教的な近代以前の価値観を内面化し、惚れたはれたで一緒になることはふしだらなことであり、親の命令に従うことが娘としての道理であると受け止めることで、親が決めたどこの誰ともわからない相手と愛情もないまま、大変な生活になることを覚悟の上で結婚することができた。

 さらにいえば、近代以前の結婚は結婚であって結婚ではない。結婚をどのようにとらえるかにもよるが、男女の愛情と合意、全人格的な結びつきという点を強調するなら結婚とはいえない。むしろ結婚という形をとった『家』という社会単位の存続であり、儒教的価値観の実践と見る方がわかりやすい。」(以上、魚谷による書き換え)

 こうして比較すると分かることは、中西氏は統一教会の祝福のあり方を否定することを通して、伝統的な社会における結婚をも否定することになってしまっているということだ。しかし、彼女が当然のものとして肯定する世俗的で個人主義的な現代の結婚観は、欧米社会や日本にみられる離婚率の上昇によって破綻しかかっており、再考を求められていることは既に前回説明したとおりである。

 さて今回は、これまで韓国在住の日本人女性に対する聞き取り調査をもとに客観的な記述に努めてきた彼女が、この部分でなぜ「本質」と銘打って批判的な記述をしたのかを分析してみたいと思う。

 そもそも、中西氏が最初に書いた論文「『地上天国』建設のための結婚一ある新宗教教団における集団結婚式参加者への聞き取り調査から一」(「宗教と社会」Religion and Society 2004, Vol.10: 47-70)には、こうした批判的な記述はなく、以下に示すような共感的な記述が見受けられる。
「韓国の男性と結婚し、夫や夫の父母に尽くすこと、子どもを生み育てることは、結婚生活それ自体が、贖罪となり、理想世界『地上天国』建設への実践となる。それは、彼女たちが入信前から求めていた生きる意味や世界平和への思いを満たすことにつながる。彼女たちは、もともと現実の結婚に対して夢や希望を持っていなかったが、生きる意味や世界平和への思いをかなえるという限りにおいて、統一教会における結婚は受け入れられるものとなった。…そこに恋愛感情は必要なく、結婚相手の男性が自分の好みに合うかどうかも問題ではない。日本と韓国の歴史的な関係に照らし合わせるなら、むしろ合わない相手と一緒になることこそ意味がある。結婚生活を続ける中での苦労もやりがいのある苦労となり、乗り越える力を彼女たちに与える。統一教会の結婚は、男女が好意をよせ合った結果の結婚とは異なるが、彼女たちにとって自己実現となり得るものであった。

 最初に述べたように、本稿は、統一教会や合同結婚式の是非を問うものではない。韓国に嫁いだ日本人女性たちの語りから、合同結婚式をとらえ直す試みであった。彼女たちの語りから構成してみると、合同結婚式を受け入れ、韓国での結婚生活を継続できるのは、彼女たちが元来もっていた欲求と統一教会の結婚観が一致した結果であると解釈できるものとなった。もちろん、彼女たちが統一教会の教えを内面化した結果の結婚にすぎないという解釈もできる。ただ筆者は、欲求と統一教会の結婚観とに一致がなければ、彼女たちがA郡に暮らすまでに至らなかったのではないかと感じる。A郡で暮らすとなると生活環境は激変する。田舎暮らし、交際したこともない韓国人男性との結婚生活、場合によっては夫の父母やきょうだいと同居、言葉は満足に通じない、決して豊かとはいえない生活、三食がキムチを中心とした唐辛子味の食生活など、実生活の現実に直面する。欲求と結婚観の一致がなければ、到底A郡では暮らせないのではないかと感じるのである。」(p.64-65)

 この文章からは、統一教会の女性信者達はもともと統一教会の結婚観に一致するような内面の欲求を持っていたことが強調され、それが彼女たちの自己実現となるものであることが肯定的に評価されている。しかし、後に書いた本書の分析では、教団の教えを内面化された結果とし、組織の一員として動いているだけだという否定的な記述に書き換えられているのである。いったいその間に何があったのだろうか? 実はこのことは、米本和広氏の著書『われらの不快な隣人』の中に、以下のように書かれている。
「宗教社会学者の中西尋子が、『宗教と社会』学会で、<『地上天国』建設のための結婚ーある新宗教団体における集団結婚式参加者への聞き取り調査から>というテーマの研究発表を行なった。…その会合に出席にしていた『全国弁連』の東京と関西の弁護士が詰問した。『霊感商法をどう認識しているのか』『(日本の)統一教会を結果として利するような論文を発表していいのか』。出席者によれば、『中西さんはボコボコにされた』という」。

 つまり、彼女は弁護士たちに徹底的に糾弾され、結局はその圧力に屈して、櫻井氏と一緒にこの本を書くことになったのである。このように、いまの日本の宗教学界では少しでも統一教会に有利なことを書こうとすると、たとえその内容が客観的で中立的なものであったとしても、統一教会に反対する人たちから圧力がかけられてしまうのである。それまで聞き取り調査に基づく客観的な記述を行っていた中西氏が、突如として「4 祝福と結婚生活の本質」と題する項目を設け、祝福結婚を一刀両断に切り捨てるかのごとき表現を不自然にしているのは、こうした圧力が背景にあったからであると思われる。
 

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