書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』196


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第196回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第一〇章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の続き

 第194回から「第10章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の内容に入った。この章において中西氏は、韓国家庭連合が発行する新聞『本郷人』に掲載されている信者の証しを分析することを通して在韓日本人信者の全体像を把握し、それを自身のフィールドワークによる調査結果と比較している。その中で中西氏は、「3 本郷人互助会の援助対象者」という項目を設けて、祝福家庭の中でも特に困難な状況にある家庭の状況を一覧表にして掲載している。互助会の援助を受ける者たちは、病気、事故、災害、詐欺などで緊急支援を要する祝福家庭である。中西氏が出会った在韓日本人信者の中にはこれほど困難な状況にある祝福家庭はいなかったため、これらは特殊事情と言える。

 実は中西氏は本章と同じ内容を「韓国に渡った統一教会日本人女性信者の実態」と題して『宗教と現代がわかる本2011』(平凡社)に掲載しているが、これに対して統一教会広報局が2011年6月13日付で「抗議及び謝罪要求」を出している。抗議の趣旨は、中西氏が『本郷人』の証しの中から「過去の困難な状況」の部分だけを抜き出し、みんなで助け合った結果「今は幸せになりました」という、事実伝達で最も重要な結論部分を意図的に省いている点だ。これは「韓日祝福家庭は困難な状況にある」という印象を読者に与えようとする悪質な情報操作であり、侮辱であるというわけだ。しかし私は、本章を全体として見るとき、問題点は個々のデータよりもむしろ「4 調査事例との比較」と題した価値判断の部分にあると思ったので、今回はこの点について分析を行いたい。

 中西氏が『本郷人』に掲載された信者の証しを分析した目的は、彼女の調査対象が「はずれ値」ではなく、在韓日本人信者の平均的な姿であるかどうかを確認するためであった。この問いに対する中西氏の結論は、「調査事例は、ソウル中心部での事例を除けば、在韓の韓日祝福家庭のほぼ平均的な姿と見て差し支えないだろう。」(p.528)というものである。社会学的な調査結果の報告であれば、これで目的を達成したはずであり、それ以上の記述は必要ないはずである。ところが中西氏はまたしてもここで主観的な価値判断が込められた評価を行っている。調査の結論は、大多数の在韓祝福家庭婦人は経済的には楽でなかったとしても何とか平穏無事に暮らしており、一部に特別な支援を受けなければならない困難な家庭が存在するが、彼らは信徒の互助組織から援助を受けているというものであった。しかし、これでは「統一教会に対する批判的な研究書」であるという本書の目的が果たせないと感じたのか、いきなり以下のような記述が始まるのである。
「調査事例や『本郷人』の事例から浮かび上がってくる韓日祝福の家庭の様子は、日本人女性達が生まれ育った家庭よりも経済的・社会階層的に下降移動した暮らしである。もし彼女達が統一教会に入信せずに日本で一般の結婚をしていたならば、おそらく経験せずに済んだ暮らしぶり、生活水準であろう。経済的安定や都市部に暮らすことだけが幸福の基準になりえないにしても、彼女達の韓国での暮らしは信仰のもとに強いられたものである。統一教会では、韓日祝福は怨讐を超えた理想の結婚であり、自分で望んでできるものではなく神の召命であると教える。韓日祝福は最も理想の結婚と強調しながら、現実はその逆である。それでも困難を乗り越えてこそ神に嘉される理想家庭となると説き、日本人女性達に忍耐と努力を求める。」(p.529)

 農村に嫁いだ日本人女性達の結婚が「下降婚」であったことが客観的な事実であったとしても、それが信仰のもとに強いられたものであるという彼女の主張には全く根拠がない。以前にも紹介したが、中西氏が最初に書いた論文である「『地上天国』建設のための結婚一ある新宗教教団における集団結婚式参加者への聞き取り調査から一」(「宗教と社会」Religion and Society 2004, Vol.10: 47-70)においては、「統一教会の結婚は、男女が好意をよせ合った結果の結婚とは異なるが、彼女たちにとって自己実現となり得るものであった。…。彼女たちの語りから構成してみると、合同結婚式を受け入れ、韓国での結婚生活を継続できるのは、彼女たちが元来もっていた欲求と統一教会の結婚観が一致した結果であると解釈できるものとなった。…筆者は、欲求と統一教会の結婚観とに一致がなければ、彼女たちがA郡に暮らすまでに至らなかったのではないかと感じる。」(上記論文のp.64-65)と書いてあるように、調査直後の記述においては、この結婚が強いられたものであるとはひとことも言っておらず、むしろ肯定的な評価をしているのである。それが本書においては「信仰のもとに強いられた」という真逆の評価に差し替えられているのだ。このような主張の「ブレ」を見ても、彼女のこの記述はをそのまま信じることはできない。そもそも、「信仰のもとに強いられた」という表現自体が矛盾をはらんでいて意味不明である。信仰に基づく行為であれば、それは本人の主体的意思であるはずだ。強いられるとは本人の意思に反して強制されることだが、中西氏の記述する日本人信者たちの生活の様子には、強制の要素は一切見当たらない。中西氏は「自分で望んでできるものではなく神の召命である」という教えをその根拠にしていると思われるが、神の召命は個人の内面における宗教体験によって主観的に感じられるものであり、他者が強制できるものではない。こうした発言は中西氏が「宗教音痴」であり、宗教的な事柄に対しては専門的な発言をする資格がないことを示している。

 もう一つの中西氏の問題は、「韓日祝福は最も理想の結婚」であるという統一教会の宗教的観念と、韓日祝福家庭の現実の貧しさをごっちゃにして「逆である」という価値判断をしていることである。日本人女性達は経済的な豊かさを求めて韓日祝福を受けたのではないし、韓国の田舎の現実を知らないわけでもなかったにもかかわらず、そこに宗教的な意義を見出して韓国に嫁いできたのである。彼女たちが思い描いていた「理想の結婚」は、経済的な豊かさを求めるという世俗的な「理想」とは全く関係がない。それを「逆」であると同一次元で対比させる中西氏の論法は、統一教会の宗教的価値観に対して世俗的な価値観を押し付けて批判していると言える。中西氏は続けて以下のように書いている。
「証しに綴られている内容も舅姑に仕えた、問題ある夫だが夫に感謝し立てるようにした、自分に問題があったと改心した、夫が失業したときは働いて生活を支えたなど、現状をそのまま受けとめ、耐えて頑張ったという話が中心である。よく耐えて暮らしているものだと思うが、統一教会では人類始祖の堕落によって世界はサタンの支配となったのだから苦労するのは当然と考える。堕落で人間が背負った原罪、自犯罪、遺伝罪、連帯罪は、苦労することで清算、すなわち蕩減になるとされる。苦労は意味づけされることによって宗教実践となる。在韓の日本人信者は、苦労を地上天国のため、霊界で幸せに暮らすためには必要な宗教実践と受けとめて暮らしているわけである。人間だれしも苦労したくはないが、同じ苦労であっても意味がある苦労なら耐えられるのと同じで、彼女達も蕩減という意味づけによって苦労を甘受している。」(p.529)

 自分の身の回りに起こる苦労が罪の清算であるとか、先祖の因縁であると捉えるのは、統一教会に限らず多くの宗教の教えに共通している。苦労が意味づけされることによって宗教実践となるというのも同じである。中西氏はそもそもそういう考え方一般をどう評価しているのだろうか。記述を見る限りでは、彼女の主張には一貫性がなく、ブレまくっていると言えるだろう。彼女は、そうした生活をしている女性に直接インタビューをしたわけであるから、ある意味で同じ女性として、苦難に立ち向かう彼女たちのたくましい姿に敬意を抱いた面もあったのだろう。その一方で、「日本人女性信者達だけが地上天国を目指して孤軍奮闘しているように思えてならない」(p.529)という批判も忘れない。日本人女性そのものを責める気持ちにはなれないので、その周辺にいる夫や舅姑、統一教会、韓国社会の構造などターゲットにせざるを得ないのであろう。しかし、犠牲者たる日本人女性たちが感謝してたくましく生きているのであれば、この主張も説得力がない。

 この項目の最後の記述もまた、中途半端な内容になっている。
「結婚難にある地方の男性やその家族にとっては、嫁いで来てくれて、経済的に貧しくても不平不満を言わずに尽くしてくれる日本人の妻はありがたい存在である。また証しにあるように、周囲の人々との交流を通して日韓の不幸な歴史のわだかまりが解消されるならば、それに越したことはない。この点は認めるにしても日本人女性達が払っている代償(彼女達は代償とは思わないだろうが)もまた大きい。」(p.529)

 中西氏の主張は、一言でいえば「アンビバレント(ambivalent)」ということになるであろう。これは同じ物事に対して、相反する感情を同時に抱くことであるが、中西氏が研究の最初の段階で日本人女性たちに抱いた感情は、最初は驚きと好奇心であり、それが次第に共感と感服に変わっていった。信仰を共有しないまでも、こうした人生もあるのだといったんは受け入れたのである。にもかかわらず、その後の統一教会反対派からの批判を受けて、彼女は韓日祝福を批判しなければならない立場に追い込まれ、そうした義務感から取ってつけたような批判を展開しなければならなくなったのである。これは彼女自身の保身のためでもある。中西氏の客観的な調査研究に比べて、主観的な評価の論理が破綻したり矛盾したりしているのはそのためである。

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