書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』191


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第191回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏は「5 信仰のない夫や舅姑との関係」と題する項目を設け、篤信の信者である日本人の妻と、信仰がほとんどないか、あっても熱心ではない夫や舅姑との間で信仰をめぐる葛藤が起こらないのかどうかを分析している。中西氏によれば、日本人の妻にとって祝福は結婚であって結婚ではなく、むしろ結婚という形をとった社会変革運動であり、宗教実践であるというものであった。それに対して韓国人の夫は田舎における嫁不足を解消するために祝福を受けたのであり、目的は宗教ではなく結婚そのものであった。舅姑も、息子を結婚させたくて祝福に申し込んだのであり、信仰は二の次である可能性がある。そのようにして成立した結婚には、信仰の違いによる葛藤が生じるのではないかと中西氏は予想したのである。

 ところが、中西氏の聞き取りによれば、それは双方にとってそれほど深刻な問題ではなかった。まず、日本人女性たちの夫の信仰に対する評価であるが、夫に信仰がないことを妻は十分に承知しているという。夫は礼拝には出てこないか、出たとしても妻が喜ぶからという程度の動機なのだが、それでも「信仰なしとは言えない」と彼女たちは解釈しているというのである。すなわち、韓国人はたとえ原理を知らなくても、韓国文化そのものの中に原理が根付いていて、「為に生きる」生活ができているというのである。

 この語りは、以前に紹介したことがある韓日祝福を受けて韓国にお嫁に行った知り合いの姉妹の言葉とほぼ同じ内容である。彼女の主体者は親戚に教会員がいて、その人から「統一教会に入れば結婚できる」と言われ、それを動機として入教し、祝福を受けた韓国人であった。こうした場合、祝福を受ける動機は結婚そのものにあるので、宗教的教育は一通りの原理講義を聞いて終わりという場合が多い。『原理講論』を読んだこともなく、その内容を細かく覚えてはいない。伝道される過程で原理講義を何度も受け、『原理講論』を熱心に読む日本の統一教会信者から見れば、「本当に原理を分かっているのかしら?」と思うかも知れない。

 ところが、彼女のとらえ方は違っていた。主体者の両親と同居しながら結婚生活をする中で、主体者が両親に親孝行する姿に感動したのである。主体者はいわゆる優秀で社会的地位のある人ではなかったが、思いやりがあり、人に尽くす人であった。その姿を通して彼女が感じたのは、「自分は『原理講論』の内容を頭で知っているけれども、実際には人の為に生きる生活が出来ていない。しかし、彼は教理としての原理は良く知らないかもしれないけれども、生活の中で自然に親孝行し、人の為に生きている。彼は心で原理を知っているのであり、彼の生活は私よりも原理的かもしれない」ということであった。日本人は信仰をとかく理論理屈でとらえるのに対して、韓国人にとってそれは生活の中で自然な情の発露として現れるものであるという、典型的な例であった。彼女はそうした夫を尊敬し、愛し、二人の子供に恵まれて韓国で幸せに暮らしている。

 それでは舅姑との関係はどうだろうか? 中西氏は、韓国には「シジプサリ(嫁暮らし)」という言葉があり、夫や舅姑に無条件に仕えて暮らす嫁のあり方は韓国の女性にとっても大変辛いものなので、韓日祝福の日本人女性にとってはなおさらであるとしている。私の知り合いの中にも、韓国に嫁いで舅姑と同居している日本人女性がおり、彼女たちが「シオモニ(姑のこと)に侍るのがすごく大変だ」という話を聞いたことはあるので、シジプサリが大変だというのは事実なのであろう。にもかかわらず、本書では日本人妻が舅姑と比較的良好な関係を築いていることが紹介されている。

 統一教会では先祖を大切にするので、儒教の伝統行事である先祖祭祀の時に嫁としての役割を果たすことに対して、日本人の女性信者は抵抗がない。家族や親族が集まる祭祀のときに食事の準備などの手伝いを頑張れば、嫁としての評価も上がるという語りが紹介されている。一方で、長男のお嫁さんはクリスチャンであり、先祖祭祀は偶像崇拝に当たるとして来ないので、むしろそちらの方が信仰に起因する葛藤を引き起こしそうだというわけである。

 統一教会の日本人妻は、夫や舅姑と信仰を共有していなかったとしても、妻の信仰が家庭に支障をきたすようなものでない限り、宗教をめぐる葛藤は起こりにくいと中西氏は分析する。むしろ、日本人女性信者たちにとって信仰実践とは、夫や舅姑によく尽くし、子供を産み育て、家庭をうまく切り盛りすることにあるので、信仰に忠実であればあるほど良妻賢母となり、夫や舅姑に気に入られ、周囲も感心する良い嫁になるというのだ。

 ここで中西氏は、以前このブログで私が紹介した2006年3月号『月刊新東亜』の記事を引用している。その記事は韓国でたくましく生き、社会的にも活躍している日本人の祝福家庭婦人について書いたものだ。
「最近、農村社会で膾炙する話題の中の一つは、韓国農村の独身男性に嫁いできた統一教を信じる日本の嫁である。彼女達は地方各地で数々の団体が授与する孝婦賞をさらっている。……KBSの全国のど自慢の番組にときどき出演して韓国歌謡を歌う農村の日本女性や、光復節にあたって放送や新聞を通して日本の韓国侵略に対して謝罪する日本人の嫁達はたいてい韓国に嫁ぎ、『婚家の方をより愛するように』なった日本統一教信者である」(イ・ジョンフン 二〇〇六)」(p.504)

 この「孝婦賞」というのは、親孝行を実践した模範的な女性に与えられる賞だが、里長や老人会長、地域の人々などの推薦により、郡、農協、赤十字、老人会などの団体が授与するという。祝福家庭の日本人婦人の場合には、農村に嫁いで言葉や生活習慣が違う中で、慣れない農作業や家事育児をきちんとこなし、舅姑が寝たきりになれば下の世話も嫌な顔をせずにするという姿が評価されて受賞するのである。

 このように中西氏は、信仰のない夫や舅姑との関係をいたずらに歪曲して葛藤に満ちたものであると描くことなく、比較的良好な関係になるように日本人女性がうまく適応している現実をありのままに描いており、この部分の記述に関しては好感が持てる。

 にもかかわらず、信仰のない夫や舅姑との関係は必ずしも楽なものではなく、多くの日本人女性が苦労している部分であることを、ここではあえて紹介しておく。それは私が実際に知っている日本人女性信者から聞いた内容でもあり、以前にこのブログでも紹介した、国際家庭特別巡回師室編『本郷人の道』の記述の中にもそうした内容が見られるからだ。

 祝福は、本来は男女とも信仰を動機としてなす結婚であるべきである。しかし、韓国統一教会には日本人女性の相手となる十分な数の男性信者がいなかった。そこで日本人の女性信者の相手を探すために、結婚難に苦しむ田舎の男性に声をかけるということを始めたのである。信仰のない男性に嫁がせることに対する不安や批判は当然あったと思われる。しかし日本の女性信者は優秀で信仰が篤いので、そうした男性をも教育して最終的には教会員にすることを期待して、これらのマッチングが行われたのであろう。しかし、そもそもの動機が信仰ではなく結婚にあった夫を伝道するのは容易ではなく、妻が夫よりも教会を優先する姿勢を見せれば、夫は機嫌が悪くなり、教会に対する反発や不信感をいだくようになる。このことは『本郷人の道』の中で以下のように書かれている。
「任地生活は本来、夫婦が一つの心情で共に行くべきものです。私たちが陥ってはいけない立場は、相対者に向かう横的情を犠牲にして信仰生活に投入する、といっては、『教会活動』を理由に相対者の意識を無視してしまい、結局、相対者の中に教会に対する不信感を抱かせてしまうことです。本来教会によって得た祝福であって、常に私たちを通して相対者が教会を理解し、教会に感謝し、そこから喜びを持って信仰生活ができるようにしていかなければなりません。時々、韓国の相対者に『あなたは教会と私のどちらを取るのか』などの思い詰めたことを言われてしまう例があります。結局、その『教会』と『私』を一つにできなかったということは、任地を共に勝利したということにはならず、家庭出発後も変わらずみ旨を中心に生活していくということが難しくなってくるのです。」(『本郷人の道』p.323)

 信仰のない夫や舅姑との関係は容易なものではなく、多くの日本人女性が理想と現実の狭間で苦労している問題である。にもかかわらず、多くの日本人女性たちが自らに課せられた試練を乗り越えて、夫や舅姑と良好な関係を築き、地域社会から「孝婦」として表彰されているというのは驚くべき事実である。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク