Web説教「メシヤと私」02


 前回から「メシヤと私」と題するWeb説教の投稿を開始しました。1980年代に作られた「世にも不思議な物語的」なショートドラマ「善行銀行」のストーリーを紹介するところから始めました。亡くなった祖母の積んできた善行を相続して、たちまち運が回ってきたキイチでしたが、すぐにそれを使い果たしてしまい、ツキに見放されてしまいます。そこで彼は「人生サクセスローン」という「善行の前借り」をし、一日三善を約束するところまで話を進めました。

 その翌日からまたツキが回ってきます。城南大学からは推薦入学の合格通知が届き、ヒロミちゃんとの交際も再開します。やがて4月になり、晴れてヒロミちゃんと一緒に城南大学に入学するなど、まさに順風満帆の人生を歩むようになります。しかし、一日三善の約束の方はどうなったかというと、献血の募集とか、電車で老人に席を譲る場面など、ポイントを稼ぐ機会に出くわすたびに、それを実行できずに月日だけが過ぎて行ってしまうのです。

 そうして一年が過ぎ去ったころ、キイチの目の前に、善行銀行の女性行員が現れます。「ローンの支払い期日はとうに過ぎております。お支払いの意思はおありですか?」と詰め寄る女性行員に、「払うよ。払うから、付きまとわないでくれよ」とキイチは答えます。女性行員が「一日50回ほどの善行が必要ですが・・・」というと、キイチは「50回? 無理だよ」と背を向けます。すると女性行員は「お支払いいただけないときには、強制執行に踏み切らせていただきます」と、悲しそうな顔をしてその場を立ち去っていきます。「強制執行? どういう意味だよ!」と言いながらキイチは女性行員を追いかけます。すると、彼の背後からオートバイが走ってきて、バーン!と彼に衝突し、キイチは倒れて道端に放り出されてしまいます。「ピーポー・ピーポー」という救急車の音と共に、ドラマは最後の場面に入っていきます。

 例の善行を積んでいた年配の紳士が病院のベッドに横たわっています。そばで奥さんが、「あんた、もうすぐだからね。でもよかったね~。これも毎日少しずつ貯めておいたおかげですよ。」と声をかけます。

 そこへ医者が入ってきて、「準備が出来ました。すぐ始めましょう」と言います。紳士を乗せたキャスター付きのベッドが病院の廊下を運ばれていくと、そこに善行銀行の女性行員が立っています。紳士は銀行員に、「どうもありがとうございました」と礼を言います。そこに脳死状態になったキイチのベッドが運ばれてきて、同じ手術室に入っていきます。意識なく横たわっているキイチに対して女性行員は、「やっと、全額返済できましたね。」と声をかけると、ゆっくりとその場を立ち去っていきます。

 そして、病院の廊下に落ちていたキイチの善行銀行の通帳には、「臓器提供」と書かれてあり、それでポイントがマイナスからゼロに戻って「完済」のマークがついていた、というのが「落ち」になります。つまり、キイチは貯まっていた負債を一気に清算するために、臓器を提供しなければならなくなり、その臓器は、ポイントをコツコツ貯めていた、例の紳士の病気を治すために使われた、ということです。

 このドラマの背後には、日本人に広く共有された一つの世界観、宗教観があります。それは「因果応報」と言われるもので、良い行いをしてきた者にはよい報いが、悪い行いをしてきた者には悪い報いがある、という仏教的な世界観です。これ自体は、一つの宗教的真理であって、仏教のみならず、多くの宗教に共有されている考え方です。実は私たち家庭連合の教えにもこういう考え方はありまして、原理講論の中では「蕩減復帰」という言葉で説明されています。

 この「蕩減復帰」というのは、どのような意味でしょうか? それは、「どのようなものであっても、その本来の位置と状態を失ったとき、それらを本来の位置と状態にまで復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足る何らかの条件を立てなければならない。このような条件を立てることを『蕩減』というのである。」と説明されています。その具体的な例として、地位や名誉のある人が失敗によってそれを失った場合、無条件でもとの地位や名誉を回復することはできず、必ずその失敗を埋め合わせるに足るだけの、なんらかの条件が必要です。スキャンダルによって失墜した名声は、よほど反省して人に尽くした姿を見せない限りは回復されません。

 また、愛しあっていた2人が何かのはずみで憎みあうようになったとすれば、お互いに何もしなければもとの人間関係を回復することはできません。相手に謝罪をするとか、相手が喜ぶような物を贈るなどの、「埋め合わせ」をして初めて、もとの仲の良い関係に戻ることができる、ということです。

 要するに蕩減とは、負債のあるマイナスの状態から、善なる行いをすることによって、プラスのポイントを貯めていき、負債を精算するという意味なのです。しかし、実際のこの蕩減の払い方には、大きく分けて二通りのやり方があります。原理講論にはこうした表現そのものは出てきませんが、あえて名付ければ「消極的蕩減」と「積極的蕩減」ということができるでしょう。

 「消極的蕩減」というのはどういうことでしょうか? これは、他人を苦しめた罪の清算のために、それに相当する苦しみを自分が負うということです。ある日突然、怪我とか、病気とか、不運などに見舞われることによって清算されるという形になります。「バチが当たる」というような表現が日本にはありますが、まさにそういう状態です。基本的に本人に宗教性がなく、罪の自覚がない場合には、このような清算の仕方になります。善行銀行でいえば、「強制執行」がこれに当たります。

 一方で、「積極的蕩減」とは何でしょうか? それは、犯した罪や悪を埋め合わせるに足りるだけの善を、意識的に、積極的に行うことを言います。こうしたことができるためには、まず本人に罪の自覚がなければなりません。ですから、宗教性が必要になります。宗教における修道の道とか、積善の生活とか、犠牲的生活というのは、すべてこの「積極的蕩減」の道だといってよいと思います。そのようにしてコツコツとポイントを貯めていけば、突然の強制執行を免れることができる、ということが、宗教を信じることによって受ける、恩恵の一つだということになります。

 このように、「因果応報」と呼ばれる世界観には、「蕩減復帰」に通じる内容があり、一つの宗教的真理が含まれています。しかし、私がここで「一つの」宗教的真理と言ったのは、それですべてが説明できるわけでもないからであります。

 仏教における「因果応報」の思想は、基本的に「自業自得」という考え方に基づいています。すなわち、自分の犯した罪の報いが、自分の身に降りかかってくるということで、基本的に個人主義的な思想だということになります。ですから、自分の身を助けるために、自分でコツコツとポイントを貯めていきましょう、ということになります。人生における幸不幸も、あるいは来世における天国も地獄も、まるで学校の通知表のような、客観的なポイントで決まるということなんですが、果たして本当にそうなんでしょうか? (次回に続く)

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