北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ03


 北村サヨと天照皇大神宮教に関する研究シリーズの3回目である。今回から教えの内容に入っていくことにする。

<神仏習合を背景とした天照皇大神宮教の教え>

 一人の教祖が宗教を創設したといっても、何の背景もなく真空状態からまったく新しい宗教が生まれるということはあり得ない。イエスもユダヤ教の伝統の上に立って新しいメッセージとしての福音を説いたのであり、釈迦もバラモン教の改革者として登場した。ムハンマドも当時のアラブの宗教の土台の上に独自の教えを説いたのである。日本の新宗教の場合には、伝統宗教である神道もしくは仏教を背景として、教祖が新しい解釈や天啓を得て創設される場合が多い。よって日本の新宗教は神道系と仏教系に大別されるが、そもそも日本の宗教伝統自体がそれらが混じりあった「神仏習合」の状態にあったので、神道と仏教の両方から影響を受けている新宗教も多い。天照皇大神宮教もその一つである。

 天照皇大神宮教の集会では、最後に「祈りの詞」というものを揚げるが、島田裕巳が指摘するように、「神道と仏教の教義の素朴な寄せ集め」(『日本の10大新宗教』、p.92)といってよい内容になっている。以下のような文言だ。
 天照皇大神宮 八百万の神
 天下太平 天下太平
 国民揃うて天地のお気に召します上は
 必ず住みよき神国(みくに)を与え給え
 六魂清浄(ろっこんしょうじょう) 六魂清浄
 我が身は六魂清浄なり
 六魂清浄なるが故に
 この祈りのかなわざることなし
 名妙法連結経(なみょうほうれんげきょう)
 名妙法連結経
 名妙法連結経

 ここに登場するいくつかの言葉を分析すると、まず教団名にもなっている「天照皇大神宮」は伊勢神宮の内宮の別名である。内宮の祭神は天皇家の祖神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)であり、「八百万の神」は神道の神々の総称である。教祖である北村サヨが神憑りの体験をするのも、真夜中に神社に日参する「行」を行ったことがきっかけとなっていることから、サヨの宗教的背景として神道があることは間違いないであろう。ただし、伊勢神宮と天照皇大神宮教の間には直接的なつながりはない。

 一方、「六魂清浄」という言葉は仏教用語の「六根清浄」から来ている。この二つの言葉は音が全く同じであるため、上之郷利昭の『教祖誕生』では「祈りの詞」に登場する「六魂清浄」が正しく表記されているが、島田裕巳の『日本の10大新宗教』では仏教用語の「六根清浄」と誤記されているくらいに紛らわしい。六根とは五感に加えて第六感とも言える意識の根幹を総称した仏教用語で、①眼根(視覚)、②耳根(聴覚)、③鼻根(嗅覚)、④舌根(味覚)、⑤身根(触覚)、⑥意根(意識)のことである。仏教においては、六根は人間の認識の根幹とされ、それが我欲などの執着にまみれていては正しい道(八正道)を行くことができないので、執着を断ち、心を清らかな状態にするように教えている。したがって修行僧は不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、感じないように、俗世との接触を絶ったのである。一方、天照皇大神宮教の「六魂清浄」とは、①惜しい、②欲しい、③憎い、④かわいい、⑤好いた、⑥好かれた、という六つの魂が根本になって人間はできており、これらを清浄にすることであるとされている。似て非なるものであるというわけだ。

 「名妙法連結経」は、「南無妙法蓮華経」の題目に由来するものだが、天照皇大神宮教においてはただの呪文のような唱え言葉で、法華経信仰とは直接の結びつきを持っていない。興味深いのは、サヨの実家は浄土真宗であり、嫁いだ北村家も浄土真宗だったことからすれば、「南無阿弥陀仏」という念仏になってもよさそうなものだが、どういうわけか「南無妙法蓮華経」に音が似ている「名妙法連結経」となっている点だ。サヨがキリスト教の影響を受けたという証拠はないが、「神国(みくに)を与えたまえ」という表現はキリスト教の主の祈りにそっくりである。天照皇大神宮教では、教祖である北村サヨ(大神様)と釈迦とキリストを宇宙絶対神に使われた三人の救世主であると認めていることから、キリスト教からもなんらかの影響を受けた可能性はある。

 日蓮正宗が他宗教を批判したサイトの一つである「天照皇大神宮教の誤りを破す」(http://www.correct-religion.com/ryouran/html/tensyou.html)では、これらの教えについて「教団では『六魂清浄』なる珍説を掲げています。これは仏教で説く『六根清浄(ろっこんしょうじょう)』を勝手にもじっただけのものです。『名妙法連結経』も六魂清浄と同じく、『南無妙法蓮華経』をデタラメにもじって勝手につくった造語でしかありません。」と批判している。

 それに対して現役信者である春加奈織希による「遥かな沖と時を超えて広がる 天照皇大神宮教」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~harukanaoki/index.html)では、「天照皇大神宮教で使われる用語には、当時の言葉の同音異義語などがありますが、安易にもじったり真似たものではなく、肚の神様が人々にわかりやすいようにとお使いになったものであり、どれも神教を体した深い意味をもった言葉です」と反論している。「名妙法連結経」については「一見、仏教の『南無妙法蓮華経』と似ているが、 たまたま音が似ているだけで、まったく無関係。」とし、「六魂清浄」についても「仏教の六根清浄とは異なる教えです」と主張しており、既存の仏教の教えとの関係を否定している。

 批判や護教の立場を離れて、これらの言葉を客観的に評価すれば、ここまで音が似ている以上、教祖の受けた啓示がたまたま既存の宗教用語と似ていたという主張は苦しいであろう。しかし、教祖の神憑りや啓示と、教義の構築・伝達の関係をより内在的な視点から整理すれば、天照皇大神宮教側の主張も理解できないことはない。そもそも、神の啓示を受けたとか神憑りをしたというのはきわめて個人的な体験であり、言葉では表現しきれない信仰の原点となる部分である。そこにこそ、その信仰のオリジナリティーがあるのであるが、教祖がその体験を誰かに伝える段階になると、周辺の文化圏に存在する言葉を用いなければならない。自らが出会ったものを何と呼ぶのかからして問題となるのであるが、「神」と呼んだ瞬間から、それを受ける側は自分があらかじめ持っている「神」のイメージを持ってそれを受け止めることとなる。目に見えないものであるだけに、両者の頭の中にある「神」のイメージが異なる可能性は多分にあるのだが、それでも言葉を媒介としない限りはその体験を伝えることはできないのである。

 それと同様に、教祖の教えも周囲の人々に分かりやすいように、その人々が慣れ親しんだ宗教的概念や文化的概念を通して教えなければ伝わらないし、広まらない。北村サヨの教えも、彼女が神から直接教えられたという点ではオリジナルなものに違いないのであろうが、それを表現する際には周囲の文化に存在していた類似の宗教概念を用いざるを得なかったということなのであろう。しかし、その繰り返しではなく、新しい意味を吹き込んで再解釈したところに彼女のオリジナリティーがあると言ってよい。

<キリスト教の伝統に立つ家庭連合の教え>

 一方で、世界平和統一家庭連合の教義である「統一原理」は明確にキリスト教の伝統に根ざすものであり、旧約聖書と新約聖書は教団の教典として認められている。だからと言って既存のキリスト教とまったく同じ教えであるという自己認識ではなく、旧約聖書と新約聖書からさらに一歩進んだ「新しい啓示」が統一原理であるという自覚がある。文鮮明師の生家は韓国の伝統的な儒教の家門であったが、途中からキリスト教の長老派に改宗し、文師自身も少年期にキリスト教会に通っている。文師の教えをまとめた『原理講論』には旧約聖書と新約聖書が多数引用されており、神、罪、終末、メシヤ、復活、再臨などの用語もキリスト教と同じように用いられている。したがって、宗教としては明らかにキリスト教に分類されるべき教えであると言える。しかしながら、統一原理は既存のキリスト教神学とは多くの点で異なっており、ある意味で革命的な教えであるために、既存のキリスト教会からは異端視されている。

 文師は15歳の時に深い祈祷の中でイエス・キリストと出会うという宗教的な体験をした。それ以降、彼は求道の道を歩み、人生と宇宙に関する根本真理を解明したとされる。それを表現するために用いられる用語はキリスト教的なものだが、それは既存の神学の繰り返しではなく、まったく新しい洞察を吹き込むようなオリジナルな解釈なのである。北村サヨと文鮮明師の教えは、互いに表現こそ異なっているが、自らの深い宗教的体験を、自分が慣れ親しんだ周囲の宗教的概念や用語を用いて表現することによって人々を魅了し、新しい宗教団体を創設したという点においては共通している。

カテゴリー: 北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ パーマリンク