北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ06


 北村サヨと天照皇大神宮教に関する研究シリーズの6回目である。第3回からは天照皇大神宮教の教えを統一原理と比較しながら分析する作業を開始したが、今回はこの二つの宗教の人間観と救済論を扱うことにする。

<天照皇大神宮教の人間観:蛆の乞食>

 天照皇大神宮教では、現実の人間の姿を「蛆の乞食」と呼んで痛烈に批判している。北村サヨの有名な歌説法の言葉に、「蛆の乞食よ目よ覚ませ。天の岩戸は開けたぞ。早く真人間に立ち帰れ。神の御国は今出来る。真心持ちほどバカを見る。思うた時代は、早や済んだ。崩れた世の中、おしまいですよ。敗戦国の乞食らよ。早う目を覚ませ。お目々覚めたら、神の国。居眠りしておりゃ、乞食の世界。」という内容がある。サヨは、「蛆」や「蛆の乞食」という表現をよく使った。これは利己心に固まり、神のことを理解しない人間のことをさしている。

 「蛆」である人間が心を磨いて神に近づいていく「行」のことを「神行」という。これは「しんこう」と読み、「信仰」にかけた言葉であるが、意味内容としては「神に行く」ことである。サヨは、「信じ仰ぐ信仰の時代は早や済んだ。しんこうとは神に行くと書け。己の魂の掃除をして神に行くのが神行じゃ。」と説いた。「合正」(がっしょう)という言葉もよく使われるが、「合掌」とは書かない。人間が、神の御心に合うようにと、心を磨くことを指すのだということだ。

 サヨは「他力本願や苦しい時の神頼みではダメだ。敵は自分。自分を磨け。磨いて神に近づけ。」とも説いたという。歌説法の中には、「乞食の世界に座をなして、神様おいと叫んでも、天の神様なんで乞食の世界まで、助けに行くよな神はない」という言葉もある。「蛆の乞食」である人間が神様に救ってもらうのではなく、自ら魂を磨いて神に近づかなければならないと説いている点で、天照皇大神宮教はキリスト教の福音主義や仏教の浄土真宗などとは異なる「自力信仰」の宗教であると言える。

 春加奈織希(本名ではなくウェブ上の匿名)による「遥かな沖と時を超えて広がる 天照皇大神宮教」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~harukanaoki/index.html)と題するサイトでは、天照皇大神宮教の教えの神髄を以下のように説明している。これは『神言抄』という教団の出版物に出てくる教祖の言葉を、分かりやすく表現したものである。
「人生の目的は、心の掃除をして魂を磨き、神様に少しでも近い存在になることである。すなわち、日々刻々と心に浮かぶ邪念を打ち払い、心の掃除をして、自分の自我と悪癖(わるぐせ)・欠点を神様に反省懺悔し真人間になることが、生きる目的である。よって、『しんこう』とは、ただ信じ仰ぐのではなく、神に行く『神行(しんこう)』であると理解すべきである。前世、先祖、自身の半生、これらの因縁因果によって、人は様々な出来事に遭遇するが、それらは、自分の魂を磨く行(ぎょう)の糧(かて)である。すなわち、己の心を鍛え、成長させるとともに、悪癖(わるぐせ)・欠点を反省懺悔して直してゆくためのものと捉えるべきである。」

 天照皇大神宮教の中心的な教えの一つに、「六魂清浄」(ろっこんしょうじょう)がある。六魂とは、「惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれた」であり、①食欲、物欲、金銭欲等にかかわるもの、つまり、何かを失いたくない、または、欲しいという欲望、②人に対して憎い、または、友情や親近感を感じる、③異性に対して好きだ、または、好かれたい、という人間の六つの根源をさす。これは人間が肉体を持って物質界で生きていく上での基本的な本能であるため、それを捨て切れとは言わないが、清浄にせよと教えているわけである。

 そして、この六魂を清浄にするポイントが、「神中心」の生活だということになる。これは神様への感謝の気持ちを忘れず、神様からご覧になって、自分の口と心と行いはどうだろうかと常に反省懺悔しながら、自分中心、人間中心の考えを改めていくことであるという。山口県の田布施にある天照皇大神宮教の本部道場では、教祖・北村サヨの説法をテープで聞き、同志(信者のこと)相互の自らの神行体験に基づく神教(みおしえ)の解説や共磨き(同志が共に神教を中心に神行体験を話して魂を磨き合うこと)が行われている。このように、天照皇大神宮教の救済論は個人の内面にかなり集中しており、その究極的目的である「神の国」も、一人ひとりの内面が磨かれることによって訪れるものであると捉えられている。このようにして内面を磨いて神様に近づいた人間の理想の姿のことを、天照皇大神宮教では真人間(まにんげん)と呼んでいる。

<家庭連合の人間観:創造本然の人間と堕落人間>

 世界平和統一家庭連合の教義である「統一原理」の人間観は、「創造本然の人間」と「堕落人間」という二つの概念によって成り立っている。「創造本然の人間」とは、神が創造したままの姿の、罪のない人間の理想の姿である。それは「神のかたち」であり、神の似姿であり、神性を帯びている。神と一問一答し、神の心情を己の心情のごとくに感じることのできる境地である。このような状態を「個性完成」という。本来、人間は自己の責任を果たしながら一定の成長期間を通過すれば、完成して神と一体となるべく創造されていた。人生の目的が自己を成長させて神に近づくことであるとしている点で、この「個性完成」の理想と天照皇大神宮教の「神行(しんこう)」の概念には相通じるものがある。統一原理の説く「創造本然の人間」と天照皇大神宮教の「真人間」も、意味内容としては非常に似通ったものであると言える。

 統一原理もまた、現在の人間の姿を礼賛しているわけではない。むしろ、現実の人間の姿は多くの罪にまみれた堕落した姿であるととらえている。創造本然の人間は万物の主人の位置にあったが、堕落した人間は万物以下の存在となってしまった。この「土より劣る身」であるという「堕落人間」の概念は、天照皇大神宮教の「蛆の乞食」という人間観と相通じるものがある。人間が堕落することによって、神中心ではなく自己中心的になってしまったとしている点も似ている。この「神中心」という言葉は、天照皇大神宮教だけでなく、家庭連合においてもあるべき人間の姿勢や心構えとしてよく使われる言葉である。

 両者の大きな違いは、天照皇大神宮教においては「真人間」が「蛆の乞食」になってしまった根本原因は説かれていないのに対して、統一原理においては人間堕落の根本原因を旧約聖書の失楽園の物語を解釈することによって明確にしている点である。罪の根は人類始祖アダムとエバが蛇で象徴される天使長ルーシェルとの間に不倫なる血縁関係を結んだことにあり、その結果が血統を通じて全人類に受け継がれていると説く統一原理は、罪悪の起源に関するよりシステマティックな神学を持っていると言ってよいであろう。

 統一原理では、人間は堕落することによって罪と堕落性の二つを持つ存在となり、これが人類始祖から我々にまで受け継がれていると捉えている。両者の違いは、「罪」が法廷論的な概念であるのに対して、「堕落性」は人間の内面や性質に関する概念であるということだ。罪をさらに細分化すると①原罪、②遺伝罪、③連帯罪、④自犯罪の四つになる。これらの罪を清算し、堕落性を脱ぐことが信仰生活の目的になるわけだが、このうち自力ではどうしても解決できないものが「原罪」である。その他の罪は自己の努力によって清算(蕩減復帰)することができるし、堕落性を脱ぐことは個人の努力によるものだが、原罪だけはメシヤによってしか清算されないと考えられているのである。

 天照皇大神宮教における「六魂清浄」によって魂を磨き、真人間になるために「神行」するという教えは、先祖の罪や自己の罪を清算しながら堕落性を脱ぎ、創造本然の人間に近づくことを目的とした家庭連合の信仰生活と相通じるものがある。この部分はこの二つの宗教に限らず、多くの宗教で教えられている普遍的な内容であると言える。しかしながら、家庭連合では自己の努力によって日々魂を磨くだけで最終的な救済に至ることができるとは考えられていない。どこかでメシヤによる「祝福」を受けて原罪を清算し、血統転換しなければならないと説いているのである。

 以上を総合すれば、天照皇大神宮教と家庭連合では、人間の理想の姿と現実の姿のとらえ方において共通点があると言えるが、理想から逸脱するようになった根本原因に対する理解と、救済の具体的な方法においては相違点が見られるという結論になる。天照皇大神宮教にはシステマティックな神学や救済のための儀礼は存在せず、もっぱら内面を磨くことに焦点が当てられているのに対して、家庭連合では創造原理、堕落論、復帰原理という組織神学的な枠組みの中で「祝福」の儀礼が意義付けられ、それが救いの核心部分を形成しているのである。救済論的に見れば、天照皇大神宮教が「自力救済」に傾いた宗教であるのに対して、家庭連合は自力と他力のバランスの上に成り立った宗教であると言えよう。

カテゴリー: 北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ パーマリンク