統一思想から見たマインド・コントロール理論03


前回から3回シリーズで「統一思想から見たマインド・コントロール理論」について試論的にまとめた論文のアップを開始した。今回はその3回目である。

西田の主張する「永続的マインド・コントロール」のもう一つの欠陥は、社会心理学者を自称する者ならば絶対に避けて通れないはずの数値的なデータによる裏づけが欠如しているという点である。西田は自説を補強するために、さまざまな実験データを引っ張り出してはいるが、そのほとんどが宗教とは直接関係のない実験結果ばかりであり、肝心の彼が「破壊的カルト」と呼ぶ宗教団体の説得術がどのくらい効果的であるかを、数値に基づいて検証したデータは一つもない。つまりこれは実証的研究ではなく、「解釈」にすぎないのだ。

現在では家庭連合に対して極めて批判的な宗教学者の櫻井義秀も、この西田論文の問題点を、「人間が生きるコンテキストを捨象した実験重視のアプローチにある」と批判している。しかも櫻井は、マインド・コントロール論そのものに対しても、非常に批判的だったのである。彼は、「騙されたと自ら語ることで、マインド・コントロール論は意図せずに自ら自律性、自己責任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある。・・・自我を守るか、自我を超えたものを取るかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない。・・・そのような覚悟を、信じるという行為の重みとして信仰者には自覚されるべきであろう。」(櫻井義秀「オウム真理教現象の記述を巡る一考察」『現代社会学研究』1996 年 9 月、北海道社会学会、p.94-95)と述べている。

5.オウム真理教事件と「マインド・コントロール論」

オウム真理教事件が起きたときも、「マインド・コントロール論」が叫ばれるようになった。高学歴の若者たちが教祖の言いなりになって無差別大量殺人事件まで起こしてしまったのであるから、これは普通の状態では起こり得ないと考えられた。独房での修行や、ヘッドギアなどの異様な装置がマスコミで報道されたため、誰もがオウム真理教の信者は強力なマインド・コントロールを受けていると信じて疑わなかった。
オウムの裁判では、「マインド・コントロール論」がもつ危険な側面が明らかになった。たとえ殺人を犯したとしても、それはマインド・コントロール下にあって犯した罪であり、 通常の精神状態ではなかったのだから、減刑すべきであるという論理である。もし「マイン ド・コントロール」が法廷で認められ、本人の自律的主体的判断能力が失われていたと判断 されれば、刑事責任を問うことができなくなってしまう、という事態も考えられたのである。まさに櫻井氏が言うように、「マインド・コントロール論は意図せずに自ら自律性、自己責 任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある」という結果になる可能性があった。しかし、オウム の裁判ではそれは起こらなかった。松本智津夫(麻原彰晃)を含め、重大な殺人事件を起こ したオウム信者は全員が死刑判決を受けた。結果は以下のとおりである。

佐伯一明(殺人・死者4) 2005 年4月7日 死刑確定
松本智津夫(殺人・死者27)2006年9月15日 死刑確定
横山真人(殺人・死者12) 2007年7月20日 死刑確定
端本悟(殺人・死者10) 2007年9月28日 死刑確定
林泰男(殺人・死者12) 2008年12月22日 死刑確定
早川紀代秀(殺人・死者4)2009年7月17日 死刑確定
豊田亨(殺人・死者12) 2009年11月6日 死刑確定
広瀬健一(殺人・死者12) 2009年11月6日 死刑確定
井上嘉浩(殺人・死者15) 2010年1月12日 死刑確定
新実智光(殺人・死者26) 2010年2月16日 死刑確定
土谷正実(殺人・死者13) 2011年3月8日 死刑確定
中川智正(殺人・死者25) 2011年12月8日 死刑確定
遠藤誠一(殺人・死者19) 2011年12月12日 死刑確定

西田公昭は、こうした殺人犯たちの精神鑑定を行っている。実際の裁判においても、遠藤誠一、横山真人、井上嘉浩ら多くの被告たちが、松本死刑囚から「マインド・コントロール」を施されて、地下鉄サリン事件などを起こしたとして、無罪や死刑回避を主張した。西田公昭は、井上死刑囚の鑑定書に「修行を通してマインド・コントロールを受け、松本被告の命令に反することができなかった」と書くなど、法廷でも「マインド・コントロール理論」を展開した。しかし、結果は惨敗だった。彼の主張は「マインド・コントロール下の能力減退は認められない」(横山死刑囚の判決)などと全て退けられ、上告した全被告の死刑が確定した。

6.結論

最後に、「マインド・コントロール」に対する素朴な疑問を二つ提示して結論としたい。一つ目は、「そもそも精神操作は可能なのか?」という根本的な疑問である。「洗脳」が可能 かどうかは、中国共産党とアメリカのCIAが真剣に取り組んだが、その結果は失敗だった。大国の国家権力によっても成し遂げられなかった「精神操作」が果たして「カルト」と呼ば れる小規模の素人集団に可能なのか、ということだ。

二つ目は、真の宗教的回心と「マインド・コントロール」を区別できるか、という疑問である。西田公昭の「永続的マインド・コントロール」は、宗教的回心の全般に当てはまってしまうのではないか。宗教的回心は通常、布教者が人の価値観を変えようとする中で起こるものである。だとすれば、この二つに明確な区別をすることはできないであろう。
本稿で筆者に与えられたタイトルは「統一思想から見たマインド・コントロール論」であるが、実はこれが結構難しい。統一思想は哲学的体系であり、形而上学的であるのに対して、「マインド・コントロール論」の是非をめぐる論争は、現時点においては①経験科学的に実証可能かどうかという問題と、②法律によって定義し条文の中に書き込めるかという問題が、中心的な論点になっている。したがって、形而上学と自然科学や法学が噛み合わないような議論の難しさがある。

しかし、マインド・コントロール論を主張する者の世界観には、明らかに反宗教的で唯物的な世界観があることは指摘できる。これが統一思想から見た「マインド・コントロール論」に対する批判のポイントになるであろう。そもそも心理学という学問には、宗教的体験を心理現象に還元しようとする傾向がある。しかし、すべての心理学がそうだというわけではない。そのことを説明するために、象徴的な二人の心理学者の立場を比較してみたい。それがジークムント・フロイト(1856-1939)とウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)である。

フロイトとジェイムズ

フロイトは無神論者で、一貫して宗教を否定的に評価している。フロイトの父母はユダヤ人であり、当時のオーストリアでは差別の対象であった。これを動機として、キリスト教的な神に対する嫌悪感情を抱いたと思われる。その意味でフロイトの宗教憎悪の動機はマルクスに似ていると言えるだろう。

彼は当時急速に発展してきた自然科学と唯物論的世界観に希望を見出し、自然科学こそが人類のすべての苦しみを解決するという「科学崇拝」に到達した。フロイトにとって宗教とは人間の願望から形成された「幻想」であり、病理学的に言えば、強迫観念に取りつかれた神経症である。彼は 1927 年に出版した『幻想の未来』という著作の中で、これまでは宗教という空想の世界が苦しむ者に慰めを与えてきたが、もしも科学がもっと大衆に浸透すれば、人々は宗教という幻想を棄てるようになるだろうと予言している。もちろん、科学が高度に発達した現代においても宗教は存在するので、彼の予言は外れたことになる。

ウィリアム・ジェイムズはアメリカの哲学者だが、宗教学の分野で名著とされている『宗教的経験の諸相』の著者でもある。彼は宗教心理学の草分けともいえる人物だ。英米哲学は概して自然主義的傾向が強いのだが、そのなかにあってジェイムズは際立って宗教的な哲学者だと言える。ジェイムズは宗教現象を超自然的に理解しているが、それは彼の方法論である宗教的経験の分析から得られる結論である。彼の重要な研究テーマのひとつに、人生が一変してしまうような「回心」が起こるメカニズムの解明がある。ジェイムズは回心体験者の証言を科学的に分析し、彼らがしばしば超自然的存在との交流を体験することを事実として扱い、心的な現象に超自然的な働きがあることを排除しなかった。彼の宗教に対する態度は、唯物的なフロイトの態度とは対照的である。

統一思想から見たマインド・コントロール論ということで、あえて結論を出すとするならば、「科学的であることと唯物的であることは同義ではない。『マインド・コントロール論』は、唯物的で反宗教的な世界観に基づいて、宗教的回心を単なる精神操作に貶めようとする疑似科学にすぎない」ということになるだろう。

参考文献

西田公昭『マインド・コントロールとは何か』1995、紀伊國屋書店
西田公昭『「信じるこころ」の科学』1998、サイエンス社
西田公昭『なぜ、人は操られ支配されるのか』2019、さくら舎
櫻井義秀「オウム真理教現象の記述を巡る一考察」『現代社会学研究』1996年9月北海道社会学会
渡邊太「洗脳、マインド・コントロールの神話」『新世紀の宗教』宗教社会学の会編、2002、創元社
大田俊寛「社会心理学の『精神操作』幻想―グループ・ダイナミクスからマインド・コントロールへ」(第70回心身変容技法研究会:2018年9月28日 於:上智大学)
小口偉一・堀一郎監修『宗教学辞典』1973、東京大学出版会

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