韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ09


韓国の独立運動と再臨摂理PPT09-1

 1941年12月7日の真珠湾攻撃によって日米が戦争を開始すると、李承晩はアメリカに対して「臨政の承認」と「韓国人が対日戦に参加するための軍事援助の取り付け」を訴える交渉に入ります。連合軍に韓国を国として認めさせ、かつ実際に参戦することにより、韓国民の自由と独立を勝ち取ろうとしたのです。

 交渉の相手はアメリカの国務省でした。このときのアメリカの国務省の幹部が、「ハル・ノート」で有名なコーデル・ハル国務長官と、スタンリー・ホーンベック極東局長、そしてアルジャー・ヒスでした。このアルジャー・ヒスはソ連のスパイだった人です。李承晩は米国務省のホーンベック極東局長に重慶臨政の声明を伝達し、「臨政」の承認を求めました。しかし、ホーンベック局長は彼を単なる一個人として遇し、「国務省は貴方を韓国や韓国民の代表としてみなしていません」と明言しました。つまり、相手にしなかったのです。1942年1月2日に李承晩はハル国務長官、アルジャー・ヒス、ホーンベック局長と韓国問題を論議しました。李承晩は自説を展開し、「臨政を承認して欲しい」「韓国人が対日戦に参加するための軍事援助をしてほしい」と訴えました。

 それに対するアルジャー・ヒスの回答は次のような驚くべきものでした。
「貴方の提案が韓国の承認を前提としている以上、米国はどうしようもない。現段階で韓国を承認すれば、北東アジアに多分に関心を寄せているソ連が感情を害することは必定だ。従って北東アジアにおける政治的問題をいま提起することは、時期尚早である。なぜならば、日本と戦っていないソ連はこの問題に口出しできない。と言って米国としては、同地域に対するソ連の関心を無視したり、ソ連を出し抜くことも得策でない。韓国問題は、ソ連との戦後会談まで待たなければならぬ。」

 李承晩としては、「やっと日米開戦に至ったのだから、日本に気兼ねする必要はなくなった。米国は韓国人と一体となって日本と戦えばいいじゃないか」と訴えたのに、今度はアメリカ政府から「ソ連に対する配慮のゆえにあなたがたを認めることはできない」と言われたのです。じつは、このときアメリカの国務省には既に共産主義思想が入っていたのです。アルジャー・ヒスは米国務省内で働くソ連のスパイだったのです。李承晩には、対日戦にこれほど協力したいと願っている韓国民の気持ちが、なぜ米政府に通じないのか分かりませんでした。本来なら、「敵の敵は味方」であるはずだから、手を結んで一緒に戦うべきなのに、と思ったわけです。

 1942年末にホーンベック極東局長は、李承晩に対して次のような発言をしています。
「率直に伝えるが、国務省では、貴方は韓国では全然知られていないと考えられている。また重慶の臨時政府は一部の亡命政客が造ったクラブに過ぎないうえに、主導権争いに憂き身をやつしている、とみられている。だから国務省は、貴方が韓国民を代表する人とは見ていない。」

 このようにホーンベック局長は李承晩の主張を、韓国民を代表するものとしては認めなかったのです。これはアメリカの国務省が冷たかったとか、ソ連のスパイが入っていたとかいう理由に加えて、もう一つの理由があったのです。実は当時、韓国人の代表を名乗って米国政府に働きかけた者は、李承晩だけではなかったのです。それこそいろんな独立運動家が「われこそは韓国民の代表」と言って国務省に売り込んでいたのです。ですから国務省としては李承晩だけを認めるわけにはいかなかったのです。

 さて、第二次世界大戦もすでに峠を越えて、日本の敗戦が濃厚になってくると、戦後処理のあり方を巡って連合国側の巨頭が集まって会議をやるようになります。有名なものにカイロ会談、ヤルタ会談、ポツダム会談などがありますが、この三つの中で最初に行われたのがカイロ会談でした。1943年11月に米・英・中の三巨頭がカイロで会談し、「カイロ宣言」を発して戦後のアジア構想を明らかにしました。すなわち、日本が負けた後でアジアをどうするかについて話し合い始めたのです。そのカイロ宣言では、韓国に関しては「適切な手続きにより(in due course)韓国の自由と独立を保障する」と記されていました。この文言は、すぐに韓国を独立させるのではなくて、一定期間の信託統治の後の独立を示唆していたのです。

 実際の歴史においては1945年から48年までの3年間の「連合軍軍政期」の後に独立したのですが、カイロ会談が行われた当時の三国首脳は、極めて長い信託統治の期間を予想していたようです。例えばルーズベルトがどう考えていたかというと、「韓国人が完全独立を得るまでは、約40年の教育機関が必要と考える」「フィリピンが自治政府を準備するまでには、50年を要した。韓国はそれほどかかるまいが、20~30年はかかる」というくらいにアメリカの大統領は見ていたというのです。つまり、36年間も日本の支配を受けた立場から解放されたかと思ったら、今度は30年から40年もの間、アメリカの統治を受けなければならないという話です。これは誇り高い韓国人には到底受け入れられないものでしたが、連合国の韓国に対する評価はそのようなものだったのです。

 1945年4月にサンフランシスコで国際連合憲章作成会議が行われたとき、李承晩は臨時政府承認のための最後の努力をしました。彼は国連憲章制作会議に「臨政」の代表としてオブザーバー参加の要請をしました。これが受け入れられれば、「臨政」が承認されたことを意味します。しかし、これはアルジャー・ヒスによって拒否されました。李承晩は、「韓国が解放されるのと同時に、直ちに連合国の監視下で総選挙を実施するという諒解のもとに、『臨政』を仮承認すべきである」と主張しましたが、ヒスには通じませんでした。この努力も結局は実らなかったのです。このときアメリカは既に、米・英・中・ソの四大国による韓半島の信託統治と、その後の独立を決定していたのです。

 さて、これほどまでにアメリカ政府に対してさまざまな要求を突き付けた李承晩は、アメリカ政府から「頑固な厄介者」とみられていました。ですから、この当時のアメリカはこのうるさい李承晩を韓国独立後の大統領にすることなど、まったく考えていなかったのです。

 さて、1945年8月に日本が降伏したとき、李承晩は70歳と5カ月でした。既にかなりの高齢ですね。その後、韓半島は38度線で分割され、米・ソ両軍に占領されました。李承晩の最も恐れていた、ソ連の韓国進駐が現実のものとなったのです。当時アメリカは、旧行政組織(つまり朝鮮総督府)を活用しながら民主的改革を進め、なるべく早く総選挙を実施して韓国臨時政府を造り、この政府を米・ソ両軍司令官の共同管理下に置いて指導育成し(信託統治)、適当な時期に独立させる、というスケジュールを考えていました。アメリカは第二次世界大戦後にソ連がどのような行動をするのかというその意図を見抜けずにいたので、ソ連が自分達と仲良く一緒にやってくれるものだと信じ込んで、両国で一緒に信託統治しようと考えていたようです。

 しかし、ソ連が38度線の北側を占領し、南北の往来を遮断したため、38度線は政治的境界線に変質しました。このようにアメリカは半島の北半分をコントロールできないということが次第に明らかになってきたのです。こうして半島全体のの公正な統一総選挙は不可能となり、アメリカは南韓だけの総選挙を行うことを目指すようになりました。このとき、李承晩はまだ韓国に帰国できていない状態でした。つまり、8月15日に戦争が終わったわけですが、李承晩が韓国に帰国するのは10月まで待たなければならなかったのです。彼が大統領候補として韓国に帰国できるようになった背景には、米国でさえコントロールできない当時の韓国の政治状況がありました。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT09-2

 アメリカが半島の南半分だけの選挙をしようとしたとき、南で勢力を拡大していた人物は朴憲永という共産主義者であり、彼の立てた朝鮮共産党がみるみるうちに勢力を伸ばし、このまま放置すれば選挙によって南韓に共産主義政権が建つ可能性すらあったのです。北はソ連にとられ、南でも共産主義が広まるという状況の中で、このままでは米軍の統治下で選挙をやっても、共産主義政権が立ってしまうのではないかという危機感を抱いたアメリカは、共産党に対抗しうる民族政党とその指導者が必要になってきたのです。そこで初めてアメリカが目を付けたのが李承晩でした。彼こそは世論を束ねて軍政に協力しえる唯一の指導者であると見込まれて、33年ぶりの帰国を果たすことになるのです。

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