書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』106


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第106回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 先回で第Ⅱ部の第六章の分析は終わり、今回から「第七章 統一教会信者の信仰史」に入る。この章はこれまでのようなテーマごとの統一教会の分析とはやや趣が異なり、櫻井氏が直接インタビューした元信者が体験した統一教会の信仰生活の回想の記録が中心となっている。それだけに理論や分析よりも個人の体験した事実が中心となっているのであるが、その中に櫻井氏の主観的な分析が織り交ぜられた格好になっている。

 櫻井氏は統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入る前に、「一 元信者のライフストーリー研究」の「1 証言は事実を語るか」において、信仰の物語を分析する理論的な枠組みについて語っている。これは突き詰めて言えば、「現役信者と元信者のどちらの証言がより信じられるか?」という問題である。これまで「カルト」などと呼ばれる新宗教信者の体験は、その教団を脱会した元信者たちが自分たちの過去を振り返って語るというものが多かった。しかし、その多くが「ディプログラミング」と呼ばれる強制棄教による脱会であったり、たとえ物理的拘束はなかったとしても「脱会カウンセリング」を受けていたりしたため、そのときの体験やカウンセラーによって教え込まれた内容が、自分自身の過去の体験を振り返る思考の枠組みに大きな影響を与えている可能性があることを、アメリカの宗教社会学者たちが指摘してきた。すなわち、「洗脳」や「マインドコントロール」などの言説によって自分の体験を再構築して、その枠組みの中で自分の物語を語っているため、信者だった頃の本当の体験を語っているかどうか疑わしいという指摘がなされたのである。

 それに対して、現役の信者達もまた、信仰という枠組みによって自分の経験を再構築しており、ある意味では脱会者の語りと同じように自らの本当の体験を語っているかどうか疑わしいという主張も可能である。こうした論法は、反カルトの立場に立つ人々によって主張されており、要するに教団を離れない限りは自分を客観的に見つめることはできないという立場である。この論争は、一種の水掛け論に終わるように思われる。脱会者の目には、自分が体験した修練会や信仰生活に対する後悔や怒りといった色眼鏡が掛けられており、それを通して自分の体験を再解釈している。一方で現役信者は、自分の信仰を正当化するために過去の体験を解釈する。信仰は人間のアイデンティティーの中核をなすものであるため、信仰を持って世界を見るのと、信仰を失って世界を見るのとでは、世界はまったく異なる像を結ぶことがある。このように全く相反する二つの立場からの物語を比較して、そのどちらが真実を語っているのかを論じても、平行線に終わるのではないかと思われるのである。そこで、「語る立場によって真実は異なる」という一種の相対化がなされるわけである。櫻井の紹介している「2 ナラティブ研究の新展開」も、基本的にはこの問題を解決しているとは思えない。

 こうした「相対化」の土台の上に櫻井氏が主張するのは、「3 研究者の立場性」という問題である。これは要するに研究者は研究対象である教団や信者・元信者に対して、無色透明な客観的第三者として関わることは不可能であり、教団に対して親和的であるか、あるいは元信者や教団の反対勢力に対して親和的であるかといったような、何らかの「立場性」を取らざるを得ないということである。これは実質的に、論争の多い新宗教に対しては価値中立的な研究などあり得ないと言っているに等しい。櫻井氏はこのことを以下のような言葉をもって表現している。
「このように調査が現実的に可能となる状況を考えると、調査者は調査前に研究の立場性、被調査団体・個人との関係性に関して継続的に特定の立場をとることが要請されている。その点を十分に自覚し、被調査者との関係を維持できたものが安定的な調査環境を得ることができるのである。研究者は教団と反カルト運動の対立構造の中でフィールドワークを行っているのであり、自分の立場を安全地帯において第三者としてこの問題に関わるわけにはいかない。」(p.324)

 この発言は、櫻井氏が客観的で価値中立的な研修者としての立場を放棄していることを宣言しているようなものだが、それは櫻井氏が自らの意思によって「選択」しているのであって、彼の置かれた状況からそのような立場をとることが学問的に「要請されている」のではない。彼はそう言うことで、環境に対して責任転嫁しているに過ぎない。櫻井氏は「安定的な調査環境を得る」ために、あえてそのような立場を選択したのである。彼は「研究者は教団と反カルト運動の対立構造の中でフィールドワークを行っている」と言うが、その対立構造の一方当事者に完全に依拠する研究立場をとるというのは、やはり偏りすぎというものであろう。

 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というように、統一教会について本当に知りたければ、教団の中に果敢に飛び込んで行かなければ何も分からないはずである。しかし、櫻井氏は統一教会と適切な距離を取るためにはそれができないという。実際には、教団と適切な距離を取ること自体が難しいのではない。学問的には適切な距離を取って調査研究を行ったとしても、それを世間一般や統一教会反対派から「適切な距離である」と評価してもらうことが、日本社会においては難しいのである。

 日本女子大の教授をしていた島田裕巳は、オウム真理教に対して好意的な評価をしたということで、地下鉄サリン事件後に大学から休職処分を受け、最終的には辞職へと追い込まれた。同じように、もし日本の宗教学者が統一教会に入り込んで情報提供してもらい、それをもとに統一教会について客観的な記述をしたら、「統一教会に対して好意的すぎる!」「統一教会の広告塔!」などと、反対勢力から一斉にバッシングを受けるような社会情勢が出来上がってしまっているので、宗教学者はうかつに手を出せないのである。日本では宗教学者にも「政治的正しさ」が要求されるということだ。そこには、学問の自由や独立性は事実上存在しない。これがオウム真理教事件以降に日本における新宗教研究が事実上死滅してしまった大きな原因であった。あからさまに批判的な立場をとる以外に、物議を醸している新宗教を調査研究することを世間は許容しないのである。これが櫻井氏の言う「継続的に特定の立場をとることが要請されている」という言葉の意味であり、それは学問的な要請ではなく政治的な要請なのである。彼は政治的な要請に従って学問の自立性を放棄したとも言えるだろう。

 櫻井氏は「虎穴に入る」ことを拒否し、安全圏から相手を砲撃するという研究方法を採用した。日本社会において統一教会と反カルト運動を比較すれば、後者と一体化し、そこに身を置いた方がはるかに安全である。その意味で彼は「第三者」ではなく、対立構造にある一方当事者と同じ立場に立って研究をしているのであるが、それによって「自分の身を安全地帯に置いて」いるのである。
 こうした彼の立場は、「4 筆者の立場性」において一層明確に述べられている。
「(1)筆者は統一教会の諸活動が社会問題化していると認識しており、布教方法と資金調達方法は違法行為だと捉えている。そして、統一教会が日本社会に与えてきた深刻な被害をなくすべく、統一教会の調査研究を行い、統一教会を批判する個人・団体、あるいは行政や宗教界の人々、一般市民に役立ててもらおうと考えている。このようなことを研究の狙いとして調査対象者に説明し、調査協力を得ている。
(2)調査対象団体・対象者は、前記の言明をする限り、統一教会そのものや信者から協力を得られることはなく、統一教会を批判する諸団体、元信者や関係者の人達が主な対象者となる。筆者は、一九九七年より全国霊感商法対策弁護士連絡会を支援する会の会費を払い、同団体から機関誌の提供を受け、同団体が主催する会合に参加してきた。また、同年より研究者としてカルト批判の運動体である日本脱カルト研究会(現在は日本脱カルト協会)にも所属している。このような団体・関係者とのつながりによって、調査対象を紹介してもらったり、会合で出会った人に調査を申し込んだりしてきた。」(p.324)

 これは「統一教会反対派宣言」と言っていい内容である。対立構造にある一方当事者に対してこれほどまでに肩入れした「立場性」を主張する研究が、「学問的研究」の名の下になされるのは稀有なことであると言ってよいであろう。ある意味でそれは、学問的体裁を装ったプロパガンダであると言えるかもしれない。

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