神学論争と統一原理の世界シリーズ32


第八章 宗教の現在と未来

2.「カルト」とは?
現在の日本で、「カルト」という言葉を知らない、あるいは聞いたことがないという人は少ないであろう。しかしながら、その言葉が意味するものを正確に述べてみてくれといわれたら、どれほどの人が自信をもって答えられるであろうか? 現在この言葉は、「カリスマ的な指導者のもとで熱狂的な活動をなし、少なからず社会との摩擦を引き起こしているような、新しくて危険な宗教団体」というような意味でしばしば使われているが、このような用法はごく最近になってアメリカから輸入されたものである。

「カルト」の起源(注1)
アメリカにおいても、「カルト」という言葉のこの様な用法が一般的になったのは70年代以降のことであり、それもマスメディアによって広められた流行語としての性格が強いと言える。もともと「カルト」という言葉は人類学者および宗教学者によって、ローマ・カトリック教会における聖母マリアに対する敬愛のように、なんらかの崇拝の対象をとりまく、組織化された信仰と儀礼という意味で用いられてきた。

しかし近代の学者、とくに社会学者によるこの語の用法は、マックス・ウェーバー(1864~1920年)やE・トレルチ(1865~1923年)、ハワード・ベッカー(1899~1960年)などの一連の学者達によって提示された、新セクトや新教派の生成・発達のモデル理論の中から生まれたものである。ウェーバー自身は「カルト」という言葉を用いておらず、彼は宗教の最も初期の形態を「セクト」と呼んでいる。彼によればセクトとは、一人のカリスマ的指導者を取り巻く小規模で単純な構造を持つ信者たちの集まりのことで、一般的に社会的危機の時代に出現することが多いという。しかしこのカリスマ的権威というものは、本質的に革命的で不安定なものだ。教祖が生きている間は彼の語る言葉のすべてが真理として受け止められるからいいが、彼が死ねば教団は途端に求心力を失ってしまう。

したがってそのグループが生き残るためには、教祖の語った言葉が体系化され、合理化されて、信徒を教育するためのシステムが構築されなければならない。このようにして、新しく発生した宗教は合理的・官僚的制度を整え、やがてはそれが「伝統」となっていくのである。

ヨーロッパにおいては、キリスト教の枠内において、上述のような過程を経て既成の教会に対立して出現する少数派の集団という意味で、「セクト」という言葉が用いられ、近代の宗教運動はほぼこの用語でカバーできるものと考えられてきた。しかし1970年前後にアメリカ合衆国を中心に従来のセクトとは性格が異なり、とくに非キリスト教的伝統に多くを負う宗教集団が活発な活動を展開すると、それらの団体は「カルト」と呼ばれるようになってきた。

初代キリスト教会も「カルト」だった?
現在の段階では、宗教社会学者たちの間で「カルト」という言葉の定義は必ずしも一定していない。強いていえば、「明確な組織や信者・未信者の境界線がハッキリしない集団」という、教団の組織的な性格に着目した定義と、「既成の宗教伝統とは著しく異なった信仰内容を持つ団体」という、教団の信仰内容に着目した定義の二つに大きく分けられる。しかしこれらの用法はいずれも正統と異端、善と悪といった価値判断を交えない、価値中立的な用法であると言える。すなわち社会学的には、カルトはあらゆる宗教の始源形態であるという事ができ、その意味ではイエスとその十二使徒は、カルトの典型的な例であるともいえるのである。

しかし、マスコミによってアメリカの一般社会に広められている「カルト」という言葉は、それだけで「いかがわしいもの」を連想させる軽蔑的なニュアンスを含んでいる。これはマスコミや反カルト論者、そして既成教会の聖職者たちが、カルトとは何か新奇なもの、驚くほどの成長を見せるもの、そしてそのメンバーや社会全体にとって、潜在的に危険なものとして宣伝し、この言葉を流行させたため、この用語が本来持っていたテクニカルな意味が覆い隠されてしまったためである。

やがてこの用語は、既成教会から非正統的だとかあるいは偽物だとして否定された宗教を描写するためのレッテルとして使用されるようになり、さまざまな宗教団体を中傷するときに用いられるようになったために、用語としての意味がすっかり計骸化してしまった。しかし、アメリカ議会調査団と教会員の約九百人もの人が死亡した1978年の「人民寺院」事件や、最近では93年にアメリカのテキサス州の本拠地に武装して立てこもった「ブランチ・デビディアン」(注2)が捜査当局の突入などにより玉砕し、教祖も含め大多数が焼死した事件などが、カルトは危険で破壊的であるという衝撃的印象をアメリカの一般社会に与えたことにより、今でも多くのアメリカ人が「カルト」と呼ばれる普遍的な宗教的カテゴリーが存在するかのように信じている。

1993年4月20日、テキサス州ウェイコにあるブランチ・デビディアンの本拠地は、FBIと銃撃戦の末に炎に包まれ、教祖を含め81名が死亡した

1993年4月20日、テキサス州ウェイコにあるブランチ・デビディアンの本拠地は、FBIと銃撃戦の末に炎に包まれ、教祖を含め81名が死亡した

ガイアナの「ジョーンズタウン」で集団自殺した人民寺院の信徒たち
ガイアナの「ジョーンズタウン」で集団自殺した人民寺院の信徒たち

 

 

「カルト」という言葉の呪縛
この言葉が、オウム真理教の凶悪犯罪をきっかけに、日本でも新宗教運動を描写する否定的な言葉として、テレビや週刊誌などで頻繁に使われるようになった。今まで日本の新宗教は、一般には「新興宗教」と称されてきた。この「新興」という形容語には、単に新しくおこったという意味だけではなく、「怪しげで宗教的な価値の乏しい」というニュアンスが込められているのが普通である。

そこでこの様な価値判断を避け、この現象を公正な立場で描写しようとする宗教学者は、あえてジャーナリズムによって多用されている「新興宗教」という言葉を避け、「新宗教」という言葉を好むことが多い。にもかかわらず、「カルト」というさらに侮蔑的な意味を含んだ言葉が輸入されることによって、偏見がさらに助長されるような情勢になってきた。このような背景を理解したうえで、我々はもう一度反カルト論者たちの主張を批判的に検証して見る必要があるであろう。
<以下の注は原著にはなく、2015年の時点で解説のために加筆したものである>

(注1)この文章では簡潔に表現されているが、この部分をより詳しく知りたい方は以下のアーカイブを参照のこと。
http://suotani.com/archives/160
http://suotani.com/archives/187
http://suotani.com/archives/197
(注2)現在では、FBIによるブランチ・ダビディアンへの強制捜査の方法や、突入・逮捕における行動に多くの問題があったことが指摘されている。詳しくはWikipediaの「ブランチ・ダビディアン」を参照のこと。

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