アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳62


第7章 環境支配、欺瞞、「愛の爆撃」(5)

ここで、われわれはおそらく、既に第5章で論じたいくつかの議論を繰り返さなければならないであろう。第一に、われわれはトートロジー(同語反復)に陥らないように、いま一度注意しなければならない。回心とは「アイデンティティー、意味、生活の抜本的な再編成」(注15)であると定義することができるので、われわれはある抜本的な変化を観察しただけで、それ以上の証拠もないのに、それは回心者が愛の爆撃を受けたという理由のみによって起きたのだと結論することはできないのである。第二に、社会的存在としてのわれわれの存在そのものが、他者の視点を受け入れることに依存しているということにも一理ある、ということを心に留めておかなければならない。一般的に言って、われわれは若ければ若いほど、他者の(普通は両親の)世界観を疑問視することは少ないものである。イグナチウス・デ・ロヨラが言ったとされる格言(「我に七歳まで子供を預けよ。さすれば、その子を一生所有することになるであろう」)は、絶対的に正しいとは言えないまでも、人の信念に影響を与えることができるかどうかは、その人の人生の時期によって相対的に異なる、ということを主張している点においては十分な真理を含んでいる。われわれは年齢を重ねて別の見方をすることができるようになると、新しい考えを受け入れたり拒否したりすることを学ぶものだが、通常はそれ以前に形成された性質に照らしてそれらをなすのである。われわれが一つの選択肢を他よりもより魅力的だと思う理由はさまざまある。その理由の一つには、われわれが好きだったり敬服あるいは尊敬している人物が、たまたまある特定のやり方で物事を見るので、その人の判断を信頼することに決めるということもあろう。もちろん、その人はそうした信頼に値しない人で、彼が実際には信じても感じてもいないようなことを、そうしているかのように思うようわれわれを騙しているのかもしれないし、あるいはその人自身が誤導され、誤った判断をしているのに、もしかしたらその人の信念が誠実さを伴っているように思われるという理由により、一層強力な裏付けがあるように見えることもあるかも知れない。

修練会で彼らに注がれた愛情あふれる世話に影響を受けたことを認める改宗者たちは、ムーニーたちが皆とても幸せそうに見えたので彼らを信頼する覚悟ができたと語る。彼らは有効な答えを持っているように見えたし、たとえすべての答えを持っていないにしても、少なくとも愛情深く思いやりのある共同体を創る方法を知っているように見えた、というのである。もしそのような共同体の一員になる機会があるならば、そのような善良で幸福な環境を生み出すように見える全般的なものの見方に従っても良いのではないか、とゲストは考えるようになるかも知れない。私がインタビューした中の一人はそのような例を次にように報告した。

私がそこに着いたのは、金曜日の夜遅くでした。すでに大人数の夕食が終わって後片付けをしていましたが、台所の女性たちは手を止めて、私のために食事を作ってくれました。それはそうしなければならないという義務からではなく、そうしたいからしてくれたとても素敵な親切でした。それはうまく説明できませんが、私には分かりました。それだけではありませんでした。私は心の中で、それこそ自分が望んでいたものであり、これこそ自分がしたいことだと感じました。正直に言って、教えはよく理解できませんでした。ただ歴史については、歴史を通してある目的や計画が働いていることが分かりました。以前にも色々なことをやって見ましたが、うまくいかないことを知っていました。教えの内容は完全には理解できませんでしたが、自分でもやってみたいという気持ちになりました。少なくとも試してみるべきだと。いま理解していることを、その当時は理解していませんでした。ある意味で、私にとって入会することは論理を超えた決断でした。

彼は全く疑念を持っていなかったわけではなかった。

基本的に私は周りのすべてから大きな愛と暖かさを感じました。彼らがなぜそれほど愛があり、暖かいのかは理解できませんでした。どうして彼らはそこまで人に尽くすのか? 時にはすこし圧迫を感じることもありました。時どき自分には過分だと思ったこともありました。それ以前にはそのようなクリスチャンに出会ったことがなかったので、なぜ彼らがそうするのか理解できませんでした。彼らは世界を変えることについて話していました。他のクリスチャンたちはいつも聖書について話し、イエス・キリストを信じ、信仰を持てばそれはなされると言います。私はそれだけでは何もなされないと信じていました。

このような入会する可能性のある者たちの多くが、同様な親切を受けることで影響されたこと、また、友好的な雰囲気が運動に入るように説得する大きな要因であり得ることには、ほとんど疑問の余地はないように思われる。しかし、われわれは果たしてこれが不当な強制であると分類することができるのかを依然として問うことができるであろう。私が引用した上記の答えをしたムーニーは、そのインタビューから約一年後に教会を離れた。その理由は主として彼が他の会員たちとうまくやっていけないことが分かったこと、また、リーダーの何人かに幻滅したからである。非常に友好的で愛があるように見える人々のグループに加入することを「選ぶ」ことは完全に合理的なことであり、また、もし後になって会員たちが他の人々に比べてそれほど愛があるとも言えず、愛すべき人々でもないことを発見したならば、離れることを決心することも等しく合理的である、と論じることはできないであろうか。

実際、話はそれほど単純ではない。私は、誰かがより多くの幸福と愛がある生活に魅力を感じるのはなぜかを理解するためには、洗脳やマインド・コントロールの理論に訴える必要があるとは信じていないが、われわれは統一教会の示す選択肢が本当により多くの愛ある生活から成っているか否かについては懐疑的になれるであろう。愛の爆撃が疑うことを知らない新入会員を騙して、抜け出すことが困難となるような情的な絆を発展させるために用いられる、欺瞞的な手段であるか否かを知りたいと思うのも分かる。運動と文とのつながりや、その信仰や実践について発見することは、かなり単純な「知っているか否か」という認識行為に関することである。「欺きはムーニーに犠牲者を釣り上げる時間を与える」という議論が、友情が発展しつつある期間について言及するときに最も説得力を持つことはあり得る。ある関係が他者にとって本当は何を意味するのか、また、その関係を永続的なものとするために人は何をする用意があるのかを発見するのは、曖昧性と両面戦をはらんだプロセスであり得る。統一教会の神学それ自体が宣言しているように、愛は非常に強力な力であり、愛の誤用もまたそれと同じくらい強力なものであり得るのである。

当然予想されるように、ムーニーたちが修練会で示す愛の真実性は個人によって異なる。ムーニーたちの中で、特に自分が修練会で経験した愛ある環境の故に運動に参加した者は、愛や友情の価値をかなり重視する傾向がある。(230ページの表14を参照)統一神学は誰に対しても、神の観点から他人を見るように勧める。それは、神が自らの子女の中で明らかに最も魅力のない者の中にも、価値あるなにかを発見しようとするためである。多くのムーニーたちが他者との関係においてそのようにしようと懸命に試みていることは疑いない。しかしながら、統一教会がその第一義的な目標を地上天国を復帰することに置いていることも真実である。そしてこのことは確かに人々を愛し世話することを伴うと理解されている一方で、一定の希少な資源を確保しなければならないことも伴っているのである。特に、運動は新しい会員や経済的継続性を、それが変革しようと望んでいる非ムーニー世界に依存しなければならない。(注16)したがって、確かにムーニーたちは入会する可能性のある人々(および影響力のある人々)に愛され大切にされていると感じさせることを期待されている一方で、復帰の仕事に関心を示さない者のために貴重な時間をあまりに多く「浪費」することは期待されていないのである。神は全ての人の中に何か価値あるものを見るかも知れないが、統一教会の献身的なメンバーにとって最も価値ある者とは、神のために自分の生活を犠牲にする覚悟のある人、すなわち、現実的には、神の真理たる統一原理を受け入れ、そしてもちろん、メシアの指導に従う人のことを意味する。

(注15)R・タラビソ「質的に異なる変容としての変化と回心」、G・P・ストーンとH・ファーバーマン(編)『象徴的相互作用による社会心理学』ウォルサム、マス、ジンーブライズデル、1970年に掲載。ロフランドとスコブノッド「回心のモチーフ」p.375に引用。
(注16)「資源動員モデル」の視点からの統一教会の分析としては、 ブロムリーとシュウプの「アメリカのムーニーたち」を参照。

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