「マインドコントロール理論」を信じてしまう理由


じゃあどうして、この「マインドコントロール理論」が説得力を持つのか? 例えば、統一教会信者の親たちはどうして「マインドコントロール理論」を信じるのか、ということなのでありますが、この構造に関しては渡邊太という学者が、「洗脳、マインドコントロールの神話」(『新世紀の宗教』宗教社会学の会編 2002年)という論文の中で説明しております。「感情論理に基づくバランス理論」ということなんですが、まあ難しいことはさておいて、簡単に説明するとこういうことになります。

まず、親は子供を愛しているわけです。可愛いわが子なんですね。それに対して、「カルト集団」に対しては不信をしているわけです。いかがわしい団体だと思っているわけですね。そうすると、親の子供に対する感情やカルト集団に対する感情というのは、自分の感情ですからハッキリ分かりますね。しかし、子供が「カルト集団」に対して抱いている感情や、この関係については自分自身が体験できるものではないので、憶測するしかないというときに、もしこの愛するわが子が本気で「カルト集団」を信じて、この集団が好きだという状態であることを認めるのは、親にとっては感情的に耐えられないわけです。可愛いわが子が、あのいかがわしい「カルト団体」を心から信じている、そんなことはありっこないと思うわけです。

そこでどうなるかというと、可愛いわが子は悪い「カルト集団」によって「マインドコントロール」されているんだという理論の方が、感情的に納得ができるということなんですね。そのことの故に、たとえ論理的でも合理的でもなかったとしても、「マインドコントロール理論」が説得力を持つようになるのだということであります。

これを三角関係の話にしてみると、とても分かりやすくなるので例を挙げますと、A君という人が、B子ちゃんという人を好きだったとしますね。ところがB子ちゃんはC君のことが好きで、付き合い始めたらしいと。ところがA君からみるとC君はとってもプレイボーイで悪い男に見えたと。そうするときに、B子ちゃんのことが好きなA君としては、B子ちゃんが心から本当にC君のことが好きだというのは、感情的に受け入れられない。納得できない。だからどういう絵を描くかというと、純粋無垢なB子ちゃんは、悪いC君によって騙されているに違いない。だから二人は付き合うようになったんだ。こういう風にとらえた方が、情的に納得がいくということで、感情が強く絡んできますと、人間というものは客観的・合理的判断ができなくなるので、たとえ「マインドコントロール理論」というものが非合理的・非科学的なものであったとしても、親としては、そのようにとらえた方が自分の心が納得が行くということがあるものですから、「息子がマインドコントロールされている」「娘がマインドコントロールされている」と言われると、そのことの方が情的に納得が行くということになるんですね。

同じように、マインドコントロール理論家にしても、「純粋無垢な若者が『カルト集団』というものをまともに信じるわけがない。だからカルトがマインドコントロールしているに違いない」という前提に従って、論理を進めていくことになるわけであります。

それでは最後にまとめとして、この「マインドコントロール理論」の問題点を挙げてみたいと思います。先ほど紹介した、渡邉学教授の論文より、このようなことが挙げられます。 「ブロムリーらが挙げている第二点は、いったん新宗教が洗脳技法を用いているという説明が通用すると、ディプログラミングという名の強制改宗が、『カルト信者』の『治療法』として正当化されることになってしまうという問題である。ディプログラミングとは、新宗教が用いている洗脳技法を無効化する技法を意味する。もしも前提となる新宗教による洗脳がないとすれば、ディプログラミングはディプログラマーのクライエントおよびディプログラマー自身の意向に基づく強制改宗にほかならない。」

これはどういうことかというと、「マインドコントロール理論」というものがあるがゆえに、「その若者は自分の力では『カルト』から出ることができない、脱会することができないんだ。だから身柄を拘束して説得しないといけない。それが本人を助けていることになるんだ」という論理が、ディプログラミングの論理なんです。しかし、もしその「マインドコントロール」とか「洗脳」とかいうことが存在しないとしたら、単なる強制改宗だということになってしまう。ですから、この「マインドコントロール理論」というのは、ディプログラミングと呼ばれる強制改宗を正当化するための理論だということが、第一の問題点だということになります。

ですから、ディプログラミングをする人からすれば、なんとか「マインドコントロール理論」が成立してくれないと困るということで、それにいつまでもしがみつくという論理構造になります。

次に、脱会説得の場で、分かりやすく図式化した会話を例にとってみますとこういうことになります。ある教団に入った子供とその親との会話ですね。 親:「お前はマインドコントロールされている!」 子:「そんなことはない! ちゃんと自分の頭で考えて判断している!」 親:「マインドコントロールされている人は、自分ではコントロールされていることに気付かないんだ。そうやって否定すること自体が、マインドコントロールされている証拠だ!」 子:「じゃあ、私はマインドコントロールされてます」 親:「自白した! やはりそうだったんだ」

これ、論理のおかしさ分かりますか? 否定したとしても、それはマインドコントロールされている証拠。肯定したとしても、マインドコントロールされている証拠。結局どっちにしてもマインドコントロールされている証拠にされてしまうわけですね。こういうのは、科学的な理論とは言えません。難しい言葉で言うと、「反証可能性」がない。すなわち、子供としては自分が「マインドコントロール」されていないことを証明することが不可能な論理構造になってしまっているんですね。ですから、これはもはや科学とは呼べないものであるということです。

三番目の問題点は、「マインドコントロール」されているというメッセージを人に伝えることが、その人にとって心理的に負担になり、危険が大きいということです。よく、マインドコントロールされているんだと信じられている子供に対して、親は「自分の頭で考えろ!」と命令するわけです。ところが、「俺は自分の頭で考えて、これを信じているんだ」と反逆すれば、非難されるということになってしまいます。結局、考えた結論は「脱会すること」以外の選択肢は許されないわけですね。しかし、これを受け入れることは結局「自分の頭で考えた」ことにならない、という矛盾を抱えることになってしまう。

結局、たとえ監禁されていなかったとしても、あなたは「マインドコントロール」されているというメッセージを相手に伝えることは、こういうことを言っていることにほかなりません。「あなたは自分のことが自分で決められない人間だ」「あなたは自分の判断力を失って、他人の言いなりになっている」「あなたには正常な判断力がない」ということを相手に向かって、メッセージとして言っていることになります。これを受けた人はどうでしょうか。「いやー、私はこう思っているんだけれども、これは本当に私が思っているんじゃなくて、他人に思わされているのかもしれない」と思ったら、自分は何者なのか、自分の考えとは一体何なのかということに関して、とてつもなく不安になってしまうわけですね。ですから、自己のアイデンティティーに対する自信を喪失させることになり、極めて精神的に不安定な状況に相手を追い込むことになる。

ですから、「マインドコントロール理論」によって説得するということは、その説得を受けた人にとって精神的に大変きついことであり、PTSDなどの症状を後で示すようになるというのは、その理論そのものが有害だからということになります。以上が、簡単な「マインドコントロール理論」の問題点でありました。

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