書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』209


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第209回目である。

 第四刷にあたって加筆された「まえがき」について、以下に順を追って論評する。

「1 安倍元首相銃撃事件」で櫻井氏が述べていることは、新聞やテレビなどのメディアが一般的に報じていることをまとめただけであり、特に新しい情報や独自の情報はない。「2 容疑者家族と統一教会の接点」の内容も同様だが、注目すべきは山上被告の犯行の動機になったとされている、2021年9月12日にUPF主催の「THINK TANK 2022希望前進大会」に寄せられた安倍元首相のビデオメッセージに関する記述である。大多数の国民は、山上被告が事件を起こすまでは、このビデオメッセージの存在を知らなかった。しかし、山上被告はネット上で「この春にメッセージを見た」(朝日新聞2022年7月15日付)という。

 櫻井氏はさらに、このビデオメッセージに対して2021年9月17日付で「衆議院議員安倍晋三先生へ」と題した公開抗議文が全国霊感商法弁護士連絡会(全国弁連)から送付され、「これを統一教会が広く宣伝に使うことは必至です」(p.IV)と警告したことを紹介している。櫻井氏の著作では触れていないが、「やや日刊カルト新聞」でも鈴木エイト氏がこのビデオメッセージを批判的に取り上げている。要は、このメッセージの存在を知って喰いついていたのは、統一教会に反対する勢力であったということだ。

 事実としては、「これを統一教会が広く宣伝に使うことは必至です」という全国弁連の警告とは裏腹に、統一教会もUPFもこのビデオメッセージについて一般社会に広く宣伝することはなかった。結果として大部分の一般大衆は安倍氏とUPFの関係についても、ビデオメッセージについても、事件が起こるまでは何も知らなかったのである。

 しかし、このことに強い関心をいだいていたのが全国弁連や鈴木エイト氏をはじめとする統一教会反対派勢力である。山上被告は「やや日刊カルト新聞」の愛読者であり、鈴木エイト氏に個人メッセージを送っていたことが知られているとおり、彼を刺激したのは、広く一般社会に流布していた情報ではなく、こうした反統一教会ネットワークから得られた情報であったということだ。

 犯行から2年以上が過ぎたいま、あらためて問われるべきは、山上被告を犯行に駆り立てたものは何だったのかということだ。少なくともそれは、事件以前に世間一般に流布していた情報ではない。世間の多くの人々は、UPFと安倍元首相に接点があることなど知りもしなかった。一方で統一教会に対して激しい敵意を抱く全国弁連や鈴木エイト氏などの統一教会反対派はこのことを問題視し、情報を拡散しようとしていた。山上被告はそうした情報に刺激されて犯行に及んだとみるのが自然であろう。

 「3 被害者家族の苦難と二世信者の困難」では、「宗教二世」の問題が取り上げられている。これは第一刷では取り上げられなかった問題であるため、櫻井氏は改めて第四刷のまえがきで触れざるを得なかったのであろう。そもそも「宗教二世」というネーミングはNHKが2021年ごろから広めたものであり、第一刷が発行された2010年にはまだ存在しない言葉であった。

 事件後、小川さゆり(仮名)が「宗教二世」のアイコン的存在となり、『小川さゆり、宗教2世』(小学館、2023年)という自伝的著作が出版されるまでになった。「宗教2世」についてWikipediaが、「家族(両親など)が宗教を信仰している家庭で生まれ育ち、家族(両親など)の意思で誕生時や幼少期から宗教に入信させられている人々」と説明しているように、この言葉は不本意ながら信仰を強制されている人々というニュアンスで使われている。さらに統一教会の「宗教二世」は、多額の献金と貧困、ネグレクト、生きづらさ、などのネガティブなイメージで語られることが多い。これは櫻井氏の著作の中でも「残念ながら子ども達はまさしく不本意な人生に変えられたのだ」(p.V)と記述されている通りである。「親ガチャ」(p.VII)という侮蔑的な表現にも彼の本音が表れている。

 一方で統一教会の内部用語に「祝福二世」という言葉がある。これは「祝福家庭から生まれた原罪のない子女」という意味であり、極めてポジティブで誇るべき立場として理解されている。その結果、統一教会の二世たちは、一般社会からの「宗教二世」という評価と、教会内部での「祝福二世」という評価の狭間で悩んだり苦しんだりするようになる。

 私自身は、「宗教二世」という言葉は多くの問題があり、使うべきではないと考えている。なぜなら、特定宗教の信仰を持った家に生まれること自体が問題であるかのように捉えられ、出自による差別や偏見を助長する恐れがあるからだ。それでなくても、人類の歴史は宗教的出自による差別の例に満ちている。ユダヤ人の家庭に生まれたというだけで迫害の対象になったのは、それほど遠い昔の話ではない。

 ここで「二世」という表現が意味するものについて深掘りしてみたい。つまり、なぜ宗教「二世」問題と言われるのに、「三世」「四世」問題とは言われないのかということだ。Wikipediaが言うように、「家族(両親など)が宗教を信仰している家庭で生まれ育ち、家族(両親など)の意思で誕生時や幼少期から宗教に入信させられている人々」という意味であれば、伝統宗教を先祖代々信じている人々も含まれるはずだ。キリスト教で幼児洗礼を受けた人などは、この定義によればまさに「宗教二世」であろう。

 ここで、親から子供に信仰を継承すること自体はまったくノーマルであることを大前提として押さえておきたい。伝統的社会における親から子への信仰相続は「社会化」と同じプロセスであった。そもそも、伝統宗教と一般社会の規範の間には緊張関係がない。信仰は生活の一部であり、しかも通常は究極的関心ではない。仏教の檀家は「家の宗教」であり、神社の氏子も先祖から受け継ぐものである。イスラムでは子供が信仰を相続するのは義務であり、他宗教への改宗は死刑に値する。こうした社会では、「宗教二世」どころか「宗教三世」も「宗教四世」も当たり前の話であり、問題視されることはない。

 しかし、信教の自由が保障された現代社会においては、子どもにも宗教の選択権がある。それゆえに親の信仰を継承するかどうかをめぐって親子の葛藤が生じる可能性がある。この点に関しては伝統宗教も統一教会も同じであり、統一教会の信仰継承にだけ何か特別な問題があるわけではない。それをことさらに「宗教二世」という言葉を用いて、人権問題として取り上げようとするところに、マスコミの偏見が見て取れる。

 ここで、敢えて宗教「二世」であって、「三世」でも「四世」でもないのは、この言葉を用いる側が批判する宗教の親世代が、信仰の第一世代であることを含意しており、要するに新しい宗教(カルト)を標的とした言葉であることを表している。すなわち、親と子の二世代しか存在しないくらいの新しい宗教をターゲットにしているということだ。これはとりもなおさずマイノリティー宗教であることを意味する。

 新宗教運動は、既存の宗教伝統に満足することのできない教祖によって、同じような不満を抱えた信徒たちが感化されて創唱されることが多い。当然のことながら、生まれたばかりであれば教団の規模は小さく、既存の宗教伝統や社会一般に対して、批判的で対抗的な世界観を持っていることが多い。そうでなければ、新しい宗教を創唱する必要がないからである。宗教社会学的にはまさにこのような団体のことを「カルト」というのだか、この用法はその団体が善か悪かというような価値判断をしない中立的なものであり、決して侮蔑的な意味で用いているのではない。

 現代社会におけるマイノリティー宗教における信仰相続は、子供に対して価値観が大きく異なる「二つの世界」に生きるという状況を強いることになる。すなわち、教団の中では一般社会に対して批判的で対抗的な宗教的価値観を教えられるが、同時に一般社会の学校に通い、就職すれば、世俗的な価値観と折り合いをつけなければならない。マイノリティー宗教の二世が経験する葛藤の本質はまさにこのようなものだが、メディアの扱いは、「教団=悪、子ども=被害者」という構図になりがちであり、二世が教団を離れることこそが問題の解決であると言わんばかりの報道が多いのには閉口させられる。

 まとめると、「宗教二世」の問題は以下のように整理される。①親から子への信仰の継承自体は完全にノーマルであり、何の問題もない。②一般社会に対して対抗的な価値観を持つマイノリティー宗教の二世は、「二つの世界」に生きるという状況からくる葛藤を経験する可能性が高く、「宗教二世」問題の本質はまさにここにある。③「宗教二世」の問題としてしばしば取り上げられる貧困、虐待、ネグレクトなどの問題は、個別の家庭問題として扱われるべきであり、同じ教団の信者でも状況は家庭ごとに異なる。特定宗教の信者の家庭だからこうした問題があると決めつけるのは偏見である。もしこうした問題が本当に存在するとすれば、信仰の有無にかかわらず、支援の手が差し伸べられるべきである。

 この部分の記述の中で櫻井氏は、「エリート信者である献身者の幹部」対「搾取の対象である壮年壮婦の信者」「エリートの子弟である祝福二世」対「ワンランク下の『ヤコブ』と呼ばれる壮年壮婦の子供たち」というステレオタイプ化した偏見を披露している。山上被告の家庭はまさにそうした壮年壮婦の家庭であったために悲劇が起こったと言いたいようだが、こうした彼の分析が誤りであることはこのシリーズの第58~60回で詳しく述べているので、ここでは説明を繰り返さないことにする。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』208


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第208回目である。

 そもそもこのシリーズは2016年3月16日に開始して以来、途中何度かの休憩を挟んで2020年8月26日まで4年以上の歳月を費やして書き続け、207回をもって一度完結したものである。それをなぜいまになって再開するかといえば、再版の際に「まえがき」が加筆されたためである。特に2022年に第四刷を刊行したのは、安倍元首相銃撃事件の後であり、重要な内容が含まれているため、その部分に対する検証も必要であると感じたからだ。

 櫻井氏は『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』の初版を2010年2月に刊行しているが、3年後の2013年に第三刷を、そして安倍元首相銃撃事件の後に第四刷を刊行している。第三刷と第四刷にあたって、それぞれ「まえがき」に加筆をしているので、その部分について私なりの論評をしておきたい。

 「第三刷にあたって」(p.xviii-xxv)では、初めに「書籍の反響」について語っている。「本書は一般書店におかれることもあまりないA5判650頁に及ぶ学術書であり、市民の目に触れる機会もそれほどないと思われるが、1500部を超えて読まれているということ自体、統一教会が日本社会に与えた影響の深刻さを示しているのではないかと思われる。」(p.xix)となにやら自画自賛めいたことを語っているが、確かに学術書としては1500部は売れた方であろう。

 通常の学術書なら、図書館需要で200~300部が見込まれ、仮に1000人の学会のある分野の本だとすれば,その一割の購入で100部程度。およそ400部は見込めるということになる。しかし、初版が400部では単価が高くなってしまうので、1000部刷るとしたら、残りの600部を書店等で販売しなければならない。これはかなり厳しい数字なので、学術書が1500部を超えるのは難しいわけである。

 しかしこれは、純粋な学術書であることが前提の数字だ。実は櫻井氏の『統一教会』は純粋な学術書ではなく、イデオロギー的でプロパガンダ的な要素を多く含んだ著作なのである。そもそも櫻井氏は、統一教会について調査をするときに、自分と利害関係において一致しない対象は排除すると公言しているような学者である。櫻井氏の研究の主要な情報源は、統一教会に反対している牧師、脱会カウンセラー、弁護士などのネットワークにつながっている元信者である。情報源がこのように偏っているということは、著作が売れるマーケットも同様に偏っているということだ。

 櫻井氏の著作が600ページを超える大著であり、しかも学術書の体裁を取っていてもなお1500部も売れる理由は、こうした統一教会反対派の教科書として活用されているからに他ならない。実はこれは単なる憶測ではない。私の知る限りで最低三名の信者が、氏族から反対されたり脱会説得を受けたりした際に、櫻井氏の著作『統一教会』を読んでみろと勧められたというのである。このことは、「統一教会が日本社会に与えた影響の深刻さを示している」のではなく、この本が価値中立的な学術書ではなく、イデオロギー的でプロパガンダ的な要素を多く含んだ「統一教会反対本」という性格を持っており、その筋のマーケットに売れていることを示しているのである。

 櫻井氏は「書籍の反響」の中で、2010年に起きた「週刊ポスト名誉毀損訴訟」について触れているが、この事件についてはこのシリーズの第119回で触れているのでここでは説明を繰り返さないことにする。

 続いて櫻井氏は「在韓女性信者の補足調査」と「春川事件」について報告している。いずれも合同結婚式で韓国に嫁いだ日本人女性に関わる内容である。この分野はもともと中西尋子氏が独占的に扱っていたが、第一刷の発刊後に櫻井氏も韓国を訪問して実態調査をしたのだという。一次情報に触れようとする姿勢自体は学者として評価できる。

 櫻井氏によれば、こうした女性たちは「①現在も堅固な信仰を維持している女性、②統一教会の地域教会には所属しているが信仰は失った女性、③統一教会と縁を切って家庭生活を送る女性」(p.xix)に大別できるという。さらに「①②③の女性たちが反目しあっているわけではない」(p.xx)というのであるから、反対派が陥りがちな「統一教会」対「反統一教会」という単純な図式に当てはまるわけではないことが分かる。櫻井氏もこうしたリアルな情報にもっと触れることによって、統一教会に対する極端な思考形態から脱却してほしいものである。

 「春川事件」とは、2018年8月に韓国の江原道春川に住む日本人女性信者が、韓国人の夫を殺害した事件のことである。殺害の理由は生活苦や夫の飲酒と暴力であったと言われているが、これは韓国で暮らす日本人女性信者の中でも極めて特異な事件であり、これをもって「在韓祝福家庭夫人の窮状」などという言葉で一般化すべきでないことは言うまでもない。

 「第三刷にあたって」のメインは、むしろ「文鮮明の死と体制の変化」の部分であろう。ここでは2012年に文鮮明師が聖和(逝去)した後の「お家騒動」のようなことが記述されている。いずれも櫻井氏自身が見聞きしたことというよりは二次情報をまとめたものであり、現役の教会員からすれば目新しい情報はない。実は統一教会の信者の情報リテラシーは、外部の人間が「マインド・コントロール」という言葉から想像しているような状況に比べればはるかに高い。ここで述べられているようなことは、教会員にとってはほとんどが周知の事実であり、こうした事態については心を痛めながらも、かなり冷静かつ客観的に受け止めているのである。

 文鮮明師が亡くなった後、後継者の問題が発生したことは事実であり、これは新宗教の教祖が亡くなった後にはよくあることである。「統一教会の分裂」というキャッチコピーのような言説がインターネット上で拡散した時期はあったが、「第三刷にあたって」の櫻井氏の記述はいまとなっては昔話のような印象だ。なぜなら、文鮮明師の三男のグループと四男及び七男のグループは袂を分かったものの、本体である世界平和統一家庭連合のリーダーシップは韓鶴子総裁の下で安定しており、後継者問題についてもほぼ決着がついているからだ。

 教祖が亡くなった後の後継者争いに関する解説は、権力闘争を際立たせるようなゴシップ的な描写になりがちであり、特定の当事者にとって有利な言説が意図的に拡散されることが多い。櫻井氏の記事もその域を出ていない。これも彼が現役の統一教会信者がどのように受け止めているかをきちんと取材せず、周辺のネット情報だけを追いかけているために起きる情報の偏りに起因するものであろう。

 特に最後の「日本の統一教会組織が、文鮮明ファミリーや韓国の幹部たちから完全に蚊帳の外に置かれ、資金提供者としてのみ有効に活用されている事実だけは鮮明に浮かび上がる」(p.xxiv)という描写は、櫻井氏の思考形態の中に存在するステレオタイプをものの見事に表現している。現実はもっと複雑であり、韓国統一教会も、日本統一教会もこうしたステレオタイプだけでは説明しきれない多様性を持っている。しかし、櫻井氏の目的が学問的な真実の探求ではなく、イデオロギー的な批判にあるため、こうした総括をせざるを得ない事情があるのであろう。彼のマーケットがそれを求めているのである。

第四刷にあたって加筆された「まえがき」は、「安倍元首相銃撃事件」「容疑者家族と統一教会の接点」「被害者家族の苦難と二世信者の困難」「統一教会と自民党」「統一教会問題はいかに解決されるべきなのか」「統一教会に対する宗教法人の認証・解散」という6つのパーツからなっている。事件を受けて著作が売れると思ったのか、かなり力の入ったまえがきの加筆になっているが、この部分は2022年7月19日に脱稿したと「付記」(p.XVI)に書いてある。事件後10日余りの情報整理だけで書き上げたことになる。それだけに、未来について予想した部分に関しては、外れていることが多い。事件後の統一教会をめぐる世の中の動きは、専門家を自称する櫻井氏から見ても予想をはるかに超えた異常な展開であったことをあらためて思い知らされる。

 第四刷にあたって加筆された「まえがき」については、次回から順を追って論評する。

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BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ43


BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ43

信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した家庭連合関係の記事を紹介する連載。これらの記事を書いたマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。これらの記事の著作権はマッシモ・イントロヴィニエ氏にあるが、特別に許可をいただいて私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。

宗教の自由に関する米国務省の年次報告書:中国に対しては模範的だが、日本に対しては臆病

07/01/2024 MASSIMO INTROVIGNEA

2024年6月26日に発表された報告書は、敵に対しては説得力を持って非難するが、政治的同盟者に対してはやや甘いという昨年の態度を裏付けた。

マッシモ・イントロヴィニエ

6月26日に報告書を発表する米国国務長官と国際宗教自由担当特使のラシャド・フセイン氏。出典:米国国務省

2024年6月26日、米国国務省は2023年版の国際的な宗教の自由に関する年次報告書を発表した。議論の対象となっている国々の宗教の自由の状況に関する、小規模ながらもよく書かれた論文となっている質の高いセクションが多数含まれているこのような文書が存在することに対して、我々は感謝すべきだ。

「Bitter Winter」の我々も、チベット、香港、新疆など中国における宗教の自由の侵害の具体的な事例を論じるほぼすべてのページ、事実上ほとんどの段落で我々の雑誌が引用されていることに感謝している。さらに重要なのは、中国に関するセクションの全体的な構成と、同様に説得力のあるロシアとパキスタンに関するセクションを我々が高く評価しているということだ。これら二か国に「Bitter Winter」は特に注目している。

中国に関する部分の構成は説得力があり、模範的ですらある。宗教に関する法律や規制が絶えず改悪され、裁判所、行政、当局、警察によるその執行が弾圧を強化していることを説明している。称賛に値するのは、この報告書がチベット仏教徒、トルコ系および回族のイスラム教徒、家庭教会のプロテスタント、カトリックの良心的兵役拒否者などの主流宗教の信者に対する迫害を扱っているだけでなく、「邪教」(非正統的な組織で「カルト」と訳されることもある)に分類される団体への厳しい弾圧を強調していることである。報告書は法輪功のドラマを報告し、「3月にニューヨーク市弁護士会が『中国が良心の囚人から強制的に臓器摘出を行っている十分な証拠がある』とする報告書を発表した」と指摘している。

全能神教会(CAG)に関する詳細なセクションは、全文引用する価値がある。全能神教会は「市民社会の報告によると、29の省で大規模な拘留と逮捕に直面した。全能神教会は、政府が今年(2023年)に少なくとも12,463人を逮捕したと報告したが、これは2022年の逮捕者数10,895人と比較して増加している。当局は少なくとも2,207人を懲役刑に処し(2022年は1,901人)、そのうち1,094人は3年以上の刑を宣告された。当局は少なくとも5,832人を拷問または強制的な教化の対象とした。逮捕者数が最も多かったのは江蘇省、安徽省、浙江省、山東省だった。全能神教会によると、今年、少なくとも20人の信者が迫害の結果死亡した。全能神教会によれば、信仰を放棄することを拒否した被拘禁者に対し、警察は最長10日間の睡眠剥奪、手首に手錠をかけての吊り下げ、長時間の起立、座位、ストレスのかかる姿勢、電気ショック、殴打などの処置を施したという。家族によると、拘留中に死亡した人の中には、打撲傷や栄養失調、衰弱の症状が見られた人もいた。同国の宗教の自由と人権侵害を追跡するオンライン出版物『Bitter Winter』によると、全能神教会信者の1人が逮捕から3日後に死亡した。警察は、彼女は首つり自殺をしたと述べたが、遺体を見た親族は首に首吊りの跡はなく、頭に傷があったようだと報告した。警察に追われた女性1人は飛び降り自殺した。9月に『Bitter Winter』は、今年初めに政府が全能神教会を撲滅するための広範なキャンペーンを開始したと報じた。公安、国家安全保障、武装警察、特殊部隊警察が共同で全能神教会のメンバーを逮捕する作戦を実行した。当局は大量逮捕を行う前に数か月あるいは数年にわたって教会のメンバーを監視していたと報じられている。例えば、6月15日には、浙江省当局は少なくとも1,043人の全能神教会のメンバーを逮捕した。当局は逮捕者の一部を再教育センターや秘密施設に移送し、そこで教会員に肉体的、精神的拷問を加え、強制的に『ディプログラミング』を行った。安徽省の公安当局者は『Bitter Winter』に対し、『これは全国規模の組織的粛清だ。今年の焦点は全能神教会の取り締まりだ』と語った。ある当局者は尋問中に被拘禁者に『今回は、地域からさらに小さな地区、そして地元の教会に至るまで指導者を根絶する。攻撃の激しさは今後も増していくだろう』と語ったと報じられている。」

同報告書は、すべての宗教の「中国化」は中国の文化や伝統に適応することを意味するのではなく、「すべての宗教の教義と実践を中国共産党の教義に合わせること」であり、「すべての信仰の聖職者に政治的教化集会への出席を義務付け、中国共産党と国家への忠誠を強調する説教の内容を示唆することが含まれる」ことを確認した点でも評価に値する。より一般的には、「政府は宗教施設に対するほとんど至る所に存在するハイテク監視のシステムを維持し、近隣住民を監視して「カルト関連の活動、違法な説教、その他の政治的および安全保障上のリスク」を報告するために地元の党幹部の使用を拡大した。当局は宗教ウェブサイトをブロックし、人気のメッセージサービス「WeChat」から宗教コンテンツを削除した。当局は引き続き、聖書、コーラン、その他の宗教文献の印刷と配布を制限し、宗教的資料をコピーして出版した企業に罰則を科した。」

この報告書は「Bitter Winter」から以下の文章を引用している。「当局は、聖書の無許可版を含む、無許可の宗教書や『迷信的な』書籍を、その制作、頒布、所持に対する処罰に関して、ポルノと同等に扱うのが一般的だ。Bitter Winterによると、6月に河南省尚城県の警察と市場監督局の職員が書店を捜索し、無許可の宗教書や『迷信的な』出版物を探した。当局は特に学校や大学の近くの書店を狙った。Bitter Winterは、地元の信者は『無許可の宗教書とポルノを同じカテゴリーに入れる政策に憤慨している』と述べた。」

報告書を紹介するブリンケン国務長官とフセイン特使の記者会見。出典:米国国務省

先に述べたように、昨年同様、この報告書は米国の政治的同盟国に対してやや「甘い」態度を取っている。フランスでエホバの証人が政府の反カルト機関MIVILUDESに「中傷的な文章」の一部を削除するよう求める行政訴訟を起こしたが、エホバの証人が勝訴したとは明記されていないのは驚くべきことではない。この勝利は2024年にもたらされ、報告書は2023年の出来事のみを扱っているからだ。フランスで2023年に議論されていた「カルト」に関する危険な新法に関する「懸念」についても同様だ。この法律は2024年に可決されており、来年の報告書で詳細に議論されることが期待され、我々はそうなることを望んでいる。

報告書が毎年読者に対して、奇妙な「『セクト・フィルター』、すなわち採用候補者がサイエントロジー教会と接触していないことを確認する署名入りの声明書が、ドイツでは公共部門と民間部門で依然として使用されている」ことを思い出させ続けているのは良いことではあるが、台湾の宗教団体の資産管理に対して政府が物議を醸す介入をしていることが、単に「宗教団体が保有する資産を個人が不正に流用するのを防ぐための取り組み」として提示されていることには、いささか驚かされる。状況はより複雑であり、世界中の多くの学者たちが、少数派の精神的集団に対して嫌がらせをするために税法を悪用した典型的な例として研究してきた、長きにわたる太極門事件も、言及に値するとは考えられていない。しかし、台湾はこの地域における米国の重要かつ戦略的な同盟国である。

それは日本も同様だが、同報告書は、統一教会(現在は世界平和統一家庭連合と呼ばれている)とエホバの証人に起きていることを無視することはできなかった。同報告書は、「[2023年]10月13日、東京地方裁判所は、文部科学省が提出した、教会を『解散』させるために家庭連合の法人格の取り消しを命じるよう求める申し立てを正式に受理した」と指摘している。同報告書は、「これは、民法に違反したことを理由に宗教法人を解散するという政府の初の請求であった」と指摘している。日本の法律は、解散請求の手続きを行うためには、民法に違反しただけではなく、刑法違反を要するものと常に解釈されてきた。

宗教団体の解散という極めて重要な問題に関して、法解釈を変更し、それを遡及的に適用することは、国際的な人権および宗教の自由に対する日本の公約に反するというのが、宗教の自由を守るために働く国際的な活動家および学者の大半の見解である。国務省の報告書は、この見解に触れつつも、また「Bitter Winter」に英語で連載されている「国際弁護士・中山達樹」氏の小冊子を要約しつつも、中立の立場を貫いている。それは政府の意見と批判者の意見を報告しているだけであり、米国務省自体の立場は不明のままである。

同様に、この報告書はエホバの証人をも標的にしてきた反「カルト」キャンペーンが深刻な社会的影響を引き起こしていることにも触れている。日本のエホバの証人は、「『偏った』メディア報道が、元信者による不正確で歪んだ主張に基づく危険なステレオタイプを固定化したことを非難している」と指摘している。また、「家庭連合のメンバーは、2022年の安倍元首相暗殺事件以降、『偏った』または『敵対的な』メディア報道と(反カルト団体)全国霊感商法対策弁護士連絡会からの圧力により、信仰を公然と表現できなくなったと述べた。信者らは疎外されることへの不安から教会への所属を明らかにすることを恐れていると述べ、ある市職員が教会からの金銭的寄付を断ったことや、ある市が少なくとも1つの地域文化イベントへのメンバーの参加を、組織と関わりを持ちたくないという理由で拒否したなどの例を挙げた。信者らは、裁判所が教会を「解散」、またはその法人格を剥奪する決定を下した場合、この決定によって教団が「悪」であることが確認されたと社会が捉える可能性があるため、信仰を表明することへの躊躇がさらに強まるのではないかという懸念を表明した。

日本の家庭連合とエホバの証人が現在直面している劇的な状況が認識されていることは重要である。しかし、欠けているのは、安倍元首相暗殺後のキャンペーンと、日本の統一教会/家庭連合とエホバの証人を標的とした政府の行動が、民主主義国家における21世紀最悪の宗教の自由の危機を生み出したという明確な声明である。世界で最も包括的で、多くの観点から最も優れた宗教の自由に関する政府報告書が、政治的な慎重さを乗り越えて、この単純な真実をはっきりと述べることを誰もが期待したであろう。

以上の記事のオリジナルは以下のURLで見ることができます。

https://bitterwinter.org/%e5%ae%97%e6%95%99%e3%81%ae%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%ab%e9%96%a2%e3%81%99%e3%82%8b%e7%b1%b3%e5%9b%bd%e5%8b%99%e7%9c%81%e3%81%ae%e5%b9%b4%e6%ac%a1%e5%a0%b1%e5%91%8a%e6%9b%b8%ef%bc%9a%e4%b8%ad%e5%9b%bd/?_gl=1

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Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ12:2023年2月号


 私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第12回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。最終回の今回は、2022年12月号に寄稿した文章です。

第12講:自然神学と啓示神学③:神の内在と超越

 「キリスト教講座」の第12回目(最終回)です。「自然神学と啓示神学」は組織神学の本質的なテーマの一つであり、キリスト教神学全体の中での統一原理の立ち位置を理解する上で重要なテーマです。今回はその中でも神の内在と超越について扱います。

 内在と超越というのは、神と被造世界との関係、とりわけ両者の距離感に関する両極の概念です。極めてシンプルに説明すれば、「神の内在」とは神が被造世界に遍在しており、私たちと非常に親密な関係にあることを意味しており、「神の超越」とは神と被造世界との間には断絶があり、神は遠く離れたところにおられるということを意味しています。

 これまで説明した内容との関係で言えば、福音派の神のイメージは超越神であり、自由主義の神のイメージは内在神ということになります。また、自然神学が神の内在を前提としているのに対して、啓示神学は神の超越を強調します。

 神の内在という考え方は、人間の基本的善性の強調につながり、原罪によって人間の性質が完全に腐敗しているとはとらえません。これが行きすぎると汎神論に陥ったり、神秘主義的傾向を帯びたりするようになります。「汎神論」とは、神と被造世界があまりに近づきすぎた結果、その区別がなくなったり、曖昧になったりするということです。現実のすべてが神になってしまいます。

 神学的には、神がそれほどまでに被造世界に浸透しているとすれば、どうして悪が生じたのかという「神義論」の問題が解決できなくなります。また信仰姿勢としては、神が直接人間に働くのだから、教会や司祭などを媒介としなくても、直接自分が神に出会えば良いという思想に傾き、神秘主義や教権批判といった方向に向かいやすい傾向にあります。また啓示の遍在性という思想の故に、『聖書』にしか神の啓示が現れないとする根本主義に反対することになり、他宗教との対話に理解を示すようになります。

超越神と内在神

 超越神と内在神をイメージで描くと【図1】のようになります。内在神を信じる人は、神は普遍的存在としてどこにもいるし、私の中にもいるのだから、わざわざ教会に行かなくても、司祭につながらなくても、自分が直接神に出会えばよいという発想になります。この考えを突き詰めていけば、教会に行く必要がなくなってしまいます。

 一方で超越神においては、私は罪深いから直接神に出会えないということになり、だからこそ教会や司祭は絶対に必要だということになります。そこには【図2】に示されたような縦的な秩序があり、神がみ言葉を下さり、そのみ言葉をつかさどる教会があり、その教会を媒介としてはじめて私は神につながることができると考えます。

 神の超越性を強調する思想は、基本的に人間や自然の中にはいっさいの神性を見出すことはできず、神は被造世界から独立し、遠く離れたところにいるととらえます。パウロ、ルター、カルヴァン、バルトなどの思想に色濃く現れている考え方が、この超越神です。彼らはみなキリスト教の世界においては非常に有名な人々です。キリスト教神学全体が超越神の方に傾いているのは、彼らの影響によるものだと言っても過言ではありません。

 この思想によれば、人間を含む被造世界は神からかけ離れているので、それらの中には神を見出すことはできません。したがって、自然神学は成り立たないととらえます。「人間からは神に近づくことができないので、神の方から人間にアプローチしてこなければ人間には救いの道はなく、人間の救いは徹底的に神の恵みによるものである」という思想が、福音主義神学の大前提となります。

 神の絶対超越性は啓示の必要性と結び付いており、イエス・キリストや聖書という啓示以外には救いの道はないと主張します。この思想は常に神の偉大性と神秘性を強調することによって、人間を謙虚にするという利点を持っています。超越神信仰の本質は何であるかというと、常に神の恵みに感謝し、「神を畏れる」ことを知る信仰者を育てることにあります。そしてキリスト教信仰が安易に時勢に流されることを戒め、本質に帰れと叫ぶのです。

 それでは、この問題に関する統一原理の立場はどのようになるのでしょうか? トマス・アクィナスに代表されるスコラや、バルトに代表される新正統主義に比べると、統一原理は神の内在性がより強調された神学であると言っていいでしょう。これは内在性が良いといっているのではなくて、従来のキリスト教神学の神観が神の超越的側面のみを一方的に強調してきたために、相対的にそのように見えるのであって、実は両者のバランスの取れた状態が望ましいわけです。

 内在性も度を過ぎれば自己と神を同一視する独善や、分派・分裂に走る危険をはらんでいます。超越性も度を過ぎれば、教条主義や自己の主体性を放棄した盲目的・盲従的信仰に陥る危険があります。どちらも度を過ぎれば問題となるのです。

 この講座の結論として言えることは、統一原理は極めてバランスの取れた神学であるということです。福音主義と自由主義の両方の立場を包含するような、幅広い内容を持っています。たとえば、『原理講論』の「総序」には、最終的な真理は人間の頭脳から編みだされるものではなく、「あくまでも神の啓示をもって、われわれの前に現れなければならない」と書いてあります。この部分はかなり啓示神学的なトーンで書かれていると言えるでしょう。これが「総序」の終わりの部分となります。

 ところが次のページを開いて創造原理に入ると、「被造物を観察することを通して神について知ることができる」と書いてあり、自然神学が展開されるのです。『原理講論』をそういう観点から読んでみると、自然神学的な部分と啓示神学的な部分が混在していることが分かります。にもかかわらず、全体として矛盾があるのではなく、首尾一貫しているわけです。

 統一原理は、一見矛盾するかのように思われる両極の考え方を統一して行く神学であると言えます。これまで解説した「自然神学」対「啓示神学」、「福音主義」対「自由主義」、「神の超越」対「神の内在」などの一見相反するような考え方を、全部抱き込んで一つにしていく、とても器の大きな神学が、統一神学なのだということです。このように既存のキリスト教神学との比較を通して統一原理の内容を見てみるときに、私たちの知らなかった奥深さがあるということを理解していただければ幸いです。

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Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ11:2022年12月号


 私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第11回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2022年12月号に寄稿した文章です。

第11講:自然神学と啓示神学②:特殊啓示と一般啓示

 「キリスト教講座」の第11回目です。「自然神学と啓示神学」は組織神学の本質的なテーマの一つであり、キリスト教神学全体の中での統一原理の立ち位置を理解する上で重要なテーマです。今回はその中でも特殊啓示と一般啓示について扱います。

 一般的なキリスト教の組織神学の教科書は、「啓示とは、神の人間に対する自己開示である」と定義しています。すなわち、神は無限な存在であり、人間は有限な存在なので、人間の側から神についてすべてを知ることはできません。神が自分はこういう存在であると開示してくださるときに、初めて人間は神について知ることができるということです。

特殊啓示と一般啓示

 この啓示には、二種類あることを一般的なキリスト教の組織神学では認めています。その一つが「一般啓示」と呼ばれるもので、これは「いついかなる時と場所においても神は人間と親しく交わり、ご自身を開示されるという意味での啓示」ということになります。伝統的な一般啓示の場としては、まず自然があります。自然の中に神が表れるということであり、これを根拠に「自然神学」が成り立つことになります。さらに、歴史的出来事の中に神が表れることもあり、良心や道徳的衝動のような人間の性質に神が働くことがあります。

 それに対して「特殊啓示」とは、「神が特別な摂理的な時に、特別な人物に与え、『聖書』という特別な書物に記された内容という意味での啓示」のことを言います。バランスの取れた一般的な組織神学の教科書には、啓示には「一般啓示」と「特殊啓示」の二種類があると書いてあります。ところが極端な福音主義神学の立場では、「一般啓示」などというものはあり得ず、「特殊啓示」だけが啓示と呼ぶに値すると主張しています。福音主義は「一般啓示」を認めないのですから、それを根拠とする「自然神学」も認めないという立場をとります。

 聖書に依らずとも、自然を観察することを通して神について知ることができるという立場の神学を、「自然神学」と言います。自然を観察して分析するのは人間の理性ですから、理性によって神を知ることができるという立場の神学であり、合理主義的で哲学的な神学であるといえます。自然神学は中世の神学者トマス・アクィナスによって集大成されたと言われています。彼の主張は、キリスト教の真理には、啓示によってしか知り得ない部分もあるが、合理的検証によって知りうる部分もあるというもので、その領域が「自然神学」の領域であるとしました。

 トマス・アクィナスの神学は、自然と超自然という二階建て構造になっていました。自然神学の領域は、理性で考えれば誰でも分かる部分であるとされ、彼は神が実在していることは合理的に考えれば分かると言いました。そのため、彼は理性を駆使して5通りの神の存在証明を提示しました。

 ところが、キリスト教の教えの中には、人間がどんなに一生懸命理性を働かせて考えたとしても、とても到達しえないような真理もあると彼は言いました。それが「三位一体」や「ロゴスの受肉」などの超自然的な事柄に関するキリスト教の教理です。これらは理性の到達できる領域を超えたことなので、啓示によってのみ知り得るキリスト教の真理であると彼は言ったのです。

 このようにトマス・アクィナスはキリスト教の真理を超自然の部分(上部)と自然の部分(下部)に分け、自然神学を啓示神学の下に位置づけました。これが中世的神学の枠組みです。ところが、この中世的な神学が挑戦を受けるような時代がやって来ます。それが「理性の時代」です。まず宗教改革によってカトリックの伝統的権威が崩壊します。その次に、宗教的権威に挑戦する啓蒙思想が出てきます。啓蒙思想は理性によって認識し得るもののみが「真理」と呼ぶに値するという考え方です。これによってトマス・アクィナスの二階建て構造の上部に当たる超自然的な要素を、キリスト教から排除しようという神学が出現したのです。これが自由主義神学であり、ルネッサンスと啓蒙思想を経てヨーロッパのキリスト教の主流となり、19世紀に全盛期を迎えました。

アクィナスとバルト

 自然神学は、科学と宗教は基本的に矛盾しないという立場をとり、人間の理性を高く評価する楽観的な神学です。人類は右肩上がりに成長し、進歩していくという「進歩の思想」です。一方で、人間の罪深さや悪魔性については強調しないので、危機の時代においては無力な神学であると批判されることもあります。

 19世紀まで発展してきた理性を賛美する自然神学が、突如として挫折した大きな事件が第一次世界大戦でした。人間の科学技術が大きく発展した時代に起こったこの戦争は、その科学力で大量の人を殺したという事実を突きつけ、理性礼賛の時代に終焉をもたらしました。第一次世界大戦によって人間が持っている罪深さや悪魔性がヨーロッパの人々の前に絶望的な形で示されることによって、合理的に発展しさえすれば理想世界が来るという考えが吹っ飛んでしまったのです。そして、あらためて人間は罪深い存在だということが認識されるようになりました。そこに登場した神学者がカール・バルトでした。

 バルトは、ドイツのナショナリズムやヒトラーのナチズムと簡単に結びついて同調してしまうような自然神学の薄っぺらさを批判し、徹底した啓示神学の立場を確立しました。人間は罪深いので、神の啓示によらなければ真理を知ることはできないと、徹底的に主張したのです。このバルトの影響下にある福音主義神学は、神の恵みによらなければ、啓示によらなければ、絶対に神を知ることはできないと強調することになります。

 バルトが否定した一般啓示と自然神学にも、以下のような利点があると整理することができます。第一に、この考え方は神の真理は聖書に限定されないととらえるので、聖書を信じない人にも神を説くことができます。次に、聖書には表現されていない自然の美や科学的知識を通して神を知る道を閉ざさないという利点があります。さらに「聖書のみ」を強調しないので、他宗教との対話の道を開くという利点があります。統一原理は、啓示神学だけでなく、自然神学の価値をも認めているということができます。

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Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ10:2022年10月号


 私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第10回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2022年10月号に寄稿した文章です。

第10講:自然神学と啓示神学①:福音派と自由主義

 「キリスト教講座」の第10回目です。今回から、「自然神学と啓示神学」という組織神学の本質的なテーマについて解説します。これはキリスト教神学全体の中での統一原理の立ち位置を理解する上で重要なテーマとなりますが、今回はその前提として福音派と自由主義の違いについて解説します。

 現代のプロテスタント教会は、福音派と自由主義という二大潮流に分かれています。聖書を文字通りに解釈し信仰的にとらえようという傾向の強い教派を総称して「福音派」と呼んでいます。一方で自由主義またはリベラルと呼ばれるキリスト教は、聖書を文字通りにとらえるのではなく、より現代的で自由な解釈をしようとする教派のことです。

1.聖書観の違い

 福音派とリベラルを分けている最も根本的な違いは、聖書に対する考え方です。福音派は聖書は神から与えられた完全な啓示であり、すべて字義通りの真理であるととらえています。したがって、聖書の批評学的研究を不信仰として否定します。根本主義や逐語霊感説は、福音派内のさらに極端な立場となります。

 一方で自由主義は、聖書に対してもう少し現代的な見方をします。聖書は最も重要な真理の源泉ではあるけれども、無謬の書ではなく、時代的・文化的制約を受けているので、現代には通用しない内容が含まれているととらえます。聖書は科学が発達する以前に書かれたものなので、それを現代人が文字通りに信じることはできず、現代的解釈が必要だと考えるのです。そのため、聖書の批評学的研究も肯定的に評価します。

2.キリスト観の違い

 福音派のキリスト観は次のようなものです。キリストは人類の罪を身代わりとなって引き受けた超人間的存在であり、奇跡的出来事である処女懐胎、死人の復活、病気の治癒などが、聖書の記述通り実際に起こったと信じます。キリストは、罪人である私たちとは全くかけ離れた、神に等しい存在であり、その方が十字架にかかって亡くなってくださったことによって、人類の罪が許されるという贖罪論が成り立つのです。

 それに対して自由主義のキリスト教は、キリストの神性をさほど強調せず、むしろ模範的な人間として理解します。隣人のために自分の命を投げ捨てたその愛にこそ、人類の歩むべき道が示されており、人間の見本であるととらえています。キリストにまつわる奇跡的な出来事に関しては、キリストを神格化するための物語として懐疑的にとらえています。

福音派と自由主義

3.人間観の違い

 福音派は、原罪や人間の本来的な罪深さを強調する傾向にあります。原罪によって人間は真っ黒に汚れているので、善を行う力は一切ないととらえています。そのような人間が理性を働かせて善を行おうとしても無駄なので、人間の理性の価値を否定する傾向にあります。したがって、教育よりも回心や救いを強調します。人間は罪深いので、キリストの恵みによってしか救われないという価値観があるのです。

 一方で自由主義は、それほど暗い人間観を持っていません。人間には善を行う力も残っているととらえ、理性を肯定的に評価する傾向にあります。人間は理性によって正しい判断をすることが可能なので、教育が重要であると言います。原理的に言うと、福音派が原罪や堕落性本性を中心として人間を理解しているのに対して、自由主義は堕落人間にも残されている創造本性を中心として人間を理解しているということになります。

4.他宗教に対する態度

 福音派は、神の啓示は聖書にのみ記されていると信じているので、基本的に他宗教の価値は一切認めません。コーランの中にも仏典の中にも、神の啓示は一切含まれていないという、極めて排他的な立場をとります。したがって、他の宗教と対話をしようとはしません。

 それに対して自由主義は、神の啓示は聖書にのみ限定されないという立場なので、他宗教の価値を認め、対話しようとする傾向にあります。他宗教に対するより寛容な心を持っているのが自由主義ということになります。

5.救済観の違い

 福音派は、個人的な救いの体験、回心や清めの体験、その中でも「新生体験」と呼ばれる、自分が生まれ変わったという体験を非常に重要視します。さらに、聖書に書かれている最後の審判や、天国と地獄を文字通りあるととらえます。ヨハネの黙示録に出てくる千年王国の到来や「ハルマゲドン」が間近であると信じる教派も多く見られます。

 一方で自由主義のキリスト教は、個人の劇的な救いの体験というものはあまり重要視しません。そして聖書に出てくる最後の審判や、天国と地獄といった内容に対しても懐疑的で、ある種の象徴としてしかとらえていません。幼児以来、家庭環境の中で自然に信徒になった者が多く、宗教を倫理としてとらえる傾向にあります。

 こうした違いが、信仰活動の違いにも表れてきます。福音派は、聖書学習会、祈祷会、伝道集会などを積極的に展開し、個人の回心を求める活動を積極的に行います。それに対して自由主義は、個人の内面的な回心を求めた活動よりも、社会運動、慈善事業、政治活動、文化活動などに力を入れる傾向があります。

6.科学に対する態度

 科学に対する態度を比較すると、福音派は現代科学の成果に対して懐疑的です。特に福音派は、ダーウィンの進化論との戦いを熾烈にやったことで有名です。福音派は、現代科学の最新の研究成果と聖書の見解が矛盾した場合には、迷うことなく現代科学を否定して聖書を選ぶ人々なのです。

 自由主義の人々が同じ問題に直面したら、「聖書の解釈を現代科学に合うように変えたらいい」と答えます。彼らは現代科学の成果を積極的に評価します。キリスト教も科学の発達に伴って現代化しなければならないという発想をします。

7.世俗社会に対する態度

 現代社会で世俗化が進み、キリスト教的な価値観が薄れていくと、福音派の人々は世間の風潮に対抗して、教会の中だけでも伝統的価値観を守って行こうと決意しました。したがって、フリーセックスや同性愛に対して否定的です。

 一方で自由主義は、世俗社会の潮流に合わせて教会の価値観も変化すべきであると考える傾向にあります。ですから、同性愛に対しても寛容であり、同性愛カップルが教会で結婚式をあげたいと言えば、彼らにも神の祝福を与えます。

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Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ09:2022年8月号


 私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第9回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2022年8月号に寄稿した文章です。

第9講:統一原理の神観について③

 「キリスト教講座」の第9回目です。統一原理の神観について伝統的なキリスト教神学と比較しながら3回にわたって解説しています。今回は神と被造世界の関係という視点からの比較です。

 統一原理の神観の特徴の一つが、「悲しみの神」を強調する点です。神が堕落した我が子である人間たちを見て、嘆き悲しんでおられるということです。実はこのことは、神と被造世界の関係を考える上で重要なポイントとなります。

 「神は悲しんだり後悔したりするか?」という問いかけに対する答えは、聖書をみれば一目瞭然であるように思えます。創世記第6章6節には『主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め』と書いてあり、その後の旧約聖書全体に、神が不信の民イスラエルに幾度となく裏切られ、失望と落胆を繰り返しながら嘆き悲しんでいる言葉が連綿とつづられています。神が悲しんだり後悔したりしているのは周知の事実であり、それができるかどうかというのは愚問ではないかと言いたいところですが、そう単純にいかないのが神学の難しさです。

 なぜなら、伝統的なキリスト教神学には、これとは全く相反する神観があるからです。普通、神とはどんな存在かと聞かれて思い浮かべるのは、唯一絶対、全知全能、完全無欠、第一原因者、といったところです。もしこれが本当なら、神は最初からすべてを知っていて、すべてをコントロールしているはずですから、人間の行動に左右されて後悔したり、嘆き悲しんだりするのは不可能だということになります。

 伝統的な神学において描写されている「哲学的な神」は、人間と親密に交わる人格的な「聖書の神」とは、かなりイメージの異なる「絶対的な超越者」です。それは何かを動かすことはあっても動かされることはなく、他に何かを与えることはあっても与えられることはありません。完全無欠でそれ自体で完結しているので、進歩・発展することもありません。したがって人間を上から一方的に愛することはあっても、人間の行動によって喜んだり、逆に悲しんだりすることもないのです。

 このように「哲学的な神」と「聖書の神」との間には大きな隔たりがあるのですが、どうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。それは伝統的なキリスト教神学が、ギリシア哲学と聖書の思想のブレンドであったことに原因があります。新・旧約聖書は物語や教訓の寄せ集めであり、そこには哲学的体系がありませんでした。最初のうちはそれで十分だったのですが、キリスト教がヘレニズム世界へ広がっていくにつれて、教義を体系的に整えて知的に説明し、さらには正統と異端とを明確に定義する必要が出てきました。その当時、最も進んだ哲学者と言えばプラトンとアリストテレスであったので、神学を組み立てる論理的な骨格として、ギリシア哲学を借用したのです。

 これによってキリスト教神学は学問的に洗練されたわけですが、ギリシア哲学と聖書の神観には大きな隔たりがあったのです。キリシアの哲学者たちが頭の中で思索して生み出した神は、まさしく前の段落で述べたような、宇宙の頂点に君臨する観念的な絶対者でした。そして神と人間の関係は、非人格的で一方通行です。それに対して聖書の神は、ユダヤ民族とクリスチャンたちが苦難の中で信仰を通して出会った、血の通った生きた神の姿であり、神と人間は深く人格的に関り合っています。

 宗教的には、聖書の神の方が魅力的なのは言うまでもありません。しかし哲学者たちは、それを単なる感情表現として片づけてしまい、学問的には洗練されていない価値の低いものとして片隅に追いやってしまいました。その結果として、「哲学の神」が神学の主流になってしまい、冷たく無関心な神のイメージができ上がってしまったのです。

神明先生と著者

筆者が1995年6月にUTSを卒業した際に、当時、総長だった神明忠昭先生と撮影した写真

 しかし現代になってくると、キリスト教神学の生成過程が研究されるなかで、伝統的な神観に対する批判が出てきます。すなわち、ギリシア哲学がキリスト教の神観に影響を与えた結果、聖書の中で表現されている神が本質的に失われてしまって、キリスト教の神観を歪めてしまったということを指摘する神学者が登場するのです。その代表的な神学者の中にアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドやチャールズ・ハーツホーンがおり、彼らは「プロセス神学」という神学を打ち立てて行きます。

 プロセス神学は、神を静的で止まった形でとらえるのではなくて、常に動いている、ダイナミックな存在とする神学です。すべては「プロセス」であるという現代的な哲学に基づいて神学を打ち立てようという、現代神学の新しい流れであると言えます。

 私が統一神学校(UTS)にいたときに組織神学を教えていただいた神明忠明先生という方がいます。この方は、統一神学校の第一期生で、日本人の教会員としては初めて神学博士号を取得した人です。神明先生は、現代神学の中でもこのプロセス神学を統一原理と比較する論文を書いています。そこから分かることは、古典的な神学に比べて、神と被造世界の関係をダイナミックなものとしてとらえた点で、プロセス神学は統一原理に一歩近づいた神学として評価できるということです。

伝統的神学と統一原理ー神と人間の関係

 統一原理は、すべての存在が相対的な関係によって成り立っているという、東洋的な哲学に立脚しているため、神と人間の関係もギリシア哲学に見られるような一方的なものでなく、相互に影響を及ぼし合うダイナミックなものとなります。その根底には、神の最も本質的な属性を「心情」であると捉える独特な神観があります。

 それでは、「心情」とは一体何でしょうか。統一思想によりますと、心情とは「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」であると定義されています。「愛したい」という衝動があっても、相手がいなければ愛にはなりません。したがって、心情はその本性からして「対象の存在」とそれとの「交わり」を追求することになります。さらに、愛すべき対象が失われてしまったり、望んだとおりの交わりが実現されなかったりした場合には、当然神も嘆き悲しむのだということになります。

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Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ08:2022年6月号


 私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第8回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2022年6月号に寄稿した文章です。

第8講:統一原理の神観について②

 「キリスト教講座」の第8回目です。統一原理の神観について伝統的なキリスト教神学と比較しながら3回にわたって解説しています。今回は性相と形状という視点からの比較です。

 統一原理の神観の特徴は、二性性相の神を説いている点です。統一原理においては、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であるとされていますが、伝統的神学においては統一原理で言うような「本形状」を認めません。つまり、神の中に形や物質のような側面があるとは考えず、純粋な心だけ、性相だけの神としてとらえる傾向があります。これは、神が無形であるという思想と結びついています。

 ユダヤ・キリスト教の伝統においては、神が無形であることが非常に強調されています。これは基本的には、ユダヤ教が世界を超越した創造主である神を信じ、その神が偶像崇拝を禁じて自分の像を刻んではならないと命じたことに原因があるのですが、キリスト教神学ではこれにさらに拍車がかけられています。それはキリスト教神学がギリシア哲学の影響を強く受けたからで、プラトンの「善のイデア」の概念や、アリストテレスによる世界の究極的原因者としての「不動の動者」の概念が、聖書の神と同一視されてそのまま導入されたためです。

 ギリシアの哲学者たちは、純粋に観念的なものだけが永遠かつ本質的なもので、物質的なものは千変万化する刹那的かつ非本質的なものであると考えていました。この物質に対する蔑視がキリスト教にも受け継がれたために、神は全く非物質的なものと考えられるようになったのです。

 もっとも、ギリシア哲学の影響を受ける以前のキリスト教にも、そのような素地はありました。それはグノーシス主義の影響です。グノーシス主義とは、霊的なものは善で肉的・物質的なものは悪であるという極端な霊肉二元論を説く初期キリスト教のセクトのことです。このセクトは、物質を創造した旧約聖書の神は、イエスの説いた神とは異なる「悪なる神」であるという教えを説いたので、正統教会から異端として断罪されました。

 しかしながら今日では、霊肉を鋭く対立させる思想を展開しているパウロの手紙やヨハネによる福音書は、グノーシス主義の影響を受けていたと指摘する学者もいます。それが歴史的な事実であるかどうかは別としても、新約聖書の中には肉体や物質に対するネガティブな描写があるのは事実です。したがって、神は物質とは無縁のものであると考えるのも無理はないのです。

プラトン・アリストテレス・アクィナス

 中世になると、キリスト教神学はアリストテレスの影響を受けるようになります。アリストテレスの哲学によれば、すべての存在は「形相」と「質料」という二つの要素から成っているとされます。この「形相」というのは、例えば粘土で人形を造ろうとすれば、まず頭の中でどんな形にするか構想を練らなければなりませんが、その具体的な作品になる前の「アイデア」のことです。一方「質料」というのは、その人形の素材となる粘土のことです。アイデアだけでは実体としての人形は存在しえず、材料の粘土だけでも作品はできません。したがってすべての存在はこの「形相」と「質料」の二つが合わさって、初めて「存在」たり得るというわけです。

 この「質料形相論」はトマス・アクィナスなどのスコラ哲学者によってキリスト教神学の存在論としてそのまま導入されたのですが、彼らは神だけはこの存在論の例外で、質料のない「純粋形相」であると主張したのです。その理由は「形相」が永遠不変であるのに対し、「質料」は可変的なものであることから、神が永遠不変の存在であるためには「質料」すなわち物質的な要素があってはならないというのです。こうして神は形とともに物質的側面も奪われてしまいました。

 しかし、原因者である神に物質的要素がないのに、なぜ結果的存在である被造物には物質的要素があるのでしょうか。神の外に物質の原因となった素材があったとすれば、二元論に陥ってしまいます。神が御自身の本質から被造世界を造った(これを「流出説」という)とすれば一元論は保たれますが、非物質的な神から物質的な世界が出現したという説明は苦しいし、これでは神と被造物の存在論的な区別がなくなってしまうから「汎神論」に陥ってしまう危険があるとして、キリスト教はこの思想に否定的な見解を示しました。

 結果として登場したのが「無からの創造説」というもので、これはまったく何もないところから神が一声かけると、突然魔法のように被造物が出現した、という便利な教説です。しかし、因果律の連鎖をたどって行けば最終的に第一原因者である神に行き着くと主張しているわりには、こと「物質」のこととなると、とたんにその因果律が分断されてしまうというのは不徹底ではないでしょうか。

伝統的神学と統一原理ー性相と形状

 その点、統一原理は首尾一貫しています。統一原理にはアリストテレスの「形相」と「質料」と全く同じではないけれどもかなり近い概念があります。それが「性相」と「形状」です。すべての被造物に「性相」と「形状」という二面性があるからには、その原因者である神ご自身の中にもより根本的な「性相(本性相)」と「形状(本形状)」がなければならないと主張しているのです。したがって、神は物質的な側面においても我々の原因者であり、因果律は分断されていないのです。

 アリストテレスの質料形相論と、統一原理の性相と形状の二性性相の違いを簡単に説明すれば、前者が二元論的に分断された概念であるのに対して、後者はあくまでも「同一存在の両側面」であり、完全に分断しきれない関係にあるという点です。実はギリシア哲学の影響を受けたキリスト教の神観から物質的な要素が排除された背景には、このように精神的なものと物質的なものを鋭く分断する「二元論的偏見」があるのです。性相と形状をあくまで相対的関係とする二性性相の思想からは、神から物質的な側面を排除しようというような不自然な発想は出てきません。

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Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ07:2022年4月号


 私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第7回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2022年4月号に寄稿した文章です。

第7講:統一原理の神観について①

 「キリスト教講座」の第7回目です。今回から統一原理の神観について伝統的なキリスト教神学と比較しながら3回にわたって解説します。今回は陽性と陰性という視点からの比較です。

 神は男性なのか女性なのかという一見単純な問いかけは、現代キリスト教においては大きな問題となっています。多神教の文化圏においては男女両方の神々が存在し得るわけですが、一神教の場合にはどちらか一方に性別を決定しなければなりません。伝統的なキリスト教においては神は「父」であり、男性格でした。さらに、神が男性であるがゆえにキリストであるイエスは男性であったし、神とキリストの代身である教皇・司祭・牧師もまた男性でなければならないとされてきたのです。

 いまでもカトリックにおいては女性はシスター(尼僧)にはなれますが、司祭になることはできません。これは男性でなければキリストの代身となれないし、神の代身となれないという考え方です。しかし女性解放運動が誕生して以来、あらゆる領域における男性中心主義に対して批判が高まり、それはいまや神学の領域にまで浸透してきています。

 伝統的な神学における男性中心主義に対する反発として、「フェミニスト神学」と呼ばれるものが20世紀に入って登場するようになり、既成の神学の中にある男性中心主義を批判克服していこうとしました。「伝統的なキリスト教の神観は、男性中心社会の産物である。神学も文化の影響をまぬがれ得ず、神概念にはその時代や社会において価値視されているものが投影されている」と言ったわけです。

 フェミニスト神学は、主にプロテスタントや聖公会などに大きな影響を及ぼしました。具体的には、それまで男性しか牧師になれなかったような教団においても、女性が牧師として叙階される権利を勝ち取っていったわけです。しかし、これは伝統に逆らうことであるので、古い伝統のある神学ほど抵抗を示します。保守的な教団の代表であるカトリックにおいては、神学の修正は難しく、いまだに女性司祭の道は開かれていません。

 しかし一方で、男性中心主義だと言われるカトリックの信仰の中身をよく見ていくと、女性神のイメージが潜んでいることが分かります。カトリックには聖母マリヤを慕うという伝統があります。聖母マリヤは神学的には神ではありませんが、信徒たちの信仰生活においては女性神と同じような役割を果たしてきたとみることができるのです。

書物の聖母

サンドロ・ポッティチェッリ作『書物の聖母』(1481~82年

 教会のイコンや聖画によく出てくるモチーフが「聖母子像」ですが、その中ではイエス・キリストは幼子として描かれていて、それよりもさらに大きな存在として聖母マリヤが描かれています。ですから信仰生活上の実感としては、ほぼ女神に等しい立場で聖母マリヤが扱われていることが分かります。ヨーロッパの教会に行けば、大抵は礼拝堂の一番奥の中央に十字架が掲げられています。しかし祭壇は一個だけではなくて、両脇に祭壇がたくさん並んでいて、人々はそこにロウソクを捧げて、願い事を聞いてくれるように祈る慣習があります。その中で最も人気が高いのが、聖母マリヤの祭壇なのです。

 すなわち、表向きの神学では神の中に女性的な性質を認めていないのですが、神の中に女性的な要素を求めるのは人間の本性から来るものであるため、神が男としてのみ表現されていると、どうしても満足できないのです。そこで、それを補うかのような宗教的表現を生み出すのですが、カトリックにおいてはその役割を聖母マリヤが果たしているというわけです。

 特に罪深い堕落人間においては、厳しいお父さんのところよりは優しいお母さんのところに行きたいという思いが強くなり、マリヤ様の方が許してくれそうだ、慰めてくれそうだということで、母性や慈愛を求めて人々が群がっていく傾向があります。ある意味ではイエス様よりもマリヤ様の方が人気があるのです。これは女性神を求める人間の本性が、少し歪んだ形で表現されているのだと思います。

伝統的神学と統一神学

 こうした人間の宗教的経験から、「父母としての神」を求めていることが分かりますが、伝統的な神学はそれをはっきりとは表現できませんでした。しかし統一原理は、神は父母であるということを神学的にもはっきりと言っているのです。統一原理は、神ご自身が陽陰の二性性相の神であると言っています。これは完璧に男女両方の性質を有する唯一神を提示しているという点において、画期的な神学なのです。

 もし神が親であり、それが父親としての側面しかもたないなら、人類はみな片親しか持たない子供になってしまいます。ちょうど家庭において父親の厳愛と母親の慈愛のバランスによって子供が健全に育つように、神の愛にも父性的な愛と母性的な愛の両方が必要なのです。したがって、神を男性としてしか表現していない既存の神学は、片手落ちだということになります。

 さて、陽陰の二性性相とフェミニスト神学の関係についてですが、フェミニスト神学は神の女性性を発見した、あるいは強調したという点においては、現代神学の中で統一原理に一歩近づいた現象であるということができるかもしれません。しかし、統一原理が直接フェミニスト神学の影響を受けたということではありません。なぜなら、両者は発生した時代も国も異なっているからです。

 フェミニスト神学自体は1960年代の後半から、主に先進国であるアメリカで、ウーマンリブ運動の高まりの中で広まっていった神学です。それに対して統一原理は、もっと早い1950年代におよそウーマンリブとは関係のない韓国の地において生まれたのですから、両者に直接の関係があるわけではありません。

 両者の関係を整理すれば、統一原理は最終的な神の啓示なので、完全な神の姿を示しているということになります。それに対してフェミニスト神学は、既成の神学の偏りを修正することにより、最終的な神の啓示である統一原理の一部を断片的に証しする役割を果たした、現代神学の現象の一つであるということになります。

カテゴリー: Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ

Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ06:2022年2月号


 私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第6回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2022年2月号に寄稿した文章です。

第6講:キリスト教と日本人④

 「キリスト教講座」の第6回目です。「キリスト教と日本人」の最終回で、第二次世界大戦の終了から現代にいたるまでの日本基督教史を扱います。

 1945年に終戦を迎えると日本の国内事情は一変し、信教の自由が広く認められるようになります。1946年には日本国憲法が公布され、その第20条で信教の自由が保障されると同時に、政教分離の原則が規定されました。そして1951年には「宗教法人法」が制定されます。この法律は、戦前の「宗教団体法」が宗教を規制しすぎたことに対する反省に立ち、宗教活動をしやすくするために宗教団体に法人格を与えることを目的とした法律とされています。

 戦後の日本は、キリスト教の拡大にとっては歴史上かつてないほどの恵まれた環境であり、それが実に76年間にわたって長く続いてきました。本来ならばキリスト教が爆発的に伸びてもおかしくないわけですが、実際にはどうだったのでしょうか。戦後GHQはキリスト教の伝道を全面的に支援し、多くの宣教師が来日しました。その結果、1950年代には信者数が大きな伸びを示したのですが、1960年代以降はふたたび停滞し始め、いまだに人口の1%を超えていないというのがキリスト教の現状です。戦後日本のキリスト教人口は、総人口の0.7%になるまでは順調に伸びたのですが、それ以降は0.8%程度で伸び悩むようになります。そして2008年以降は数の上でも、人口比の上でも減少局面に入ってしまいました。

戦後日本のキリスト教人口の推移

 現在日本のキリスト教の中で最も大きな団体は、約40万人の信徒を抱えるカトリック教会です。プロテスタント諸派を全部集めても50万人程度であり、その中で最も大きな団体である日本基督教団の信徒数は11万人程度にすぎません。日本ハリストス正教会はもともと小さかったのですが、1万人を切っています。

 これらは「正統」と呼ばれるキリスト教会の数値ですが、実は文化庁が発行している『宗教年鑑』の中で、信徒数の多いプロテスタント教会は末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)であり、12万人を超えています。一方で「エホバの証人」の信者は日本に21万人いると言われています。日本においては「正統」を自認する日本基督教団が、自分よりも大きなモルモン教やエホバの証人を「異端」と呼んでいるという状況なのです。

 それではなぜ戦後日本のキリスト教は伸びなかったのでしょうか。戦後の日本のキリスト教の問題点を第一にあげるとすれば、戦前に権力に屈したことに対する反省から、急速に反権力、反天皇主義に傾斜していったことです。この反権力や反天皇と非常に思想的に相性が良いのが左翼です。ですから、共産党や旧社会党などと結び付いて反靖国運動などを展開し、キリスト教が左傾化していくということが起こりました。

赤岩栄著作

赤岩栄牧師の著書『キリスト教と共産主義』

 左傾化する日本キリスト教界を象徴する事件が、1949年に起きた赤岩栄牧師の「共産党入党宣言」でした。彼は、理論的にも実践的にもキリスト教と共産主義とが両立しうると主張して、日本基督教団の牧師のままで共産党入党宣言を行ったのです。最終的には教団幹部の説得により入党を思いとどまりましたが、「信仰はキリスト教、実践は共産主義」を主張して、教団を分裂させることになります。

 1960年代・70年代の安保闘争は、日本基督教団の神学校である東京神学大学にも影響を及ぼすようになり、1970年には「反万博闘争」と呼ばれる学内紛争が起こります。これに対し、東神大教授会は機動隊を投入して社会派の学生を排除しました。これが「社会派」と「教会派」という日本基督教団内の紛争に発展し、特に1971年5月の東京教区総会は、乱闘、流血の事態になりました。その後、社会派のキリスト教は、反靖国運動、天皇制反対運動、部落差別反対運動、反核運動など、左翼勢力の好む社会的テーマを追求することにより、完全に共産主義に乗っ取られてしまう形になります。

 共産主義や社会主義はもともと唯物論ですから、そういうものと結びついてしまうとキリスト教が持っている本来の霊性が失われてしまいます。しかも、日本基督教団を挙げて反統一教会活動に取り組むことを1988年に決議するなど、日本のキリスト教会は完全に神の御旨に反する方向に向かってしまいました。環境が恵まれているにもかかわらず信徒が増えないということは、キリスト教自体が失敗したと考えるほかありません。基本的には、共産主義にやられてしまったということが、大きな失敗であるわけです。

 日本のキリスト教が伸びなかったもう一つの理由として、「土着化」に失敗したことがあげられます。西洋からやってきた宗教であるキリスト教が文化的な壁を越えて、日本人が受け入れられるようなキリスト教になることを「土着化」といいますが、この努力を十分にしてこなかったということです。

 キリスト教はエリート主義で、日本文化との融合を嫌い、先祖供養に代表されるような日本の土着の文化を否定してきたのです。日本人にとって先祖を敬い供養するということは宗教の中心です。しかし、キリスト教は先祖供養に対して神学的意味を何も見いだしませんでした。ですから先祖を大切にする日本人にとって、キリスト教は大変受け入れがたいものだったわけです。

 家庭連合は、東洋に土着化したキリスト教であると言えます。韓国という東洋の同じような文化圏の国で生まれたキリスト教なので、日本で成功する余地があったのです。たとえば陽陰の思想、家庭を大切にする思想、再臨復活を通して先祖が救われるという教えは、既存のキリスト教にはないとても東洋的な部分です。

 日本のキリスト教が失敗してきた内容を蕩減復帰する使命が家庭連合にはあります。したがって、キリスト教が左翼にやられてしまった失敗を蕩減復帰するために、家庭連合は共産主義と闘うキリスト教でなければなりません。次に土着化に失敗したことを蕩減復帰するために、日本文化とキリスト教を融合させるということも、家庭連合の大きなテーマになるのです。

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