Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ07:2022年4月号


 私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第7回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2022年4月号に寄稿した文章です。

第7講:統一原理の神観について①

 「キリスト教講座」の第7回目です。今回から統一原理の神観について伝統的なキリスト教神学と比較しながら3回にわたって解説します。今回は陽性と陰性という視点からの比較です。

 神は男性なのか女性なのかという一見単純な問いかけは、現代キリスト教においては大きな問題となっています。多神教の文化圏においては男女両方の神々が存在し得るわけですが、一神教の場合にはどちらか一方に性別を決定しなければなりません。伝統的なキリスト教においては神は「父」であり、男性格でした。さらに、神が男性であるがゆえにキリストであるイエスは男性であったし、神とキリストの代身である教皇・司祭・牧師もまた男性でなければならないとされてきたのです。

 いまでもカトリックにおいては女性はシスター(尼僧)にはなれますが、司祭になることはできません。これは男性でなければキリストの代身となれないし、神の代身となれないという考え方です。しかし女性解放運動が誕生して以来、あらゆる領域における男性中心主義に対して批判が高まり、それはいまや神学の領域にまで浸透してきています。

 伝統的な神学における男性中心主義に対する反発として、「フェミニスト神学」と呼ばれるものが20世紀に入って登場するようになり、既成の神学の中にある男性中心主義を批判克服していこうとしました。「伝統的なキリスト教の神観は、男性中心社会の産物である。神学も文化の影響をまぬがれ得ず、神概念にはその時代や社会において価値視されているものが投影されている」と言ったわけです。

 フェミニスト神学は、主にプロテスタントや聖公会などに大きな影響を及ぼしました。具体的には、それまで男性しか牧師になれなかったような教団においても、女性が牧師として叙階される権利を勝ち取っていったわけです。しかし、これは伝統に逆らうことであるので、古い伝統のある神学ほど抵抗を示します。保守的な教団の代表であるカトリックにおいては、神学の修正は難しく、いまだに女性司祭の道は開かれていません。

 しかし一方で、男性中心主義だと言われるカトリックの信仰の中身をよく見ていくと、女性神のイメージが潜んでいることが分かります。カトリックには聖母マリヤを慕うという伝統があります。聖母マリヤは神学的には神ではありませんが、信徒たちの信仰生活においては女性神と同じような役割を果たしてきたとみることができるのです。

書物の聖母

サンドロ・ポッティチェッリ作『書物の聖母』(1481~82年

 教会のイコンや聖画によく出てくるモチーフが「聖母子像」ですが、その中ではイエス・キリストは幼子として描かれていて、それよりもさらに大きな存在として聖母マリヤが描かれています。ですから信仰生活上の実感としては、ほぼ女神に等しい立場で聖母マリヤが扱われていることが分かります。ヨーロッパの教会に行けば、大抵は礼拝堂の一番奥の中央に十字架が掲げられています。しかし祭壇は一個だけではなくて、両脇に祭壇がたくさん並んでいて、人々はそこにロウソクを捧げて、願い事を聞いてくれるように祈る慣習があります。その中で最も人気が高いのが、聖母マリヤの祭壇なのです。

 すなわち、表向きの神学では神の中に女性的な性質を認めていないのですが、神の中に女性的な要素を求めるのは人間の本性から来るものであるため、神が男としてのみ表現されていると、どうしても満足できないのです。そこで、それを補うかのような宗教的表現を生み出すのですが、カトリックにおいてはその役割を聖母マリヤが果たしているというわけです。

 特に罪深い堕落人間においては、厳しいお父さんのところよりは優しいお母さんのところに行きたいという思いが強くなり、マリヤ様の方が許してくれそうだ、慰めてくれそうだということで、母性や慈愛を求めて人々が群がっていく傾向があります。ある意味ではイエス様よりもマリヤ様の方が人気があるのです。これは女性神を求める人間の本性が、少し歪んだ形で表現されているのだと思います。

伝統的神学と統一神学

 こうした人間の宗教的経験から、「父母としての神」を求めていることが分かりますが、伝統的な神学はそれをはっきりとは表現できませんでした。しかし統一原理は、神は父母であるということを神学的にもはっきりと言っているのです。統一原理は、神ご自身が陽陰の二性性相の神であると言っています。これは完璧に男女両方の性質を有する唯一神を提示しているという点において、画期的な神学なのです。

 もし神が親であり、それが父親としての側面しかもたないなら、人類はみな片親しか持たない子供になってしまいます。ちょうど家庭において父親の厳愛と母親の慈愛のバランスによって子供が健全に育つように、神の愛にも父性的な愛と母性的な愛の両方が必要なのです。したがって、神を男性としてしか表現していない既存の神学は、片手落ちだということになります。

 さて、陽陰の二性性相とフェミニスト神学の関係についてですが、フェミニスト神学は神の女性性を発見した、あるいは強調したという点においては、現代神学の中で統一原理に一歩近づいた現象であるということができるかもしれません。しかし、統一原理が直接フェミニスト神学の影響を受けたということではありません。なぜなら、両者は発生した時代も国も異なっているからです。

 フェミニスト神学自体は1960年代の後半から、主に先進国であるアメリカで、ウーマンリブ運動の高まりの中で広まっていった神学です。それに対して統一原理は、もっと早い1950年代におよそウーマンリブとは関係のない韓国の地において生まれたのですから、両者に直接の関係があるわけではありません。

 両者の関係を整理すれば、統一原理は最終的な神の啓示なので、完全な神の姿を示しているということになります。それに対してフェミニスト神学は、既成の神学の偏りを修正することにより、最終的な神の啓示である統一原理の一部を断片的に証しする役割を果たした、現代神学の現象の一つであるということになります。

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