私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第10回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2022年10月号に寄稿した文章です。
第10講:自然神学と啓示神学①:福音派と自由主義
「キリスト教講座」の第10回目です。今回から、「自然神学と啓示神学」という組織神学の本質的なテーマについて解説します。これはキリスト教神学全体の中での統一原理の立ち位置を理解する上で重要なテーマとなりますが、今回はその前提として福音派と自由主義の違いについて解説します。
現代のプロテスタント教会は、福音派と自由主義という二大潮流に分かれています。聖書を文字通りに解釈し信仰的にとらえようという傾向の強い教派を総称して「福音派」と呼んでいます。一方で自由主義またはリベラルと呼ばれるキリスト教は、聖書を文字通りにとらえるのではなく、より現代的で自由な解釈をしようとする教派のことです。
1.聖書観の違い
福音派とリベラルを分けている最も根本的な違いは、聖書に対する考え方です。福音派は聖書は神から与えられた完全な啓示であり、すべて字義通りの真理であるととらえています。したがって、聖書の批評学的研究を不信仰として否定します。根本主義や逐語霊感説は、福音派内のさらに極端な立場となります。
一方で自由主義は、聖書に対してもう少し現代的な見方をします。聖書は最も重要な真理の源泉ではあるけれども、無謬の書ではなく、時代的・文化的制約を受けているので、現代には通用しない内容が含まれているととらえます。聖書は科学が発達する以前に書かれたものなので、それを現代人が文字通りに信じることはできず、現代的解釈が必要だと考えるのです。そのため、聖書の批評学的研究も肯定的に評価します。
2.キリスト観の違い
福音派のキリスト観は次のようなものです。キリストは人類の罪を身代わりとなって引き受けた超人間的存在であり、奇跡的出来事である処女懐胎、死人の復活、病気の治癒などが、聖書の記述通り実際に起こったと信じます。キリストは、罪人である私たちとは全くかけ離れた、神に等しい存在であり、その方が十字架にかかって亡くなってくださったことによって、人類の罪が許されるという贖罪論が成り立つのです。
それに対して自由主義のキリスト教は、キリストの神性をさほど強調せず、むしろ模範的な人間として理解します。隣人のために自分の命を投げ捨てたその愛にこそ、人類の歩むべき道が示されており、人間の見本であるととらえています。キリストにまつわる奇跡的な出来事に関しては、キリストを神格化するための物語として懐疑的にとらえています。
3.人間観の違い
福音派は、原罪や人間の本来的な罪深さを強調する傾向にあります。原罪によって人間は真っ黒に汚れているので、善を行う力は一切ないととらえています。そのような人間が理性を働かせて善を行おうとしても無駄なので、人間の理性の価値を否定する傾向にあります。したがって、教育よりも回心や救いを強調します。人間は罪深いので、キリストの恵みによってしか救われないという価値観があるのです。
一方で自由主義は、それほど暗い人間観を持っていません。人間には善を行う力も残っているととらえ、理性を肯定的に評価する傾向にあります。人間は理性によって正しい判断をすることが可能なので、教育が重要であると言います。原理的に言うと、福音派が原罪や堕落性本性を中心として人間を理解しているのに対して、自由主義は堕落人間にも残されている創造本性を中心として人間を理解しているということになります。
4.他宗教に対する態度
福音派は、神の啓示は聖書にのみ記されていると信じているので、基本的に他宗教の価値は一切認めません。コーランの中にも仏典の中にも、神の啓示は一切含まれていないという、極めて排他的な立場をとります。したがって、他の宗教と対話をしようとはしません。
それに対して自由主義は、神の啓示は聖書にのみ限定されないという立場なので、他宗教の価値を認め、対話しようとする傾向にあります。他宗教に対するより寛容な心を持っているのが自由主義ということになります。
5.救済観の違い
福音派は、個人的な救いの体験、回心や清めの体験、その中でも「新生体験」と呼ばれる、自分が生まれ変わったという体験を非常に重要視します。さらに、聖書に書かれている最後の審判や、天国と地獄を文字通りあるととらえます。ヨハネの黙示録に出てくる千年王国の到来や「ハルマゲドン」が間近であると信じる教派も多く見られます。
一方で自由主義のキリスト教は、個人の劇的な救いの体験というものはあまり重要視しません。そして聖書に出てくる最後の審判や、天国と地獄といった内容に対しても懐疑的で、ある種の象徴としてしかとらえていません。幼児以来、家庭環境の中で自然に信徒になった者が多く、宗教を倫理としてとらえる傾向にあります。
こうした違いが、信仰活動の違いにも表れてきます。福音派は、聖書学習会、祈祷会、伝道集会などを積極的に展開し、個人の回心を求める活動を積極的に行います。それに対して自由主義は、個人の内面的な回心を求めた活動よりも、社会運動、慈善事業、政治活動、文化活動などに力を入れる傾向があります。
6.科学に対する態度
科学に対する態度を比較すると、福音派は現代科学の成果に対して懐疑的です。特に福音派は、ダーウィンの進化論との戦いを熾烈にやったことで有名です。福音派は、現代科学の最新の研究成果と聖書の見解が矛盾した場合には、迷うことなく現代科学を否定して聖書を選ぶ人々なのです。
自由主義の人々が同じ問題に直面したら、「聖書の解釈を現代科学に合うように変えたらいい」と答えます。彼らは現代科学の成果を積極的に評価します。キリスト教も科学の発達に伴って現代化しなければならないという発想をします。
7.世俗社会に対する態度
現代社会で世俗化が進み、キリスト教的な価値観が薄れていくと、福音派の人々は世間の風潮に対抗して、教会の中だけでも伝統的価値観を守って行こうと決意しました。したがって、フリーセックスや同性愛に対して否定的です。
一方で自由主義は、世俗社会の潮流に合わせて教会の価値観も変化すべきであると考える傾向にあります。ですから、同性愛に対しても寛容であり、同性愛カップルが教会で結婚式をあげたいと言えば、彼らにも神の祝福を与えます。