Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ08:2022年6月号


 私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第8回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2022年6月号に寄稿した文章です。

第8講:統一原理の神観について②

 「キリスト教講座」の第8回目です。統一原理の神観について伝統的なキリスト教神学と比較しながら3回にわたって解説しています。今回は性相と形状という視点からの比較です。

 統一原理の神観の特徴は、二性性相の神を説いている点です。統一原理においては、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であるとされていますが、伝統的神学においては統一原理で言うような「本形状」を認めません。つまり、神の中に形や物質のような側面があるとは考えず、純粋な心だけ、性相だけの神としてとらえる傾向があります。これは、神が無形であるという思想と結びついています。

 ユダヤ・キリスト教の伝統においては、神が無形であることが非常に強調されています。これは基本的には、ユダヤ教が世界を超越した創造主である神を信じ、その神が偶像崇拝を禁じて自分の像を刻んではならないと命じたことに原因があるのですが、キリスト教神学ではこれにさらに拍車がかけられています。それはキリスト教神学がギリシア哲学の影響を強く受けたからで、プラトンの「善のイデア」の概念や、アリストテレスによる世界の究極的原因者としての「不動の動者」の概念が、聖書の神と同一視されてそのまま導入されたためです。

 ギリシアの哲学者たちは、純粋に観念的なものだけが永遠かつ本質的なもので、物質的なものは千変万化する刹那的かつ非本質的なものであると考えていました。この物質に対する蔑視がキリスト教にも受け継がれたために、神は全く非物質的なものと考えられるようになったのです。

 もっとも、ギリシア哲学の影響を受ける以前のキリスト教にも、そのような素地はありました。それはグノーシス主義の影響です。グノーシス主義とは、霊的なものは善で肉的・物質的なものは悪であるという極端な霊肉二元論を説く初期キリスト教のセクトのことです。このセクトは、物質を創造した旧約聖書の神は、イエスの説いた神とは異なる「悪なる神」であるという教えを説いたので、正統教会から異端として断罪されました。

 しかしながら今日では、霊肉を鋭く対立させる思想を展開しているパウロの手紙やヨハネによる福音書は、グノーシス主義の影響を受けていたと指摘する学者もいます。それが歴史的な事実であるかどうかは別としても、新約聖書の中には肉体や物質に対するネガティブな描写があるのは事実です。したがって、神は物質とは無縁のものであると考えるのも無理はないのです。

プラトン・アリストテレス・アクィナス

 中世になると、キリスト教神学はアリストテレスの影響を受けるようになります。アリストテレスの哲学によれば、すべての存在は「形相」と「質料」という二つの要素から成っているとされます。この「形相」というのは、例えば粘土で人形を造ろうとすれば、まず頭の中でどんな形にするか構想を練らなければなりませんが、その具体的な作品になる前の「アイデア」のことです。一方「質料」というのは、その人形の素材となる粘土のことです。アイデアだけでは実体としての人形は存在しえず、材料の粘土だけでも作品はできません。したがってすべての存在はこの「形相」と「質料」の二つが合わさって、初めて「存在」たり得るというわけです。

 この「質料形相論」はトマス・アクィナスなどのスコラ哲学者によってキリスト教神学の存在論としてそのまま導入されたのですが、彼らは神だけはこの存在論の例外で、質料のない「純粋形相」であると主張したのです。その理由は「形相」が永遠不変であるのに対し、「質料」は可変的なものであることから、神が永遠不変の存在であるためには「質料」すなわち物質的な要素があってはならないというのです。こうして神は形とともに物質的側面も奪われてしまいました。

 しかし、原因者である神に物質的要素がないのに、なぜ結果的存在である被造物には物質的要素があるのでしょうか。神の外に物質の原因となった素材があったとすれば、二元論に陥ってしまいます。神が御自身の本質から被造世界を造った(これを「流出説」という)とすれば一元論は保たれますが、非物質的な神から物質的な世界が出現したという説明は苦しいし、これでは神と被造物の存在論的な区別がなくなってしまうから「汎神論」に陥ってしまう危険があるとして、キリスト教はこの思想に否定的な見解を示しました。

 結果として登場したのが「無からの創造説」というもので、これはまったく何もないところから神が一声かけると、突然魔法のように被造物が出現した、という便利な教説です。しかし、因果律の連鎖をたどって行けば最終的に第一原因者である神に行き着くと主張しているわりには、こと「物質」のこととなると、とたんにその因果律が分断されてしまうというのは不徹底ではないでしょうか。

伝統的神学と統一原理ー性相と形状

 その点、統一原理は首尾一貫しています。統一原理にはアリストテレスの「形相」と「質料」と全く同じではないけれどもかなり近い概念があります。それが「性相」と「形状」です。すべての被造物に「性相」と「形状」という二面性があるからには、その原因者である神ご自身の中にもより根本的な「性相(本性相)」と「形状(本形状)」がなければならないと主張しているのです。したがって、神は物質的な側面においても我々の原因者であり、因果律は分断されていないのです。

 アリストテレスの質料形相論と、統一原理の性相と形状の二性性相の違いを簡単に説明すれば、前者が二元論的に分断された概念であるのに対して、後者はあくまでも「同一存在の両側面」であり、完全に分断しきれない関係にあるという点です。実はギリシア哲学の影響を受けたキリスト教の神観から物質的な要素が排除された背景には、このように精神的なものと物質的なものを鋭く分断する「二元論的偏見」があるのです。性相と形状をあくまで相対的関係とする二性性相の思想からは、神から物質的な側面を排除しようというような不自然な発想は出てきません。

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