櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第209回目である。
第四刷にあたって加筆された「まえがき」について、以下に順を追って論評する。
「1 安倍元首相銃撃事件」で櫻井氏が述べていることは、新聞やテレビなどのメディアが一般的に報じていることをまとめただけであり、特に新しい情報や独自の情報はない。「2 容疑者家族と統一教会の接点」の内容も同様だが、注目すべきは山上被告の犯行の動機になったとされている、2021年9月12日にUPF主催の「THINK TANK 2022希望前進大会」に寄せられた安倍元首相のビデオメッセージに関する記述である。大多数の国民は、山上被告が事件を起こすまでは、このビデオメッセージの存在を知らなかった。しかし、山上被告はネット上で「この春にメッセージを見た」(朝日新聞2022年7月15日付)という。
櫻井氏はさらに、このビデオメッセージに対して2021年9月17日付で「衆議院議員安倍晋三先生へ」と題した公開抗議文が全国霊感商法弁護士連絡会(全国弁連)から送付され、「これを統一教会が広く宣伝に使うことは必至です」(p.IV)と警告したことを紹介している。櫻井氏の著作では触れていないが、「やや日刊カルト新聞」でも鈴木エイト氏がこのビデオメッセージを批判的に取り上げている。要は、このメッセージの存在を知って喰いついていたのは、統一教会に反対する勢力であったということだ。
事実としては、「これを統一教会が広く宣伝に使うことは必至です」という全国弁連の警告とは裏腹に、統一教会もUPFもこのビデオメッセージについて一般社会に広く宣伝することはなかった。結果として大部分の一般大衆は安倍氏とUPFの関係についても、ビデオメッセージについても、事件が起こるまでは何も知らなかったのである。
しかし、このことに強い関心をいだいていたのが全国弁連や鈴木エイト氏をはじめとする統一教会反対派勢力である。山上被告は「やや日刊カルト新聞」の愛読者であり、鈴木エイト氏に個人メッセージを送っていたことが知られているとおり、彼を刺激したのは、広く一般社会に流布していた情報ではなく、こうした反統一教会ネットワークから得られた情報であったということだ。
犯行から2年以上が過ぎたいま、あらためて問われるべきは、山上被告を犯行に駆り立てたものは何だったのかということだ。少なくともそれは、事件以前に世間一般に流布していた情報ではない。世間の多くの人々は、UPFと安倍元首相に接点があることなど知りもしなかった。一方で統一教会に対して激しい敵意を抱く全国弁連や鈴木エイト氏などの統一教会反対派はこのことを問題視し、情報を拡散しようとしていた。山上被告はそうした情報に刺激されて犯行に及んだとみるのが自然であろう。
「3 被害者家族の苦難と二世信者の困難」では、「宗教二世」の問題が取り上げられている。これは第一刷では取り上げられなかった問題であるため、櫻井氏は改めて第四刷のまえがきで触れざるを得なかったのであろう。そもそも「宗教二世」というネーミングはNHKが2021年ごろから広めたものであり、第一刷が発行された2010年にはまだ存在しない言葉であった。
事件後、小川さゆり(仮名)が「宗教二世」のアイコン的存在となり、『小川さゆり、宗教2世』(小学館、2023年)という自伝的著作が出版されるまでになった。「宗教2世」についてWikipediaが、「家族(両親など)が宗教を信仰している家庭で生まれ育ち、家族(両親など)の意思で誕生時や幼少期から宗教に入信させられている人々」と説明しているように、この言葉は不本意ながら信仰を強制されている人々というニュアンスで使われている。さらに統一教会の「宗教二世」は、多額の献金と貧困、ネグレクト、生きづらさ、などのネガティブなイメージで語られることが多い。これは櫻井氏の著作の中でも「残念ながら子ども達はまさしく不本意な人生に変えられたのだ」(p.V)と記述されている通りである。「親ガチャ」(p.VII)という侮蔑的な表現にも彼の本音が表れている。
一方で統一教会の内部用語に「祝福二世」という言葉がある。これは「祝福家庭から生まれた原罪のない子女」という意味であり、極めてポジティブで誇るべき立場として理解されている。その結果、統一教会の二世たちは、一般社会からの「宗教二世」という評価と、教会内部での「祝福二世」という評価の狭間で悩んだり苦しんだりするようになる。
私自身は、「宗教二世」という言葉は多くの問題があり、使うべきではないと考えている。なぜなら、特定宗教の信仰を持った家に生まれること自体が問題であるかのように捉えられ、出自による差別や偏見を助長する恐れがあるからだ。それでなくても、人類の歴史は宗教的出自による差別の例に満ちている。ユダヤ人の家庭に生まれたというだけで迫害の対象になったのは、それほど遠い昔の話ではない。
ここで「二世」という表現が意味するものについて深掘りしてみたい。つまり、なぜ宗教「二世」問題と言われるのに、「三世」「四世」問題とは言われないのかということだ。Wikipediaが言うように、「家族(両親など)が宗教を信仰している家庭で生まれ育ち、家族(両親など)の意思で誕生時や幼少期から宗教に入信させられている人々」という意味であれば、伝統宗教を先祖代々信じている人々も含まれるはずだ。キリスト教で幼児洗礼を受けた人などは、この定義によればまさに「宗教二世」であろう。
ここで、親から子供に信仰を継承すること自体はまったくノーマルであることを大前提として押さえておきたい。伝統的社会における親から子への信仰相続は「社会化」と同じプロセスであった。そもそも、伝統宗教と一般社会の規範の間には緊張関係がない。信仰は生活の一部であり、しかも通常は究極的関心ではない。仏教の檀家は「家の宗教」であり、神社の氏子も先祖から受け継ぐものである。イスラムでは子供が信仰を相続するのは義務であり、他宗教への改宗は死刑に値する。こうした社会では、「宗教二世」どころか「宗教三世」も「宗教四世」も当たり前の話であり、問題視されることはない。
しかし、信教の自由が保障された現代社会においては、子どもにも宗教の選択権がある。それゆえに親の信仰を継承するかどうかをめぐって親子の葛藤が生じる可能性がある。この点に関しては伝統宗教も統一教会も同じであり、統一教会の信仰継承にだけ何か特別な問題があるわけではない。それをことさらに「宗教二世」という言葉を用いて、人権問題として取り上げようとするところに、マスコミの偏見が見て取れる。
ここで、敢えて宗教「二世」であって、「三世」でも「四世」でもないのは、この言葉を用いる側が批判する宗教の親世代が、信仰の第一世代であることを含意しており、要するに新しい宗教(カルト)を標的とした言葉であることを表している。すなわち、親と子の二世代しか存在しないくらいの新しい宗教をターゲットにしているということだ。これはとりもなおさずマイノリティー宗教であることを意味する。
新宗教運動は、既存の宗教伝統に満足することのできない教祖によって、同じような不満を抱えた信徒たちが感化されて創唱されることが多い。当然のことながら、生まれたばかりであれば教団の規模は小さく、既存の宗教伝統や社会一般に対して、批判的で対抗的な世界観を持っていることが多い。そうでなければ、新しい宗教を創唱する必要がないからである。宗教社会学的にはまさにこのような団体のことを「カルト」というのだか、この用法はその団体が善か悪かというような価値判断をしない中立的なものであり、決して侮蔑的な意味で用いているのではない。
現代社会におけるマイノリティー宗教における信仰相続は、子供に対して価値観が大きく異なる「二つの世界」に生きるという状況を強いることになる。すなわち、教団の中では一般社会に対して批判的で対抗的な宗教的価値観を教えられるが、同時に一般社会の学校に通い、就職すれば、世俗的な価値観と折り合いをつけなければならない。マイノリティー宗教の二世が経験する葛藤の本質はまさにこのようなものだが、メディアの扱いは、「教団=悪、子ども=被害者」という構図になりがちであり、二世が教団を離れることこそが問題の解決であると言わんばかりの報道が多いのには閉口させられる。
まとめると、「宗教二世」の問題は以下のように整理される。①親から子への信仰の継承自体は完全にノーマルであり、何の問題もない。②一般社会に対して対抗的な価値観を持つマイノリティー宗教の二世は、「二つの世界」に生きるという状況からくる葛藤を経験する可能性が高く、「宗教二世」問題の本質はまさにここにある。③「宗教二世」の問題としてしばしば取り上げられる貧困、虐待、ネグレクトなどの問題は、個別の家庭問題として扱われるべきであり、同じ教団の信者でも状況は家庭ごとに異なる。特定宗教の信者の家庭だからこうした問題があると決めつけるのは偏見である。もしこうした問題が本当に存在するとすれば、信仰の有無にかかわらず、支援の手が差し伸べられるべきである。
この部分の記述の中で櫻井氏は、「エリート信者である献身者の幹部」対「搾取の対象である壮年壮婦の信者」「エリートの子弟である祝福二世」対「ワンランク下の『ヤコブ』と呼ばれる壮年壮婦の子供たち」というステレオタイプ化した偏見を披露している。山上被告の家庭はまさにそうした壮年壮婦の家庭であったために悲劇が起こったと言いたいようだが、こうした彼の分析が誤りであることはこのシリーズの第58~60回で詳しく述べているので、ここでは説明を繰り返さないことにする。