私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第9回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2022年8月号に寄稿した文章です。
第9講:統一原理の神観について③
「キリスト教講座」の第9回目です。統一原理の神観について伝統的なキリスト教神学と比較しながら3回にわたって解説しています。今回は神と被造世界の関係という視点からの比較です。
統一原理の神観の特徴の一つが、「悲しみの神」を強調する点です。神が堕落した我が子である人間たちを見て、嘆き悲しんでおられるということです。実はこのことは、神と被造世界の関係を考える上で重要なポイントとなります。
「神は悲しんだり後悔したりするか?」という問いかけに対する答えは、聖書をみれば一目瞭然であるように思えます。創世記第6章6節には『主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め』と書いてあり、その後の旧約聖書全体に、神が不信の民イスラエルに幾度となく裏切られ、失望と落胆を繰り返しながら嘆き悲しんでいる言葉が連綿とつづられています。神が悲しんだり後悔したりしているのは周知の事実であり、それができるかどうかというのは愚問ではないかと言いたいところですが、そう単純にいかないのが神学の難しさです。
なぜなら、伝統的なキリスト教神学には、これとは全く相反する神観があるからです。普通、神とはどんな存在かと聞かれて思い浮かべるのは、唯一絶対、全知全能、完全無欠、第一原因者、といったところです。もしこれが本当なら、神は最初からすべてを知っていて、すべてをコントロールしているはずですから、人間の行動に左右されて後悔したり、嘆き悲しんだりするのは不可能だということになります。
伝統的な神学において描写されている「哲学的な神」は、人間と親密に交わる人格的な「聖書の神」とは、かなりイメージの異なる「絶対的な超越者」です。それは何かを動かすことはあっても動かされることはなく、他に何かを与えることはあっても与えられることはありません。完全無欠でそれ自体で完結しているので、進歩・発展することもありません。したがって人間を上から一方的に愛することはあっても、人間の行動によって喜んだり、逆に悲しんだりすることもないのです。
このように「哲学的な神」と「聖書の神」との間には大きな隔たりがあるのですが、どうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。それは伝統的なキリスト教神学が、ギリシア哲学と聖書の思想のブレンドであったことに原因があります。新・旧約聖書は物語や教訓の寄せ集めであり、そこには哲学的体系がありませんでした。最初のうちはそれで十分だったのですが、キリスト教がヘレニズム世界へ広がっていくにつれて、教義を体系的に整えて知的に説明し、さらには正統と異端とを明確に定義する必要が出てきました。その当時、最も進んだ哲学者と言えばプラトンとアリストテレスであったので、神学を組み立てる論理的な骨格として、ギリシア哲学を借用したのです。
これによってキリスト教神学は学問的に洗練されたわけですが、ギリシア哲学と聖書の神観には大きな隔たりがあったのです。キリシアの哲学者たちが頭の中で思索して生み出した神は、まさしく前の段落で述べたような、宇宙の頂点に君臨する観念的な絶対者でした。そして神と人間の関係は、非人格的で一方通行です。それに対して聖書の神は、ユダヤ民族とクリスチャンたちが苦難の中で信仰を通して出会った、血の通った生きた神の姿であり、神と人間は深く人格的に関り合っています。
宗教的には、聖書の神の方が魅力的なのは言うまでもありません。しかし哲学者たちは、それを単なる感情表現として片づけてしまい、学問的には洗練されていない価値の低いものとして片隅に追いやってしまいました。その結果として、「哲学の神」が神学の主流になってしまい、冷たく無関心な神のイメージができ上がってしまったのです。
しかし現代になってくると、キリスト教神学の生成過程が研究されるなかで、伝統的な神観に対する批判が出てきます。すなわち、ギリシア哲学がキリスト教の神観に影響を与えた結果、聖書の中で表現されている神が本質的に失われてしまって、キリスト教の神観を歪めてしまったということを指摘する神学者が登場するのです。その代表的な神学者の中にアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドやチャールズ・ハーツホーンがおり、彼らは「プロセス神学」という神学を打ち立てて行きます。
プロセス神学は、神を静的で止まった形でとらえるのではなくて、常に動いている、ダイナミックな存在とする神学です。すべては「プロセス」であるという現代的な哲学に基づいて神学を打ち立てようという、現代神学の新しい流れであると言えます。
私が統一神学校(UTS)にいたときに組織神学を教えていただいた神明忠明先生という方がいます。この方は、統一神学校の第一期生で、日本人の教会員としては初めて神学博士号を取得した人です。神明先生は、現代神学の中でもこのプロセス神学を統一原理と比較する論文を書いています。そこから分かることは、古典的な神学に比べて、神と被造世界の関係をダイナミックなものとしてとらえた点で、プロセス神学は統一原理に一歩近づいた神学として評価できるということです。
統一原理は、すべての存在が相対的な関係によって成り立っているという、東洋的な哲学に立脚しているため、神と人間の関係もギリシア哲学に見られるような一方的なものでなく、相互に影響を及ぼし合うダイナミックなものとなります。その根底には、神の最も本質的な属性を「心情」であると捉える独特な神観があります。
それでは、「心情」とは一体何でしょうか。統一思想によりますと、心情とは「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」であると定義されています。「愛したい」という衝動があっても、相手がいなければ愛にはなりません。したがって、心情はその本性からして「対象の存在」とそれとの「交わり」を追求することになります。さらに、愛すべき対象が失われてしまったり、望んだとおりの交わりが実現されなかったりした場合には、当然神も嘆き悲しむのだということになります。