BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ07


信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した家庭連合関係の記事を紹介する連載。これらの記事を書いたマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。これらの記事の著作権はマッシモ・イントロヴィニエ氏にあるが、私が日本語訳を担当したこともあり、特別に許可をいただいて私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。昨年7月8日に起きた安倍晋三元首相暗殺事件以降の日本における家庭連合迫害の異常性を、海外の有識者がどのように見ているかを理解していただくうえで大変有益な内容であると思われたので、私の個人ブログでシリーズ化して紹介することにした。

安倍暗殺・統一教会への献金: フィクションから事実を分離する

09/03/2022MASSIMO INTROVIGNEA

メディアは、「被害者」は「霊感商法」によってだまされたのだという反統一教会の弁護士たちの非難を額面通りに受け取った。実際の話は違っていた。

マッシモ・イントロヴィニエ

7本の記事の7本目

渡辺博弁護士
安倍暗殺事件の後に行われた記者会見で、「霊感商法」を非難する反統一教会の弁護士・渡辺博。スクリーンショット。

フランス革命のテロは、約3万人の司祭、修道女、および一般のカトリック教徒たちの命を奪った。カトリック教会に反対する世論を煽るために、このテロの立案者たちは、彼らが常に効果的であると知っていた論法を用いた。お金である。数えきれないほどのパンフレット、新聞記事、風刺画によって、貪欲な司祭たちが法外な献金を要求して家族を破滅させている姿を見せたのである。

共産主義者のプロパガンダは、その教訓を学んで実行した。モンゴルが共産主義政権下にあったとき、約 6万人の仏教僧侶が殺された。政権はそれを大量のプロパガンダ用ポスターによって準備したのだが、そこには僧侶たちが、過重なお布施を要求することでモンゴルの人々の生き血を吸う吸血鬼として描かれていた。

モンゴルの漫画
虐殺に対する逮捕状:モンゴルの共産党員による「貪欲な」修道僧に反対するプロパガンダ。かつてモンゴルのウランバートルにあったが現存しない「政治的抑圧の犠牲者記念博物館」のコレクションより。写真提供マッシモ・イントロヴィニエ。

私たちはいま、安倍晋三の暗殺後、日本の統一教会・家庭連合に対して同様のプロパガンダが作用しているのを目撃している。暗殺者は、彼の母親が統一教会への献金によって破産したと信じていたため、統一教会を憎んでおり、教会の関連団体が主催したあるイベントにビデオを送り、もう一つのイベントにメッセージを送ったことを理由に、安倍を成敗したかったと主張している。

日本には、「全国霊感商法対策弁護士連絡会」として知られる反統一教会グループがある。彼らは、数え切れないほどの日本人が、献金と統一教会によって法外な価格で販売された価値のない工芸品の購入によって破滅させられたと主張している。

「霊感商法」とは、1980年代に日本の反統一教会左翼メディアによって作られたレッテルである。ハッピーワールドという会社が日本に壺や多宝塔のミニチュアを輸入し、販売していた。それらを購入した人々の一部は、統一教会以外の小さな新宗教と関わりがあり、これらの工芸品には良い霊的エネルギーが吹き込まれていると宣言した。当然のことながら、ハッピーワールドはこれに満足し、価格を引き上げた。統一教会は壺や多宝塔を販売しておらず、それらの神秘的な力についての主張とは何の関係もなかった。しかし、ハッピーワールドを運営していたのは統一教会の信者で、収入の一部を統一教会に寄付していた。こうして彼らは、とりわけ1987年に敵対的な弁護士たちの協会が設立された後には、「霊感商法」の非難を受けるようになったのである。

1987年以降は壺や多宝塔の販売は停止したが、他の統一教会のメンバーは絵画、宝石、および日本では署名の代わりに使われる印鑑を販売する事業を行っていた。これらの印鑑は高価な材料を用いて精巧に作られていたが、通常よりも高い価格で販売されていた。それもまた幸運をもたらすと主張されていたからなのだが、これは日本においてはその他の工芸品においてもよく言われることであった。ここでも、これらの商品を販売していたのは統一教会ではなくその信徒たちであり、彼らはその収入の一部を教会に献金していたのである。

2000年には既存の訪問販売法が大きく改正され、その名称が「特定商取引法」に変わった。この法律は、販売契約を締結するために顧客を「威迫困惑」することを禁じるものであった。この法律に基づいて、印鑑を販売した統一教会の信者が拘留され、最終的には執行猶予付きの懲役刑が言い渡された。当時の日本教会の会長は、新しい法律とそれを尊重する義務について信徒たちに指導しなかったことに対する責任を認めた。彼は2009年に辞任し、統一教会は、印鑑などの「開運」商品を販売する事業を行っている信徒たちを指導して、2000年の法律を厳格に遵守するための新しい方針を採用した。

印鑑
日本における印鑑は一般的に高価な商品である。

敵対的な弁護士たちは、別問題である統一教会に対する献金に対しても、「霊感商法」というレッテルを用いた。彼らは、教会は献金を担保として、生きている者たちと他界した愛する者たちの永遠の救いを「販売している」と主張したのだ。彼らは、献金が高額である場合にはそられが「詐欺的で脅迫的な」手段によるか、献金する者の「自由意思」を剥奪する「心理的なテクニック」(信憑性を失った疑似科学である洗脳理論に危ういまでに近い概念)を用いて得られたものと推定すべきだという怪しげな原則を、いくつかの法廷を説得して確立することに成功した。

献金を捧げた者たちに対する感謝の印もまた、「霊感商法」で販売された商品と悪意をもって混同された。一部のカトリック組織では、重要な献金を捧げた者が教皇のサイン入りの本や賞状を受け取ることがある。明らかに、彼らは高額を支払ってその賞状や本を「買っている」のではない。本や賞状は、献金に対する教会の感謝の念を思い起こさせるための象徴に過ぎないのである。

弁護士たちは、「カルト」というレッテルを貼られたグループに反対するキャンペーンが繰り返し語ってきた作り話に頼った。彼らは、主流の宗教と共通する点があるものを、独特な習慣であると指摘する。カトリック教会は、死後の魂の多くが天国と地獄の間の一時的な状態である煉獄に行くと信じている。煉獄で過ごす時間は、その人の親戚や友人による祈祷、司祭に敬意を表するミサ、および献金によって短縮することができる。実に、マルチン・ルターがローマ教会から分離した理由の一つは彼がカトリックの贖宥状(免罪符)の教義を嫌ったからであり、それが献金によって自動的に煉獄での期間が短縮されるかのように教えていたからである。仏教の教団にも同様の教えがあり、亡くなった親族のより良い転生や恐ろしい八寒地獄からの脱出を、お布施と結びつけている。

免罪符の版画
ヨルグ・ブロイ・ザ・エルダー(1475-1537)免罪符の販売

何百ものプロテスタント教会が聖書の十分の一の献金を支持し、信徒に対して収入の10%を献金するよう求めている。十分の一献金は、強制ではなく可能性として提示されているのであるが、それは統一教会でも同じである。統一教会にはまた、30の倍数にあたる金額を4年間にわたって献金するといった固有の習慣があるが、それはユダが銀貨30枚でキリストを裏切ったことに対して、人類が連帯的に責任を負っていることを認めているからである。

原則として、統一教会の献金に関する神学は、カトリックやプロテスタントのそれと驚くほどよく似ている。日本の法廷はそれを認識し始めているが、それはいまは献金を捧げた者たちが、自分は自由意思に基づいて献金したこと、すべての意味あいを理解していること、そして将来統一教会を訴えないことを述べた公証の合意書にサインしているためでもある。2021年に家庭連合は献金に関わる訴訟で一つ敗訴しているが、他の二つは勝訴している。そのうちの一つで東京地裁は、原告が証拠を改ざんしたことを突き止めた。

この問題は、突き詰めれば神学的であり哲学的なものだ。信じる者にとっては、献金は深い霊的経験であるかもしれない。無神論者や、統一教会のような団体は「本物の」宗教ではないと信じている人々にとっては、どんな警告も十分ではなく、献金が自由で合理的な選択の成果として認められることがあってはならないのである。

以上の記事のオリジナルは以下のURLで見ることができる。
https://bitterwinter.org/%e5%ae%89%e5%80%8d%e6%9a%97%e6%ae%ba%e3%83%bb%e7%b5%b1%e4%b8%80%e6%95%99%e4%bc%9a%e3%81%b8%e3%81%ae%e7%8c%ae%e9%87%91-%e3%83%95%e3%82%a3%e3%82%af%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%81%8b%e3%82%89%e4%ba%8b/

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BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ06


信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した家庭連合関係の記事を紹介する連載。これらの記事を書いたマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。これらの記事の著作権はマッシモ・イントロヴィニエ氏にあるが、私が日本語訳を担当したこともあり、特別に許可をいただいて私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。昨年7月8日に起きた安倍晋三元首相暗殺事件以降の日本における家庭連合迫害の異常性を、海外の有識者がどのように見ているかを理解していただくうえで大変有益な内容であると思われたので、私の個人ブログでシリーズ化して紹介することにした。

安倍暗殺:「カルト」という言葉は差別の道具である

09/02/2022MASSIMO INTROVIGNEA

日本における反統一教会キャンペーンは、不人気のマイノリティを差別するために「カルト」というレッテルを用いる酷い例の一つである。

マッシモ・イントロヴィニエ

7本の記事の6本目

日本における差別に抗議する韓国の統一教会・家庭連合のメンバー
日本における差別に抗議する韓国の統一教会・家庭連合のメンバー

2014年6月6日、日本の首相である安倍晋三はバチカンで教皇フランシスコを訪問した。彼は17世紀日本の「秘密の鏡」のレプリカを教皇に贈呈した。それは一見普通の鏡に見えるが、太陽の光を遮るように傾けると、イエス・キリストの像が現れる。この頃の日本の切支丹たちはこの秘密の鏡を使わなければならなかった。なぜなら、もし彼らが切支丹の像やシンボルと共に捕まったなら、彼らは処刑されたからだ。安倍は16世紀から17世紀にかけての迫害の期間中、五千名以上のカトリックの信者たちが日本で殺されたことに関して、カトリック教会に謝罪した。彼らの多くがはりつけにされた。

1829年に至ってもなお、3名の女と3名の男が、切支丹という「邪宗」の信者であり(おそらく彼らはそうではなかった)、黒魔術を使って信者を獲得した罪により、大阪の街を引き回しにされ、はりつけにされた。

キリアンの版画
1597年に長崎ではりつけにされた切支丹たち。ヴォルフガング・キリアン(1581-1663)による版画

安倍の謝罪は称賛に値するが、遠い昔の残虐行為について語っているかのように見えるであろう。いや、多分違うかもしれない。ジェームズ・T・リチャードソンやウー・ジョンキンのような学者たちは、西洋で魔女が火あぶりにされたり、王朝時代の中国や日本において「邪宗」が血なまぐさい迫害を受けたりしていた時代と、事態はそれほど変わっていないのだと書いている。唯一変わったのは、黒魔術が世俗化されて洗脳になったことであろう。それは、「カルト」が神秘的な心理テクニックを用いてその信者たちを言いなりにするという、疑似科学的な概念である。

皮肉なことに、安倍は日本において切支丹が黒魔術を使う「邪宗」として迫害されたことに対して謝罪したのであるが、彼の暗殺は、統一教会・家庭連合に対して現代版の黒魔術である洗脳によって献金を手に入れる「カルト」というレッテルを張り、「カルト」全般に対する弾圧を訴えるために用いられているのである。これらの主張を支えている歪んだ論理は、安倍の暗殺犯が統一教会を憎んだのは、彼の母親が20年前に教会に高額の献金をしたためであるという事実に基づいている。教会に関連する組織のイベントに安倍がビデオを通して参加したことを理由に、彼は安倍を成敗するために殺したというのだ。暗殺者を非難するのでもなく、また彼を刺激した反統一教会キャンペーンを非難するのでもなく、論理と公正性を見事なまでにひっくり返して、被害者たちは裁きにかけられている。

しかし、「カルト」とは何であろうか。宗教学者の大多数は、カルトは存在しないという考えで一致している。「カルト」とは、強力な圧力団体が、理由は何であれ、彼らが嫌っているグループを差別するために用いるレッテルに過ぎないのである。これは昔からそうだったわけではない。「カルト」およびラテン語の「セクタ」に由来するフランス語の「セクト」(この言葉は「セクト」ではなく「カルト」と英訳される)のように、他言語においてそれと機能的に同じ意味を持つ言葉は、20世紀初期の社会学においては正確な意味があった。それらは、全員もしくは大部分のメンバーがその信仰の家庭に生れたというよりは、大人になってから改宗したような、若い宗教を意味したのである。初期の社会学者たちによって用いられた例は、イエスと使徒たちは全員が生まれつきクリスチャンだったのではなく、ユダヤ教から改宗した者たちだったので、「カルト」の一員だったというものである。何世紀か経って、生まれつきのクリスチャンたちが大多数を占めるようになり、キリスト教は「カルト」(あるいはフランス語の「セクト」)から「チャーチ」へと進化したのである。この用語を用いた学者たちは彼ら自身がクリスチャンであり、明らかに「カルト」という言葉は彼らにとって否定的な意味合いを持っていなかった。

フランスの新聞
フランスのメディアに典型的にみられる「カルト(セクト)」についてのセンセーショナルな報道

しかしながら、20世紀が経過するなかで、いくつかの古い先例と共に、新しい科学である犯罪学が、「カルト」という言葉をまったく違った意味で用い始めた。「カルト」は、組織的な犯罪を行ったか、あるいは将来犯罪を行いそうな宗教団体となった。この「カルト」の意味は、江戸時代の日本において切支丹を迫害してはりつけにするために用いられた「邪宗」という表現に似ている。それはまた混乱を引き起こした。1960年代の社会学者はイエスと使徒たちは「カルト」の一員であったかと尋ねられれば、伝統的な社会学のカテゴリーに基づいて、そうだと答えたであろう。しかし、この言葉の犯罪学的な用法がメディアまでも征服してしまったために、そう言えば初期のクリスチャンたちが誤解され、犯罪者のレッテルを貼られてしまうというリスクが生じたのである。

このため、少なくとも1960年代には、英国の社会学者アイリーン・バーカーに代表される国際的な宗教社会学者たちは、「カルト」という言葉を放棄して、「新宗教運動」という言葉を、大多数のメンバーが第一世代の改宗者であるような新しく創設されたグループに対して用いるようになったのである。彼らは犯罪学者たちの使用する「カルト」の用法を承知しており、宗教の名のもとに日常的に犯罪を行うグループの存在を否定しなかった。しかしそれらは「新しい」宗教のみならず「古い」宗教伝統の中にも存在したのである。例えば小児性愛者のカトリック司祭のネットワークや、イスラムの名前を使用または誤用するテロリストなどである。「カルト」という言葉は混乱を引き起こすだけなので、彼らは他の表現を採用したのであり、その中には署名者によって示唆された「犯罪的宗教運動」という言葉も後に含まれるようになった。

アイリーン・バーカー
アイリーン・バーカーは、彼女が1984年に出版した統一教会への回心に関する著作によって、「カルト」は信者を回心させるために「洗脳」を用いるので「宗教」とは異なるという理論の誤りを暴いた。

犯罪的宗教運動とは、組織的に犯罪を行うか、少なくとも身体的暴力、レイプ、児童虐待、殺人などの一般的な犯罪を扇動するグループを指す。1960年代後半以降、活動的な「反カルト」団体が出現し、「カルト」の活動を制限するよう呼び掛けるようになった。彼らは「カルト」を殺人や性的虐待などの一般的な犯罪を行うグループではなく、架空の犯罪である洗脳という罪を犯すグループであると定義した。「洗脳」という言葉は冷戦時代にCIAによって造られた言葉で、それは中国の毛沢東主義者やソビエトによって用いられたとされる、「普通の」市民をほとんどあっという間に共産主義者に変えてしまう神秘的なテクニックのことを指している。それが後に「カルト」に適用されたのである。1990年までに、この言葉は特定の団体を差別するためだけに用いられる疑似科学であることが宗教学者たちによって暴かれ、少なくとも米国においては法廷で否定された。

安倍暗殺はいまや、洗脳や、悪い「カルト」はよい「宗教」とは違って、精神操作によって信徒や献金を集めているという無用な議論を蘇らせるために使われている。ヨーロッパにおける魔女狩りや、安倍が謝罪した日本における切支丹迫害のときに起きたのとまったく同じことが起きているのである。黒魔術(洗脳はそれを世俗化したバージョンに過ぎない)や「邪宗門」をはたらいたという非難は、その非難を受けた者たちを非人間化し、差別し、迫害するようになる。今日、その番は統一教会に回ってきた。それは明日には、敵対する圧力団体がメディアに対して「カルト」であると説得することが可能な、どんな宗教にも回ってくるかもしれないのである。

以上の記事のオリジナルは以下のURLで見ることができる。
https://bitterwinter.org/%e5%ae%89%e5%80%8d%e6%9a%97%e6%ae%ba%ef%bc%9a%e3%80%8c%e3%82%ab%e3%83%ab%e3%83%88%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e8%a8%80%e8%91%89%e3%81%af%e5%b7%ae%e5%88%a5%e3%81%ae%e9%81%93%e5%85%b7%e3%81%a7/

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BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ05


信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した家庭連合関係の記事を紹介する連載。これらの記事を書いたマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。これらの記事の著作権はマッシモ・イントロヴィニエ氏にあるが、私が日本語訳を担当したこともあり、特別に許可をいただいて私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。昨年7月8日に起きた安倍晋三元首相暗殺事件以降の日本における家庭連合迫害の異常性を、海外の有識者がどのように見ているかを理解していただくうえで大変有益な内容であると思われたので、私の個人ブログでシリーズ化して紹介することにした。

安倍暗殺と日本の統一教会:暴徒のつくり方

09/01/2022MASSIMO INTROVIGNEA

宗教的マイノリティーに対してどのように憎悪が作り出され、仕向けられるかは、「暴徒心理」の典型的な例である。

マッシモ・イントロヴィニエ

7本の記事の5本目

日本のメディアによる中傷に抗議する韓国の統一教会メンバーの挿入
日本のメディアによる中傷に抗議する韓国の統一教会メンバー

1895年、フランスの人類学者ギュスターヴ・ル・ボンは、後に非常に影響力ある著作となった『群衆心理』を出版した。学術的な批判がなかったわけではないが、それは後にレーニン、ヒトラー、ムッソリーニによって研究され、彼ら全員がこの本からヒントを得たことを認めている。ル・ボンは新しい科学を確立し、それを「群衆心理」と呼んだ。しかし、彼が描写した群衆のほとんどは社会に対する破壊的な行動に夢中になっており、現在の英語では「モブ」すなわち「暴徒」と呼ぶ方がふさわしいであろう。

ル・ボンは、暴徒を作り出す三段階のプロセスについて説明した。その一つ目は暗示である。彼は現代社会の市民はメディアやプロパガンダによって簡単に影響を受け、操作されていると信じていた。彼がこれをテレビやインターネットが出現するはるか以前に書いたことを思えば、予言的なコメントである。第二段階は伝染である。昨今のパンデミックを通して、我々はウイルスの拡大は目に見えず、誰にも止められないことを知っている。ル・ボンは、今日私たちがフェイク・ニュースと呼んでいる神話や誤った情報でも、同じことが起こると指摘した。

ギュスターヴ・ル・ボン
ギュスターヴ・ル・ボン

ル・ボンの第三段階は匿名性であった。暴徒の中にいる個人はお互いを知らないかもしれないが、彼らは同じ行動を示し、「集団心理」によって統治されているように見える。それはまるで、目に見えない巣の中心で彼らの行動を管理している悪質な蜘蛛のようである。匿名で行動し、何百万人もの人々が同時に同じことをしているのを知っているので、暴徒の中にいる人々は自分には個人的な責任がないと信じており、無敵感に陶酔する体験をしているのである。

ル・ボンの本は驚くほど現代的で、現代のソーシャル・メディアを念頭において書かれているかのようだ。匿名性に保護され、暴徒のようなサイバー戦争に参加している何百万人もの自称戦士たちは、法的責任から逃げられると信じてターゲットを侮辱し、自分たちは無敵の軍隊の匿名の兵士であると感じているのだ。

安倍晋三元首相の暗殺事件後、日本は暗示、伝染、匿名性によっていかに暴徒が作り出されるかについての典型的な事例を目撃している。暗殺犯は、安倍元首相が統一教会・家庭連合の関連団体のイベントに出席したので、彼を成敗したかったと主張した。殺人犯は、彼の母親が所属している教会に対する過度な献金によって、彼女が破綻したと信じていた。

何が起こったかは明らかである。安倍を殺した犯人がいて、被害者がいる。被害者は安倍自身であり、殺人犯がその指導者を殺そうと計画した統一教会もまた被害者だ。しかし、暴徒の心理は論理や事実とは無関係に働くのだ。

カルトは出ていけ
愛知県の教会にスプレー塗料で書かれた反統一教会の落書き

暴徒は自発的に形成されるものではない。日本の統一教会には強力な反対者がいて、彼らはメディアに暗示を拡散し、教会は被害者ではなく、安倍の死に対して何らかの責任を負っているのだと多くの人々に信じ込ませた。暗示は伝染によって拡散され、匿名の暴徒が形成されていった。そこでは、お互いに面識のない個人が集団心理に従い、侮辱し、脅迫し、ときには罪を犯したが、群衆の一部であることや、電話やコンピューターの後ろに隠れることによって守られていると感じていた。

安倍の暗殺から8月20日までの間に、日本統一教会は約150件の嫌がらせを受けたことを記録した。しかし、それはいまも継続中であり、おそらくその数はもっと多いであろう。なぜなら、個々の教会員に対する侮辱や脅迫は必ずしも本部に報告されないからである。

これらの事件の記録を吟味してみれば、憂慮すべき事態であることが分かる。ル・ボンの時代には存在しなかったテクノロジーによって、今日の群衆が如何に簡単かつ迅速に形成されているかを、それは示しているのである。家庭連合の本部や支部に脅迫電話をかけた人々の言葉が録音されているのだが、その多くが「報道を読んだ」とか「テレビを見た」などの言葉で始まっていた。暴徒心理学の典型的なプロセスを通じて、彼らは自分が聞いたことを信じ、メディアが「真実を語る」のは当然だと説いた。彼らは自分たちが統一教会についての即席の「専門家」になったと信じていただけでなく、「何かをして」私的制裁を加える準備ができているとも感じていたのである。

彼らが、統一教会が「安倍を殺した」ことを自分は知っていると信じ、それを電話口で叫んだり、インターネットに書き込みをしたのは、彼らがそれを読んだり、テレビで聞いたりしたからであった。しかし、実際に安倍を殺したのは教会の狂信的な反対者であった。彼らはまた、統一教会は「洗脳を用いる」とか「罪を犯している」と主張したが、洗脳は新宗教運動を研究する主流の学者たちによってはるか以前に疑似科学として否定された概念である。

また、電話やコメントの一部には、不穏な人種差別的な含意があった。「韓国人は韓国に帰れ。」「韓国人が関心あるのはお金だけだ。」「きさまらは韓国の反日団体だ。」たしかに統一教会の創設者は韓国人であるが、日本の信徒は圧倒的に日本人が多いのである。

まさにル・ボンが予言したとおりに、匿名性と責任がないという中毒性感情が、これらの暴徒を次第に犯罪へと駆り立てている。7月17日、何者かがネットの掲示板に「明日の朝、本部教会に行って、全員ナイフで殺してやる」と投稿した。愛知、北海道、大阪の統一教会も殺害予告を受けている。奈良では、牧師に対する殺害予告を警察に報告した結果、予防措置として地方教会が閉鎖されることとなった。

右翼の街宣車
7月24日と30日に過激な右翼団体が街宣車を用いて統一教会本部に対して嫌がらせを行った。

東京、奈良、大阪では、街宣車が教会周辺を回りながら、敵対的なスローガンを叫んだ。その一部は過激な右翼が行ったもので、8月4日に大阪で行われた際には、「韓国の反日団体は、日本から出ていけ!」と叫んだ。

愛知では、8月15日に教会の郵便受けが黒く塗りつぶされ、安倍の暗殺者を称える落書きがスプレー塗料で描かれた。

郵便受け
愛知の教会では郵便受けが黒く塗りつぶされた。

これらすべてのことの危険性を十分に理解するために、我々はル・ボンに帰る必要がある。一つや二つの個別の事件は些細なこととして片付けられてしまうかもしれないが、殺害の脅しが実際の暴力にエスカレートする可能性は常にある。百件以上の事件は、いまや匿名の自称自警団という群衆が稼働中であることを示している。彼らはお互いのことを知らないが、全員が群衆の中心に存在する悪質な蜘蛛によって操られているのである。その蜘蛛は憎悪し、中傷し、差別し、いつの日か誰かを殺すかもしれない。

以上の記事のオリジナルは以下のURLで見ることができる。
https://bitterwinter.org/%e5%ae%89%e5%80%8d%e6%9a%97%e6%ae%ba%e3%81%a8%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e7%b5%b1%e4%b8%80%e6%95%99%e4%bc%9a%ef%bc%9a%e6%9a%b4%e5%be%92%e3%81%ae%e3%81%a4%e3%81%8f%e3%82%8a%e6%96%b9/

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BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ04


信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した家庭連合関係の記事を紹介する連載。これらの記事を書いたマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。これらの記事の著作権はマッシモ・イントロヴィニエ氏にあるが、私が日本語訳を担当したこともあり、特別に許可をいただいて私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。昨年7月8日に起きた安倍晋三元首相暗殺事件以降の日本における家庭連合迫害の異常性を、海外の有識者がどのように見ているかを理解していただくうえで大変有益な内容であると思われたので、私の個人ブログでシリーズ化して紹介することにした。

安倍暗殺:統一教会はヘイトスピーチと差別の犠牲者である

08/31/2022MASSIMO INTROVIGNEA

元総理が殺されたのち、統一教会の信者たちは殺害の脅迫を受け、職場や学校でいじめられている。

マッシモ・イントロヴィニエ

7本の記事の4本目

家庭連合韓国集会
日本のメディアによる中傷と差別に抗議するために韓国で行われた統一教会・家庭連合の集会

もしあなたがこれまでに殺害の脅迫を受けたことがあるなら(私は経験がある)、それが楽しいものでないことを知っているだろう。最初は、それを単に悪いジョークだと片づけるが、そのうちに、世界はクレージーな奴らであふれており、その中には危険な人物がいるかもしれないとあなたに教える小さな声が聞こえるようになるだろう。夜、怪しい音が聞こえるたびに、あなたは心の片隅で、ついに狂った奴が自分を殺しに来たのではないかと疑ってしまう。

これは、安倍晋三元首相が暗殺された後、統一教会・家庭連合の信者たちの一部が経験していることだ。暗殺者は、20年前に彼の母親が統一教会に捧げた過度の献金で破産してしまったと主張しており、教会に関連する団体の行事にビデオで参加したり、メッセージを送ったりした安倍を成敗するつもりだったという。

犯人を非難するのでもなく、そして彼の弱い心を刺激したかもしれない広く流布された反統一教会キャンペーンを非難するのでもなく、日本の特定の弁護士やメディアは、むしろ被害者の側を裁いている。彼らは、統一教会のような「カルト」は公然と恥をかかせられ、罰せられるべきだと示唆した。

2011年に私は人種差別、外国人排斥、宗教的な不寛容および差別と闘うために、欧州安全保障協力機構(OSCE、米国とカナダも参加国)の代表を務めた。私のポートフィリオで重要だったのは、ヘイトクライムとヘイトスピーチだった。

OSCE代表団
2011年にウクライナを公式訪問したOSCE代表団。アディル・アフメトフ(左)はイスラム嫌悪、マッシモ・イントロヴィニエ(中央)は人種差別、外国人排斥、宗教的不寛容、アンドリュー・ベイカー(右)は反ユダヤ主義と闘うことがミッションであった。

宗教的マイノリティに対するヘイトスピーチを聞いた者すべてがヘイトクライムに関与するわけではないが、中には実行する者もいる。日本では統一教会に対する憎しみが広まり、一部信者に対する殺害の脅迫をもたらしている。

これらの事件を報じる日本メディアの記事は、読者のためにコメント欄を設けており、殺害の脅迫を付け加えるコメントを投稿した者もいた。私は、日本の警察が、これらの投稿に注意を払うよう希望する。私たちは現在、安倍を暗殺した人物が、ソーシャルメディアに侮辱や脅迫を投稿することによって統一教会ヘイターとしてのキャリアをスタートさせたことを知っている。その物語がどんな結末を迎えたか、私たちは皆知っている。

ヘイトスピーチはその性質上、蔓延していくものだ。一旦、メディアやインターネットを通して拡散されると、その影響はもはや制御不能である。日本の統一教会信者は、路上での侮辱、職場での嘲笑、学校でのいじめを報告しており、さらには離婚に直面した者もいるという。私たちは言葉による暴力が、身体的暴力や殺人にまでエスカレートしないようよう希望し、祈ることしかできない。ヘイトスピーチの致命的な影響は決して過去のものではない。毎月、ひょっとすると毎週かもしれないが、パキスタンではアフマディー教徒が殺されている。彼らは、メディアや、多数派宗教の説教者によるヘイトスピーチの標的とされた宗教運動のメンバーだ。

またヘイトスピーチは差別の素地を作る。その差別とは、マイノリティ集団のメンバーを標的として、彼らを二級市民とする法律のことだ。それはすでに、日本の統一教会に対して起きつつあることだ。世界のすべての民主主義国家と同様に日本でも宗教への寄付は非課税だが、統一教会への寄付は「本当の」宗教ではなく、詐欺的「カルト」に捧げられており、セールスに対して支払われた対価とみなして課税するべきだと主張されているのである。

韓国における統一教会抗議集会
韓国における統一教会抗議集会

日本人がなにか新しいものを発明したわけではない。現在、日本の一部でモデルとして称賛されているのは、「カルト」に対抗する奇妙な公式政策をとっているフランスだ。同国はかつて、「カルト」のリストに含まれるエホバの証人や他の団体への寄付が、贈与(Gift)ではなく、商品やサービスへの支払いであり、課税する必要があると主張した。しかし、欧州人権裁判所はそれを認めず、寄付を販売に対する支払いとして再定義することは、フランス当局が嫌悪し、「カルト」としてラベルを貼った宗教団体を差別するための手段にすぎないと裁定した。フランスは、エホバの証人と他二つの宗教運動が既に支払った税金に加えて、弁護士費用と損害賠償金を返還しなければならなかった。

日本は欧州人権条約に加盟していないが、第18条(注1)に類似の規定を持つ世界人権宣言に署名している。国連は1993年に出された「総評22号(General Comment No.22)」と呼ばれる公式解釈において、「第18条は伝統的宗教にだけ適用されるのではない」と述べている。国連は「それらが新しく設立されたものであるとか、もともと優勢な宗教コミュニティにとって敵意の対象となるかもしれない宗教的マイノリティの側であるなどの事実を含めて、あらゆる宗教や信念を差別するいかなる傾向」に対しても、警告を発した。

日本の統一教会の信者たちに対する、さらなるメディアの不寛容と行政上の差別を防ぐ道は、大規模な連合を構築することだ。誰の目にも明らかなのは、当局に、どの宗教が良くて、どの宗教が悪いか、あるいは「カルト」であるかを決定し、彼らが悪と定めた宗教の寄付を本当の献金ではないと宣言して課税する権限を与えることは、すべての宗教団体にとっての脅威であるということだ。それは世俗国家であるとされている機関を、新しい異端審問所に変えてしまう。

一部の日本メディアは統一教会が「普通の」信仰をもつ宗教ではなく、その創始者である文師について奇妙な主張をしていると異議を唱えている。そこで私の出番である。私もまた、その創始者について誇大な主張をする宗教を信じている。その名前はキリスト教だ。キリスト教徒として、私は2000年前に犯罪者として処刑されたユダヤ人が、今日もなお生きていると信じている。また私は、彼が処女である母親から生まれ、死者を蘇らせたと信じている。確かに、これは統一教会のメンバーが文師のためになしているどんな主張よりも誇大なものだ。

(注1):世界人権宣言第18条:「すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。」

以上の記事のオリジナルは以下のURLで見ることができる。
https://bitterwinter.org/%e5%ae%89%e5%80%8d%e6%9a%97%e6%ae%ba%ef%bc%9a%e7%b5%b1%e4%b8%80%e6%95%99%e4%bc%9a%e3%81%af%e3%83%98%e3%82%a4%e3%83%88%e3%82%b9%e3%83%94%e3%83%bc%e3%83%81%e3%81%a8%e5%b7%ae%e5%88%a5%e3%81%ae%e7%8a%a0/

カテゴリー: BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ

BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ03


信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した家庭連合関係の記事を紹介する連載。これらの記事を書いたマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。これらの記事の著作権はマッシモ・イントロヴィニエ氏にあるが、私が日本語訳を担当したこともあり、特別に許可をいただいて私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。昨年7月8日に起きた安倍晋三元首相暗殺事件以降の日本における家庭連合迫害の異常性を、海外の有識者がどのように見ているかを理解していただくうえで大変有益な内容であると思われたので、私の個人ブログでシリーズ化して紹介することにした。

安倍暗殺:日本は政治家の信教の自由を否定するのか?

08/30/2022MASSIMO INTROVIGNEA

誰もこのことを尋ねない。政治家が特定宗教のイベントに参加することを禁じることと、信教の自由をどうやって両立させることができるのか?

マッシモ・イントロヴィニエ

7本の記事の3本目

安倍晋三
UPFの希望前進大会2021に送られた安倍晋三のビデオメッセージ

2022年8月11日~15日にかけて、天宙平和連合(UPF)は韓国ソウルで「サミットおよび指導者会議2022」を開催した。UPFは公式的には統一教会・家庭連合から独立した組織であるが、どちらも創設者は同じであり、故文鮮明師とその夫人によって造られた。この会議でプレゼンや講義を行ったものの中には(その他にビデオで参加した者たちもいたが)、マイク・ポンペオ、ニュート・ギングリッチなどの著名なアメリカの政治家たちもいた。それは純粋な保守の集まりではなく、世界中から何十人もの閣僚およびあらゆる種類の政治信条の人々が集まっていた。

登壇者全員がUPFだけでなく、とりわけ文師夫妻の世界平和に対する業績に感謝の意を表した。日本にはUPFの会合に出席した政治家に対する粛清や立法化を提案している政治家がいることをおそらく彼らは知っていたであろうが、それを気に留めはしなかった。

マイク・ポンペオ
マイク・ポンペオ元米国務長官。2022年8月12日にソウルで行われたUPFのサミットおよび指導者会議2022にて。

暗殺された安倍晋三元首相は、2021年に行われたUPFのイベントにビデオを送り、2022年の別のイベントにメッセージを送っていた。暗殺犯は、彼の母親が統一教会に対する過度の献金によって2002年に破産しており、教会の支持者である安倍を成敗したかったと主張している。

日本において統一教会は長年の、強力で、よく組織化された敵を持っている。彼らは素早く記者会見を開いて、友好的な記者たちを呼び集め、犯人ではなく、被害者である安倍と統一教会を非難するためのキャンペーンに着手した。彼らはまた、UPFおよび統一教会に関連したその他の組織のイベントに参加した日本の政治家の名前を公表するリストを発表した。彼らはこれら政治家に対し、これらの組織との関係を断つと公言するよう要求し、閣僚に対しては辞任まで要求した。

都市伝説も日本において拡散され、ファクトチェックもなしに国際的なメディアで報道された。そのうちの一つが、安倍の祖父である岸信介首相が、彼の保守的な計略を支援してもらうことを望んで、統一教会を韓国から日本に導入して拡散させたというものである。この主張は誤りである。韓国の宣教師が日本に統一教会をもたらしたのは1959年であり、それは日本のメンバーが岸に会った1960年代なかばよりも、かなり前のことである。一部メディアが主張している、与党自民党が選挙に勝つために統一教会の投票および選挙運動のボランティアに「大きく依存している」という話もまた誤りである。自民党は2000万以上の票と、100万人以上の活動的な党員を有している。統一教会の信者はこの中のほんの小さなパーセンテージにしか過ぎないであろう。最後に、自民党の政治家だけが統一教会の関連団体のイベントに参加したというのも誤りである。同じ敵対的なメディアが、イベントに参加した他党の国会議員たちの名前も挙げているのである。

文師と岸信介
文師と岸信介(右)。Twitterより。

何が真実かと言えば、安倍と彼の祖父である岸が共感を表明していたのは、宗教としての統一教会というよりは、国際勝共連合と呼ばれる教会関連組織であり、それは日本における主導的な反共組織として出現していたということだ。それが反共の政治家たちに支持を呼びかけ、それに呼応して共産主義の脅威を懸念していた政治家たちが勝共連合を支持したのは驚くべきことではない。

それの何がいけないというのだろうか? 他のいかなる民主国家から見ても、日本の論争は非現実的で危険である。日本においては、現在自民党と連立政権を構成している与党・公明党は、日本最大の仏教運動である創価学会のメンバーによって創設された。公式的には1970年以降は創価学会と分離されたものの、それは仏教運動と密接な関係を維持しているのである。その他の宗教団体が、リベラルな左翼カトリックも含め、自民党を声高に批判し、野党を支持する勢力として出現した。実際には、日本には百年にわたる「政教非分離」の伝統があるのであり、それに対する批判も常にあったのである。

民主的な社会においては、すべての市民が政治的討論に参加し、自ら選んだ政治家を支持し、特定の政党を応援するための運動を行う権利を有している。宗教を信じるものに対して、その他すべての市民に認められた権利を否定することは極めて非民主的であろう。カトリック教徒として、私は教皇ヨハネ・パウロ2世と教皇ベネディクト16世が、教会と国家の健全な分離としての「世俗性(secularity)」と、「世俗主義(secularism)」とを区別した有名な言葉からヒントを得るが、他の宗教の指導者たちも同じ区別を強調している。世俗性がイランにおいて典型的に見られるような宗教的権威と政治的権威の混同を防ぐために必要であるのに対して、世俗主義は宗教の信者たちが彼らの信仰にヒントを得て、その他すべての市民たちと同じ権利と義務をもって、自由に政治に参加することを禁止しようとするイデオロギーなのである。

世俗主義の名のもとに、神を信じる者たちを政治的活動や公職から排除することは、彼らを二等国民とすることであり、彼らが自国の生活と公共機関に参加する基本的な権利を剥奪することである。特定の不人気の宗教の信者を政治から排除している反民主主義国は少なくない。パキスタンがアフマディー教団と呼ばれる宗教的マイノリティが投票したり公職に就いたりするのを阻止していることを、国際機構は正しく審査している。

新聞記事
パキスタンに存在するアフマディー教団の政治的権利を制限する法案。日本は統一教会信者の政治的権利と、彼らのイベントに参加する政治家の権利を制限するのであろうか

統一教会およびその関連団体のイベントに参加した政治家を調査して糾弾することは、シンプルなメッセージを伴っている。それは日本においては、たまたま信者であった市民が民主的なプロセスに全面的に参加する自由と、自らの意思で選んだ宗教の指導者およびメンバーと相談したり協力したりする政治家の自由が、ともに危険にさらされているということだ。

事実、日本のメディアの中には、政治家は統一教会のみならずいかなる宗教とも協力を禁じられるべきであると厳密に要求する、過激な声も一部に存在する。これは健全な政教分離ではない。それはイデオロギー的であり、反民主主義的であり、差別的な世俗主義である。政治家が統一教会またはその他のいかなる宗教のイベントにも参加する権利、および議席や経歴を危険にさらすことなくその支持者やボランティアの中に宗教者を含めることのできる権利を守ることは、同時にすべての宗教の信教の自由、ひいてはすべての日本国民の信教の自由を守ることを意味するのである。

以上の記事のオリジナルは以下のURLで見ることができる。
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BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ02


信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した家庭連合関係の記事を紹介する連載。これらの記事を書いたマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。これらの記事の著作権はマッシモ・イントロヴィニエ氏にあるが、私が日本語訳を担当したこともあり、特別に許可をいただいて私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。昨年7月8日に起きた安倍晋三元首相暗殺事件以降の日本における家庭連合迫害の異常性を、海外の有識者がどのように見ているかを理解していただくうえで大変有益な内容であると思われたので、私の個人ブログでシリーズ化して紹介することにした。

安倍暗殺:弁護士たちは「霊感商法」に反対なのか、信教の自由に反対なのか?

08/29/2022MASSIMO INTROVIGNEA

犯罪の後、メディアは反統一教会の弁護士たちの発言を額面通りに受け取った。弁護士たちとその過去について調査しようとする者は一人もいなかった。

マッシモ・イントロヴィニエ

7本の記事の2本目

全国弁連の記者会見
安倍暗殺の後に全国霊感商法対策弁護士連絡会が開いた記者会見。スクリーンショット。

突然、安倍晋三暗殺の後、海外のメディアでさえ「全国霊感商法対策弁護士連絡会」と呼ばれるグループについて知るようになった。現在約300名の弁護士を擁するこのネットワークは、1987年に統一教会と戦うために日本で設立されたが、ときには他の宗教運動を標的にすることもある。

安倍の暗殺犯の主張によれば、元首相が統一教会・家庭連合の関連団体が行った二つのイベントに(ビデオと書簡を通して)出席したことを理由に、彼を殺害したのだという。殺人犯は、彼の母親が教団に多額の献金を行ったことが彼女を破綻させたと非難した。実際には、母親が破産したのは2002年であり、彼が安倍の暗殺を実行したのは20年後であった。敵対的な弁護士たちのキャンペーンが殺人犯の弱い心を刺激したのではないかと批判される可能性を封じるため、弁護士連絡会は先制攻撃に出た。彼らは記者会見を開き、事件に対する責任は統一教会にあると非難して、加害者と被害者を逆転させたのだ。

山口広
山口広:弁護士連絡会の中心的弁護士の一人。スクリーンショット。

海外メディアの大多数が、この弁護士たちが誰であるのかを正確に調査することもなく、弁護士連絡会の説明を受け入れた。彼らはまた、かつて人権活動家たちの国際的な注目を集め、さらに宗教の自由に関する年次報告書で米国国務省までも言及している前例を無視した。1966年から2015年にかけて、約4300名の成人した統一教会の信徒たちが、彼らの両親の手によって拉致され、アパートに監禁され、「ディプログラミング」を受けさせられた。ディプログラミングは米国で発明された手法だが、米国では法廷で違法判決を受けている。

両親が認めない宗教の信者たちは拉致され、秘かに監禁され、彼らが信仰を棄てることを受け入れるまで、極度の身体的・心理的プレッシャーにさらされた。ディプログラミングは世界の民主主義国家のほとんどで禁止されたが、日本と韓国においてのみ生き残っている。

日本におけるディプログラミングは、エホバの証人とその他の少数派の宗教もターゲットにしており、とりわけ乱暴であった。ある統一教会の女性信者は、ディプログラマーが彼女を「棄教」させようとしていた数か月の間に自分をレイプしたとして、彼を訴えた。(しかし、彼女は後に恐ろしくなって告訴を取り下げた。)彼女の父親はレイプの事実を知って、自身がディプログラマーを雇ったことを恥じて自殺している。

後藤徹
栄養失調でほとんど動けない。12年間にわたる監禁とディプログラミングの試みを受けた後の後藤徹

統一教会の信者である後藤徹は、アパートに12年以上にわたって監禁され、ディプログラミングを試みられたが、それは成功しなかった。2015年に最高裁がディプログラミングを違法であると判断し、相当額の損害賠償を認めたのが、後藤徹のケースであった。(彼以前にも二人の統一教会信者が勝訴しているが、認められた損害賠償はわずかな額であった。)この判決の後にこうした行為は停止されたが、2021年に新たな事件が起きた。統一教会信者の親がアパートではなく自宅で子供を監禁したのだが、彼らは、それは家族の問題に過ぎないと主張したのである。

連絡会でもっともよく知られた弁護士である山口広(後藤を苦しめた中心人物である宮村峻の代理人)、渡辺博、および紀藤正樹は、ディプログラミングを行ったとして訴えられている者たちの弁護人として関わっていた。連絡会の弁護士の中には、ディプログラミングの被害者を送ってもらう形でディプログラマーたちに依存している者もいる。そこで被害者は統一教会を訴えるように説得され、それが弁護士たちにとって重要な収入源となっているのだ。

渡辺博
渡辺博弁護士。スクリーンショット

連絡会の弁護士の全員が拉致を支持していたわけではない。彼らの一人である伊藤芳朗が1996年に、連絡会は宮村との協力をやめるべきだと提言したことは称賛に値する。しかしながら、2021年のケースに至っても、連絡会の弁護士である川井康雄は、違法行為であるディプログラミングを復活させようとした両親の手助けをしているのである。

山口(広)の場合には、彼の統一教会に対する敵対心は連絡会の設立にまでさかのぼる。1979年にソ連のKGBエージェントで日本におけるトップスパイのスタニスラフ・レフチェンコが米国に亡命した。彼は著名な日本の政治家が報酬をもらって働くソ連のエージェントであったと証言したが、そのほとんどが日本社会党の関係者であった。レフチェンコの暴露は、後にソビエト連邦の崩壊後にロシアの公文書の中から発見された文書によって事実であったことが確認されているが、1983年に日本社会党はこれに対して、統一教会の関連団体である国際勝共連合がCIAを通して画策した陰謀であると非難した。国際勝共連合は日本社会党を訴えた。山口は日本社会党の代理人であったが、裁判で敗訴し、この訴訟は後に日本社会党が国際勝共連合に対して200万円の解決金を支払うことによって和解した。

ススタニスラフ・レフチェンコ。
ワシントンDCで証言する元KGBエージェントのスタニスラフ・レフチェンコ。スクリーンショット

連絡会の一部弁護士たちにとっては、その最も中心的な者たちも含め、反統一教会キャンペーンは、ディプログラミングおよびそれに続いて行われる棄教した元信者たちが教会を訴える訴訟という、ともに儲かるビジネスを守るための道具だったのである。それ以上に儲かる冒険的事業が、弁護士たちによって献金を返してもらえるとそそのかされた篤志家たちの代理人となって、統一教会を訴えることである。連絡会の弁護士たちは、これらの献金の額を提示することには熱心だが、彼らが弁護士としてこれらの訴訟によってどれだけのお金を儲けたのかについては開示していない。

また彼らは必要とあらば、いかがわしい戦術に頼ることもいとわない。2021年3月1日に東京地裁で、統一教会(現在は家庭連合)が元信者と争った訴訟で勝訴したケースでは、判事は原告(元信者)が統一教会を訴えるための証拠を偽装するため、個人ノートの日付を実際よりも前のものに修正したことを見抜いたのである。

紀藤正樹
連絡会の弁護士紀藤正樹。スクリーンショット

全国霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士は、彼ら自身のプロパガンダが主張するような、「カルト」というドラゴンを退治している、光り輝く武具を身にまとった騎士などでは決してない。しかし、これがあまりに簡単に日本のメディアと海外メディアに受け入れられてしまっている。彼ら自身の中にもディプログラミングの問題に対しては異なる立場が存在するが、連絡会の主要メンバーの一部は暴力的な拉致を行う人々や、ソ連のスパイまでも擁護している。また、彼らの顧客によって偽造された偽の文書を判事に提出し、彼ら自身が真実でないことを知りながら、統一教会を誹謗中傷する情報を拡散しているのである。

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BITTER WINTER家庭連合関連記事シリーズ01


 今回から、信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した記事の連載を開始する。これらの記事を書いたマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。これらの記事の著作権はマッシモ・イントロヴィニエ氏にあるが、私が日本語訳を担当したこともあり、特別に許可をいただいて私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。昨年7月8日に起きた安倍晋三元首相暗殺事件以降の日本における家庭連合迫害の異常性を、海外の有識者がどのように見ているかを理解していただくうえで大変有益な内容であると思われたので、私の個人ブログでシリーズ化して紹介することにした。

鹿を指して馬となす: 安倍暗殺に関するフェイクニュース

08/25/2022MASSIMO INTROVIGNEA

新宗教運動が暴力の犠牲者となるとき、即座に彼らの敵対者によって「それは自業自得だ」というキャンペーンが始められる。

マッシモ・イントロヴィニエ

7本の記事の1本目

大和西大寺駅周辺
日本の奈良県の近鉄大和西大寺駅北口周辺。ここで2022年7月8日に安倍が暗殺された。事件の数時間後。

「鹿を指して馬となす」という中国のことわざがある。趙高は紀元前3世紀末に退位した秦の二世皇帝に仕えた丞相であった。彼は帝位を簒奪することを計画したが、宮中で彼を支持するのは誰かを見定める必要があった。そこで彼は皇帝に鹿を示して、それが馬であると言ったのである。皇帝がそれは鹿ではないかと言うと、彼は宮廷の臣下たちにそれが馬であると言わせようとした。多くの者は趙高を恐れてその通りだと言った。彼は鹿であると言った者たちを処刑し、その後に謀反を起こした。

「鹿を指して馬となす」のように、悪意をもって言葉の意味を逆転させることは今日、宗教的マイノリティを差別する際にしばしば行われる。彼らが犯罪の被害者となるとき、それは自業自得だと示唆されるのである。被害者は加害者と呼ばれ、加害者は被害者と呼ばれる。それはレイプ犯を擁護する悪徳弁護士の戦略を思い出させる。彼らは決まってレイプされた女性に対して、十分に控えめな服装をしていなかったからだと非難するのである。

2022年6月16日、韓国で一人の男が彼の前妻とその兄弟の妻を殺した。後者は深い傷を負っていた。彼の主たる動機は個人的なものであったかもしれないが、彼は自分が罪を犯したのは、その妻が新天地と呼ばれる新宗教運動の信者だったからだと主張した。彼は犯罪の24時間前に、異端的「カルト」であるとみなすグループと闘うことを専門とする組織「異端相談所」に相談した。同相談所が殺人を犯すように示唆したわけではないが、彼の新天地に対する憎悪を刺激したのである。犯罪の後、同相談所は記者会見を開き、殺人犯は実は被害者であり、責任は新天地にあると主張した。彼らが言うには、彼の妻が新天地に入信しさえしなかったら、この哀れな男は残りの人生を刑務所で過ごさなくても良かったのである。彼は終身刑になる可能性が高かった。

新天地の信者
6月16日の殺人事件の後に抗議する新天地の信者たち

2019年1月3日、一人のティーンエイジャーがオーストラリアのシドニーにある自分の母親が所属するサイエントロジー教会の敷地内に入り、サイエントロジーの信者にナイフで致命傷を負わせた。裁判において、二人の専門家が彼は統合失調症であると宣告したため、後に彼は刑事責任がないと認定された。しかし本物のパラノイア患者にも実在する敵はいるのである。彼は母親と別の理由で喧嘩していたのだが、サイエントロジーを悪者として描くプロパガンダもまた、彼の弱い心を刺激したかもしれないのである。ここでもサイエントロジー反対派はメディアに対し、犠牲者のためには涙を流すこともなく、サイエントロジーは母と息子との間に敵意を作り出したと言われていることに関して、非難されるべきだと言ったのである。

新天地やサイエントロジーに対して人が何と思おうと、これらは被害者を加害者に逆転させたとんでもないケースである。そしてわれわれはいま、この歪んだ論理の中でも最も驚くべきケースを目にしている。安倍晋三の殺害である。5つの基本的な事実を考察してみよう。第一に、暗殺者の山上徹也は統一教会のメンバーではなく、過去においてもメンバーであったことはなかった。現在この団体は世界平和統一家庭連合と呼ばれている。

第二に、彼の母親は1998年に統一教会に入教し、いまもそこにいる。彼女は2002年に破産宣告しており、安倍を殺した犯人と彼女の義理の兄はどちらも彼女が教会に捧げた過度な献金を非難しているのは事実である。その義理の兄が苦情を申し立てたのち、二人の教会員が分割で献金の50%を返金した。

第三に、安倍晋三もまた統一教会のメンバーではなかった。彼は統一教会の指導者によって創設されたNGOであるUPFの2021年のイベントにビデオを送り、2022年のイベントにはメッセージを送った。同じことをドナルド・トランプも、元欧州委員会委員長のジョゼ・マヌエル・バローゾとロマーノ・プローディも、そしてその他あらゆる信条の数十人の政治家たちも行った。

第四に、彼の母の破産は、彼自身が言っているように、山上の統一教会に対する憎悪の原因となった。しかし、破産が起きたのは2002年であり、山上が安倍を殺したのは20年後の2022年である。山上の殺意の引き金を、それ以前ではなく2022年に引いたものは何だったのか。我々が知っている事実は、山上が日本で広まっている反統一教会キャンペーンをフォローしていたということだ。彼は教会に敵対する仲間とソーシャルメディアで交流していた。安倍を殺した前日に、山上は米本和広に手紙を書いている。米本は、過去における統一教会信者に対するディプログラミングまたは「棄教」を目的とした拉致の実行に反対していた点では称賛に値するが、彼は教会に対しては反対の立場だった。山上は反統一教会的な環境と交わり、教会に対するヘイトスピーチにさらされていたのである。それが彼の弱い心を変えさせた可能性がある。

第五に、安倍を殺す前に、山上は家庭連合の指導者である文夫人の暗殺を計画しており、彼はかつて家庭連合の教会として使われていたビルを撃つことによって、自分の武器をテストしたのである。

韓鶴子総裁
韓鶴子総裁:山上は彼女の暗殺も願っていた。

山上は教会を憎んでいた。そしてこの憎しみは反統一教会活動家のヘイトスピーチによってあおられた。自らの責任を隠すために、彼らは明らかに被害者である統一教会をあたかも加害者であるかのように非難した。

言葉をねじ曲げることは、悲惨な結果をもたらす。馬を指して鹿となした後に、趙高は束の間の成功を収めるが、最終的には秦帝国の滅亡をもたらし、彼自身殺害されている。被害者を加害者と呼び、加害者を被害者と呼ぶことは、同じように破壊的な社会的ポテンシャルを持っている。反統一教会の計略を進めるために安倍暗殺の事実を操作する者たちは、おそらく立ち止まってよく考えなければならないであろう。

以上の記事のオリジナルは以下のURLで見ることができる。
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『世界思想』巻頭言シリーズ11:2022年5月号


 私がこれまでに平和大使協議会の機関誌『世界思想』に執筆した巻頭言をシリーズでアップしています。巻頭言は私の思想や世界観を表現するものであると同時に、そのときに関心を持っていた事柄が現れており、時代の息吹を感じさせるものでもあります。第11回の今回は、2022年5月号の巻頭言です。

新しい大統領の下で未来志向の日韓関係構築を願う

 5年に一度の韓国大統領選で尹錫悦氏が当選し、5月10日に第20代大統領に就任します。尹氏は当選直後の記者会見で「未来志向の日韓関係を築いていきたい」と述べ、岸田首相との電話会談でも日韓関係の好転に向けて協力することで一致しました。これを受け「戦後最悪」とまで言われた文在寅政権下での日韓関係を転換させ、かつての友好を復活させることに対する期待が高まっています。

 一方で、発足直後の尹錫悦政権の前に立ちはだかるのは、元徴用工訴訟に代表される歴史問題の解決であると言われています。日本との安保・経済協力と歴史問題を包括的に解決することが、新しい大統領に課せられた使命であると言えるでしょう。
 冷戦時代の日韓関係は、安全保障と経済協力という二つのキーワードによって成り立っていました。日本は北東アジアにおける共産主義陣営の拡大に対抗するため、「反共の防波堤」である韓国を支援する必要があり、韓国は北朝鮮に対して優位に立つために日本の協力を必要としました。「歴史問題」の火種となるような事実はこのころも存在していたにも関わらず、それが問題とならなかったのは両国政府の利害が一致していたからです。

 このころ日本は既に先進民主主義国であったのに対して韓国は開発独裁国であり、その国力には大きな差があったために、日本が韓国を助け、韓国は日本に依存することによって安全保障という共通の利益を享受するという関係が成立したのです。韓国が経済的発展を維持することで政治的に安定し、徐々に民主化を達成することは、日本の利益にもなると考えられました。

 こうした日韓の経済協力によって韓国は持続的経済発展を続け、北朝鮮に対して圧倒的な優位を確立するという目標を達成したわけですが、その結果として日韓の経済的格差も急速に縮まり、韓国は一人当たりのGDP、軍事力、国際社会に対する文化的影響力などにおいて日本に迫るほどの国力を持つようになりました。いまや日韓は相互補完的な共存関係から、互いの優劣を争う競争関係になりました。その結果、それまで両国政府によって抑制されていた「歴史問題」が顕在化するようになったのです。

 日韓が対等な関係になりつつある現在、韓国を一段下にみるような日本の古い思考方式や、日本に対してなら何をやっても許されるという韓国側の甘えを棄てて、成熟した大人の友好関係を築くことが必要です。そのモデルは、尹大統領も言及している1998年の日韓共同宣言にあると言えるでしょう。

 この宣言の特筆すべきポイントは、①国交正常化以来の日韓協力が相互の発展に寄与したという共通理解を確認したこと、②対北朝鮮関与政策をめぐって日韓が一致・協力すること、③地球的規模の諸問題の解決に向けて協力するための「国際公共財」として日韓関係を位置づけたことにあります。

 未来志向の日韓関係というからには、お互いにどのような未来を目指すのかという目標が明確でなければなりません。自由と民主主義という共通の価値観に基づき、北朝鮮の脅威を取り除き、二国間関係のモデルを世界に提示するような日韓関係の構築を両国政府に期待します。

カテゴリー: 『世界思想』巻頭言シリーズ

統一神学大学院修士論文シリーズ42


緊張と統合:内村鑑三におけるキリスト教と日本の精神

 このシリーズでは、私が1994年に執筆した統一神学大学院(Unification Theological Seminary)の神学課程修士論文(Divinity Thesis)を日英二か国語で掲載している。

結論の続き

 このように内村のキリストに対する忠誠は、彼を社会制度の義務・役割から解放すると同時に、キリストにある新しいアイデンティティー(自己否定と献身)を彼に提供した。しかしキリストに対する忠誠は、これらの動機や行動をより高く超越的な次元へと引き上げ、彼はそこから自分の(キリストに対する)忠誠の性質を、彼の家庭的、社会的、国家的役割における行動という面と、社会におけるこれらの人間としての役割を果たしていく上での動機と願望という面の両方において、批判的に判断することが出来たのである。

 しかし時が経つにつれて、彼は人間の文化に対してより悲観的になり、『二元論者』の立場に近づいて行った。彼のキリスト教文明に対する希望は、第一次世界大戦によって完全に破壊され、彼は最終的にキリストの再臨の信仰に至ったのである。このようにして内村の信仰は成熟した。彼は現在の世界においては全てが矛盾しており、この矛盾の真の解決は、将来現在の世界が作り変えられるときにのみあることを学んだのである。彼は自分の神に対する信頼にのみ慰めを見出し、待ち望むこと、そして忍耐強く苦しみを受けることさえも決意したのである。

 内村は死ぬ五年前に、有名な「二つのJ」の声明を英語と日本語の両方で書き記しており、それは彼のキリストに対する忠誠と祖国に対する愛を簡潔に表現している。

私は二つのJを愛する。第三のものはない。一つはイエス(Jesus)、もう一つは日本(Japan)である。私は自分がイエスと日本のいずれをより愛するのか、自分でも知らない。イエスのゆえに、私はヤソとして同胞に憎まれ、日本のゆえに、国民的であり偏狭だとして外国宣教師に嫌われる。だが、私はすべての友を失なうとも、イエスと日本を失なうことはない。
イエスのゆえに、父なる神のほか、いかなる神も神もしくは父として仰ぐことはできない。
また日本のゆえに、外国人の名によって来るいかなる信仰も受け入れることはできない。
飢えよ来たれ、死よ来たれ。私はイエスと日本を失うことはない。
私は日本的キリスト者である。たとえ宣教師たちがかかる名称を好まないと知ってはいても。
イエスと日本。私の信仰は一つの中心をもつ円ではなく、むしろ二つの中心をもつ楕円である。
私の心情と知性はこの二つの愛称を中心に回転する。そうして一方が他方を強める。
イエスは、私の愛国心を強め、清める。日本は、私のイエスへの愛を明らかにし、客観化する。
もしこのふたつがなかったなら、私は夢想家となり、狂信者となり、無定形の一般人となったであろう。
イエスは私を世界人とし、人類の友とした。日本は私を愛国者とし、それによって、私を地球とかたく結び付ける。
私はこのふたつを同時に愛することによって、狭くなりすぎも広くなりすぎもしない。
ああイエスよ。汝はわが魂の太陽であり、愛する救い主である。私は汝にすべてをささげる。
ああ日本よ。国々のなかの国よ。汝のために、われらはわれらの心と祈りと犠牲をささげよう。
汝のゆえに、われらは、けだかく生き、汝のために死ぬであろう。

Conclusion(Cont.)

Thus Uchimura’s loyalty to Christ both freed him from the ascribed role-obligations of his social order and provided him a new identity in Christ, a self-denial and self-dedication but set these motivations and actions in a higher or transcendent context from which he could critically judge the nature of his loyalty (to Christ) both in his actions in his roles in the family, society and nation and his motivations and aspirations in fulfilling these human roles in society.(3)
As time passed, however, he became more pessimistic about human culture and came closer to the position of dualists. His hope for Christian civilization was completely ruined by World War I, and finally he reached the faith in the Second Coming of Christ. Thus Uchimura had matured in faith; he had learned that everything is a paradox in the present world and the only real solution to this paradox lies in the future when the present world is replaced. He decided to wait and even to suffer patiently, finding his only consolation in his trust in God.(4)
Five years before his death, Uchimura composed in parallel English and Japanese his famous “Two J’s” statement, which expressed concisely his loyalty to Christ and love of country.

I love two J’s and no third; one is Jesus, and the other is Japan.
I do not know which I love more, Jesus or Japan.
I am hated by my countrymen for Jesus’ sake as yaso,(5)and I am disliked by foreign missionaries for Japan’s sake as national and narrow.
No matter; I may lose all my friends but I cannot lose Jesus and Japan.
For Jesus’ sake, I cannot own any other God than His Father as my God and Father; and for Japan’s sake, I cannot accept any faith which comes in the name of foreigners. Come salvation; come death; I cannot disown Jesus and Japan; I am emphatically a Japanese Christian, though I know missionaries in general do not like that name.
Jesus and Japan; my faith is not a circle with one center: it is an ellipse with two centers. My heart and mind revolve around the two dear names. And I know that one strengthens the other; Jesus strengthens and purifies my love for Japan; and Japan clarifies and objectifies my love for Jesus. Were it not for the two, I would become a mere dreamer, a fanatic, and amorphous universal man.
Jesus makes me a world-man, a friend of humanity; Japan makes me a lover of my country, and through it binds me firmly to the terrestrial globe. I am neither too narrow nor too broad by loving the two at the same time.
O Jesus, thou art the Sun of my soul, the saviour dear; I have given my all to thee!
O Japan,
Land of lands, for thee we give,
Our hearts, our pray’rs, our service free;
For thee thy sons shall nobly live,
And at thy need shall die for thee.”(6)
– J. G. WHITTER

(3)Ibid., p.97.
(4)Ibid., p.105.
(5)A derogatory term for a Christian.
(6)op cit, Uchimura, Zenshu, XV, 599-600.

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統一神学大学院修士論文シリーズ41


緊張と統合:内村鑑三におけるキリスト教と日本の精神

 このシリーズでは、私が1994年に執筆した統一神学大学院(Unification Theological Seminary)の神学課程修士論文(Divinity Thesis)を日英二か国語で掲載している。今回から「結論」に入る。

結論

 我々は無教会運動を色々な言葉で描写すること事が出来るであろう。それは神秘実存主義的アプローチによって、キリスト教を日本に土着化させようとする試みである。それはピューリタンと侍の伝統の統合である。それはキリスト教版の禅であり、もしくは神道版のキリスト教である。構造的には、それは師弟関係に基づいた聖書研究会の運動である。社会学的には、それは職業的司牧も典礼も無く、カリスマ的リーダーの継承によって永続する反組織主義的な教会である。歴史的には、それは預言者の伝統の日本的な表現である。思想的には、それは個別主義に対する普遍主義の挑戦である。神学的には、それは他律に対する自律の挑戦であり、また神律への憧憬である。

 無教会運動は、その支持者の数が少ないにも関わらず、西洋のキリスト教からの完全な独立と、日本の霊性の伝統的な特質との近さという両面において重要な意味を持つ。それはまた、静かで目立たないが力強い影響を日本のキリスト教に与えて来た。今日、自分の書棚に内村の最も有名な著作と、無教会の学者たちによる聖書に関する著作を置いていないプロテスタントの牧師は、ほとんどいないと言っていい。預言者たちの言葉が彼らの時代ではなく、後の時代に評価されたように、内村と無教会キリスト教の日本の文明に対する貢献は、歴史的な重要性を持っているのである。

 内村は突如として洪水の様に押し寄せてくる西洋思想の洗礼を受けた「明治日本の新世代」の一人であった。それは彼らに深刻な文化的アイデンティティーの危機をもたらした。この「新世代」の多くにとって、彼らの文化的、個人的なアイデンティティーの危機の単純な解決は、日本が日清戦争(1894ー1895)で劇的な勝利を収め、日本が西洋から強力な近代国家として認められた後に可能となった。しかし極く小数の感受性の強い者たちにとっては、帝国主義的な日本民族国家という意味での独立国の概念による解決は、彼らが初めから信奉してきた日本に対する(規範的な)理想とは相容れなかったのである。内村はこの「新世代」の中でも最も感受性の強い者の一人であった。

 土着化の観点からすれば、内村は神と文化の関係に関する最初の二つの極端なタイプ(「文化に対するキリスト」と「文化のキリスト」)に対して、一貫して反対した。無教会運動は西洋の宣教師達の『神は私の文化を支持している』という見解に対する反発であったし、また日本のキリスト教徒の中にいる嘆かわしい「無定形の普遍的人間」や、「国籍を失った日本人」の『文化に対する神』の立場に反対したものでもある。彼の不敬事件とそれに引き続く日本の国体との相克は、キリスト教が日本の文化的環境の中に崩壊してしまうことに対する抵抗であった。第二次世界大戦中に権力に迎合し、宗教的な言葉をもって軍国主義を正当化しようとしたキリスト者達の御都合主義に反対して、預言者の精神と良心とをもって警笛を鳴らしたのは、矢内原忠雄の率いる無教会運動であった。

 内村にとってキリスト教は、特定の歴史的実在から独立した超越的で普遍的な宗教であった(「文化の上にあるキリスト」の立場)。彼は若き日にキリストと日本を、さらには世界文明の二大潮流である東洋と西洋を和解させる『総合主義者』たらんと夢見た。しかし彼の西洋文明に対する無邪気な夢は、彼のアメリカ滞在中に打ち砕かれた。彼の日本に対する無批判の愛もまた、不敬事件とそれに引き続く「不義なる日本」との直面によって破壊された。彼の生涯において最も活動的であった期間、彼は『回心主義者』の立場をとり、日本社会の道徳的預言者として働いた。

Conclusion

We may be able to illustrate the Mukyokai movement in many ways. It is an attempt of indigenization of Christianity in Japan by a mystico-existential approach. It is a synthesis of the puritan and samurai traditions. It is a Christian version of Zen, or a Shintoist version of Christianity. Structurally, it is a movement of Bible study groups based on teacher-pupil relationships. Sociologically, it is an anti-organizational church, without professional ministry and sacraments, perpetuated through a succession of charismatic leaders. Historically, it is a Japanese expression of the Prophetic tradition. Ideologically, it is a universalistic challenge against particularism. Theologically, it is a challenge of autonomy against heteronomy; and also a yearning for theonomy.
Despite their small number of adherents, the Mukyokai movement is significant both for its complete independence from western Christianity and its closeness to the traditional features of Japanese spirituality. Also, it has had a silent and invisible, but powerful influence on Japanese Christianity. These days, there is virtually no Protestant minister whose personal library does not contain Uchimura’s most popular books plus some biblical works by Mukyokai scholars.(1) As the words of the Prophets were appreciated not by the people of their age but by later generations, the contribution of Uchimura and the Mukyokai Christianity to Japanese civilization has an historical significance.
Uchimura was one of “the new generation in Meiji Japan,” who suddenly found themselves immersed in a flood of Western ideas, which led them to a severe cultural identity crisis. For many of the “new generation” a simple resolution of their cultural and personal identity crisis became possible after Japan’s dramatic victory in the Sino-Japanese war (1894-1895) that led to the recognition of Japan by the West as powerful, modern nation-state. However, for a few sensitive individuals the resolution of the meaning of nationhood in terms of an imperialistic Japanese nation-state was incompatible with the (normative) ideal of Japan that they had espoused from the beginning. Uchimura was one of the most sensitive of the “new Generation.”(2)
From the viewpoint of indigenization, Uchimura was steadily opposed to the first two extreme types of understanding of God’s relation to culture (Christ against culture and Christ of culture). Mukyokai movement was a reaction against the God-endorsing-my culture perspective of the western missionaries, as well as the God-against-culture position of the lamentable “amorphous universal men” or “denationalized Japanese” among Japanese Christians. His Lese Majesty Incident and the subsequent conflict with national polity of Japan was a resistance against the collapse of Christianity into the Japanese cultural milieu. It was Mukyokai movement, lead by Tadao Yanaihara, that rung an alarm bell, with prophetic spirit and conscience, against the opportunism of Christians under World War II who accommodated itself to ruling power and tried to rationalize militarism in religious terms.
For Uchimura, Christianity was a transcendent or universal religion, independent of particular historical realities. (Christ above culture position). As a young man he dreamed to be a synthesist of Christ and Japan, as well as the two great streams of world civilization, of reconciling the East and West. However, his naive dream of western civilization was broken during his stay in the United Sates. His uncritical love for Japan was also crushed by the Lese Majesty Incident and the subsequent confrontation with “unrighteous Japan.” In his most active lifetime, he took the position of conversionist, acting as a moral prophet of Japanese society.

(1)op cit, Caldarola, p.209
(2)op cit, Robert Lee, p.92.

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