Moonism & Pausキリスト教講座シリーズ12:2023年2月号


 私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第12回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。最終回の今回は、2022年12月号に寄稿した文章です。

第12講:自然神学と啓示神学③:神の内在と超越

 「キリスト教講座」の第12回目(最終回)です。「自然神学と啓示神学」は組織神学の本質的なテーマの一つであり、キリスト教神学全体の中での統一原理の立ち位置を理解する上で重要なテーマです。今回はその中でも神の内在と超越について扱います。

 内在と超越というのは、神と被造世界との関係、とりわけ両者の距離感に関する両極の概念です。極めてシンプルに説明すれば、「神の内在」とは神が被造世界に遍在しており、私たちと非常に親密な関係にあることを意味しており、「神の超越」とは神と被造世界との間には断絶があり、神は遠く離れたところにおられるということを意味しています。

 これまで説明した内容との関係で言えば、福音派の神のイメージは超越神であり、自由主義の神のイメージは内在神ということになります。また、自然神学が神の内在を前提としているのに対して、啓示神学は神の超越を強調します。

 神の内在という考え方は、人間の基本的善性の強調につながり、原罪によって人間の性質が完全に腐敗しているとはとらえません。これが行きすぎると汎神論に陥ったり、神秘主義的傾向を帯びたりするようになります。「汎神論」とは、神と被造世界があまりに近づきすぎた結果、その区別がなくなったり、曖昧になったりするということです。現実のすべてが神になってしまいます。

 神学的には、神がそれほどまでに被造世界に浸透しているとすれば、どうして悪が生じたのかという「神義論」の問題が解決できなくなります。また信仰姿勢としては、神が直接人間に働くのだから、教会や司祭などを媒介としなくても、直接自分が神に出会えば良いという思想に傾き、神秘主義や教権批判といった方向に向かいやすい傾向にあります。また啓示の遍在性という思想の故に、『聖書』にしか神の啓示が現れないとする根本主義に反対することになり、他宗教との対話に理解を示すようになります。

超越神と内在神

 超越神と内在神をイメージで描くと【図1】のようになります。内在神を信じる人は、神は普遍的存在としてどこにもいるし、私の中にもいるのだから、わざわざ教会に行かなくても、司祭につながらなくても、自分が直接神に出会えばよいという発想になります。この考えを突き詰めていけば、教会に行く必要がなくなってしまいます。

 一方で超越神においては、私は罪深いから直接神に出会えないということになり、だからこそ教会や司祭は絶対に必要だということになります。そこには【図2】に示されたような縦的な秩序があり、神がみ言葉を下さり、そのみ言葉をつかさどる教会があり、その教会を媒介としてはじめて私は神につながることができると考えます。

 神の超越性を強調する思想は、基本的に人間や自然の中にはいっさいの神性を見出すことはできず、神は被造世界から独立し、遠く離れたところにいるととらえます。パウロ、ルター、カルヴァン、バルトなどの思想に色濃く現れている考え方が、この超越神です。彼らはみなキリスト教の世界においては非常に有名な人々です。キリスト教神学全体が超越神の方に傾いているのは、彼らの影響によるものだと言っても過言ではありません。

 この思想によれば、人間を含む被造世界は神からかけ離れているので、それらの中には神を見出すことはできません。したがって、自然神学は成り立たないととらえます。「人間からは神に近づくことができないので、神の方から人間にアプローチしてこなければ人間には救いの道はなく、人間の救いは徹底的に神の恵みによるものである」という思想が、福音主義神学の大前提となります。

 神の絶対超越性は啓示の必要性と結び付いており、イエス・キリストや聖書という啓示以外には救いの道はないと主張します。この思想は常に神の偉大性と神秘性を強調することによって、人間を謙虚にするという利点を持っています。超越神信仰の本質は何であるかというと、常に神の恵みに感謝し、「神を畏れる」ことを知る信仰者を育てることにあります。そしてキリスト教信仰が安易に時勢に流されることを戒め、本質に帰れと叫ぶのです。

 それでは、この問題に関する統一原理の立場はどのようになるのでしょうか? トマス・アクィナスに代表されるスコラや、バルトに代表される新正統主義に比べると、統一原理は神の内在性がより強調された神学であると言っていいでしょう。これは内在性が良いといっているのではなくて、従来のキリスト教神学の神観が神の超越的側面のみを一方的に強調してきたために、相対的にそのように見えるのであって、実は両者のバランスの取れた状態が望ましいわけです。

 内在性も度を過ぎれば自己と神を同一視する独善や、分派・分裂に走る危険をはらんでいます。超越性も度を過ぎれば、教条主義や自己の主体性を放棄した盲目的・盲従的信仰に陥る危険があります。どちらも度を過ぎれば問題となるのです。

 この講座の結論として言えることは、統一原理は極めてバランスの取れた神学であるということです。福音主義と自由主義の両方の立場を包含するような、幅広い内容を持っています。たとえば、『原理講論』の「総序」には、最終的な真理は人間の頭脳から編みだされるものではなく、「あくまでも神の啓示をもって、われわれの前に現れなければならない」と書いてあります。この部分はかなり啓示神学的なトーンで書かれていると言えるでしょう。これが「総序」の終わりの部分となります。

 ところが次のページを開いて創造原理に入ると、「被造物を観察することを通して神について知ることができる」と書いてあり、自然神学が展開されるのです。『原理講論』をそういう観点から読んでみると、自然神学的な部分と啓示神学的な部分が混在していることが分かります。にもかかわらず、全体として矛盾があるのではなく、首尾一貫しているわけです。

 統一原理は、一見矛盾するかのように思われる両極の考え方を統一して行く神学であると言えます。これまで解説した「自然神学」対「啓示神学」、「福音主義」対「自由主義」、「神の超越」対「神の内在」などの一見相反するような考え方を、全部抱き込んで一つにしていく、とても器の大きな神学が、統一神学なのだということです。このように既存のキリスト教神学との比較を通して統一原理の内容を見てみるときに、私たちの知らなかった奥深さがあるということを理解していただければ幸いです。

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