私がこれまでに「キリスト教講座」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』および『Paus』(連載途中で雑誌名が変更)に寄稿した文章をアップするシリーズの第11回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。未来を担う大学生たちに対して、キリスト教の基礎知識を伝えると同時に、キリスト教と比較してみて初めて分かる「統一原理」の素晴らしさを伝えたいという思いが表現されています。今回は、2022年12月号に寄稿した文章です。
第11講:自然神学と啓示神学②:特殊啓示と一般啓示
「キリスト教講座」の第11回目です。「自然神学と啓示神学」は組織神学の本質的なテーマの一つであり、キリスト教神学全体の中での統一原理の立ち位置を理解する上で重要なテーマです。今回はその中でも特殊啓示と一般啓示について扱います。
一般的なキリスト教の組織神学の教科書は、「啓示とは、神の人間に対する自己開示である」と定義しています。すなわち、神は無限な存在であり、人間は有限な存在なので、人間の側から神についてすべてを知ることはできません。神が自分はこういう存在であると開示してくださるときに、初めて人間は神について知ることができるということです。
この啓示には、二種類あることを一般的なキリスト教の組織神学では認めています。その一つが「一般啓示」と呼ばれるもので、これは「いついかなる時と場所においても神は人間と親しく交わり、ご自身を開示されるという意味での啓示」ということになります。伝統的な一般啓示の場としては、まず自然があります。自然の中に神が表れるということであり、これを根拠に「自然神学」が成り立つことになります。さらに、歴史的出来事の中に神が表れることもあり、良心や道徳的衝動のような人間の性質に神が働くことがあります。
それに対して「特殊啓示」とは、「神が特別な摂理的な時に、特別な人物に与え、『聖書』という特別な書物に記された内容という意味での啓示」のことを言います。バランスの取れた一般的な組織神学の教科書には、啓示には「一般啓示」と「特殊啓示」の二種類があると書いてあります。ところが極端な福音主義神学の立場では、「一般啓示」などというものはあり得ず、「特殊啓示」だけが啓示と呼ぶに値すると主張しています。福音主義は「一般啓示」を認めないのですから、それを根拠とする「自然神学」も認めないという立場をとります。
聖書に依らずとも、自然を観察することを通して神について知ることができるという立場の神学を、「自然神学」と言います。自然を観察して分析するのは人間の理性ですから、理性によって神を知ることができるという立場の神学であり、合理主義的で哲学的な神学であるといえます。自然神学は中世の神学者トマス・アクィナスによって集大成されたと言われています。彼の主張は、キリスト教の真理には、啓示によってしか知り得ない部分もあるが、合理的検証によって知りうる部分もあるというもので、その領域が「自然神学」の領域であるとしました。
トマス・アクィナスの神学は、自然と超自然という二階建て構造になっていました。自然神学の領域は、理性で考えれば誰でも分かる部分であるとされ、彼は神が実在していることは合理的に考えれば分かると言いました。そのため、彼は理性を駆使して5通りの神の存在証明を提示しました。
ところが、キリスト教の教えの中には、人間がどんなに一生懸命理性を働かせて考えたとしても、とても到達しえないような真理もあると彼は言いました。それが「三位一体」や「ロゴスの受肉」などの超自然的な事柄に関するキリスト教の教理です。これらは理性の到達できる領域を超えたことなので、啓示によってのみ知り得るキリスト教の真理であると彼は言ったのです。
このようにトマス・アクィナスはキリスト教の真理を超自然の部分(上部)と自然の部分(下部)に分け、自然神学を啓示神学の下に位置づけました。これが中世的神学の枠組みです。ところが、この中世的な神学が挑戦を受けるような時代がやって来ます。それが「理性の時代」です。まず宗教改革によってカトリックの伝統的権威が崩壊します。その次に、宗教的権威に挑戦する啓蒙思想が出てきます。啓蒙思想は理性によって認識し得るもののみが「真理」と呼ぶに値するという考え方です。これによってトマス・アクィナスの二階建て構造の上部に当たる超自然的な要素を、キリスト教から排除しようという神学が出現したのです。これが自由主義神学であり、ルネッサンスと啓蒙思想を経てヨーロッパのキリスト教の主流となり、19世紀に全盛期を迎えました。
自然神学は、科学と宗教は基本的に矛盾しないという立場をとり、人間の理性を高く評価する楽観的な神学です。人類は右肩上がりに成長し、進歩していくという「進歩の思想」です。一方で、人間の罪深さや悪魔性については強調しないので、危機の時代においては無力な神学であると批判されることもあります。
19世紀まで発展してきた理性を賛美する自然神学が、突如として挫折した大きな事件が第一次世界大戦でした。人間の科学技術が大きく発展した時代に起こったこの戦争は、その科学力で大量の人を殺したという事実を突きつけ、理性礼賛の時代に終焉をもたらしました。第一次世界大戦によって人間が持っている罪深さや悪魔性がヨーロッパの人々の前に絶望的な形で示されることによって、合理的に発展しさえすれば理想世界が来るという考えが吹っ飛んでしまったのです。そして、あらためて人間は罪深い存在だということが認識されるようになりました。そこに登場した神学者がカール・バルトでした。
バルトは、ドイツのナショナリズムやヒトラーのナチズムと簡単に結びついて同調してしまうような自然神学の薄っぺらさを批判し、徹底した啓示神学の立場を確立しました。人間は罪深いので、神の啓示によらなければ真理を知ることはできないと、徹底的に主張したのです。このバルトの影響下にある福音主義神学は、神の恵みによらなければ、啓示によらなければ、絶対に神を知ることはできないと強調することになります。
バルトが否定した一般啓示と自然神学にも、以下のような利点があると整理することができます。第一に、この考え方は神の真理は聖書に限定されないととらえるので、聖書を信じない人にも神を説くことができます。次に、聖書には表現されていない自然の美や科学的知識を通して神を知る道を閉ざさないという利点があります。さらに「聖書のみ」を強調しないので、他宗教との対話の道を開くという利点があります。統一原理は、啓示神学だけでなく、自然神学の価値をも認めているということができます。