櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第211回目である。
第四刷の「まえがき」は2022年7月19日に脱稿したと櫻井氏自身が言っている通り、この文章は事件直後に書いただけに、その後の展開については櫻井氏の予想が大きく外れているのは興味深い。櫻井氏は、「いかに社会的に意義のある主張であっても目的のために暴力的手段も排除しないという行動主義は、逆の結果を招くだけである」(p.XI)と言っているが、実際には山上被告の思惑通りにことは運び、テロによってその目的を達成しようという彼の意思を日本社会全体が実現することになった。
櫻井氏は、「大手新聞やテレビ局のように資本(出資者や広告)や記者クラブなどに拘束されたマスメディアでは、統一教会と自民党の関係を詳細に報道し、質すまでの報道には限界がある。」(p.XI)と言っているが、実際には統一教会と自民党の関係を糾弾する急先鋒に真っ先に立ったのはマスコミであった。テレビ、新聞、週刊誌その他のマスメディアが一丸となって統一教会と関係があるとされた自民党の政治家を一斉に攻撃し、遂にはそのことを理由に閣僚を辞任させられる事態にまで発展した。内閣改造のたびに、統一教会との関係について身体検査をしなければならない事態になった。
櫻井氏は、「当の自民党だが、選挙に勝ち権力の中枢にいることを党の最大戦略としている以上、支援者や後援者との関係において宗教団体への対応や宗教行政を根本的に変えることは考えにくい。むしろ、自民党として宗教団体との付き合い方を反省するよりも治安強化の施策を打ち出す可能性が高い。民主主義を破壊するテロに屈しないというスローガンの前に、山上容疑者が提起しようとした統一教会問題はかすんでいくのではないか。」(p.XI)と言っているが、この予言はもののみごとに外れた。
実際には2022年8月31日に岸田首相が記者会見し、自民党総裁として、「社会的に問題が指摘される団体と関係を持たない」という言い方で、統一教会との関係断絶宣言を行った。さらに茂木幹事長も「今後、旧統一教会および関連団体とは一切関係を持たない。これを党の基本方針とする」としたうえで、「仮に守ることができない議員がいた場合には、同じ党では活動できない」とまで言ったのである。
同年10月26日には自民党がガバナンスコードを改訂し、原則5-4を追加して、「党所属の国会議員は、活動の社会的相当性が懸念される組織・団体からの不当な政治的影響力を受けること、または、その活動を助長すると誤解されるような行動について厳にこれを慎むものとする。」と明記した。そしてご丁寧にこの改訂を知らせる添状に「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関係遮断について」と表記し、①祝電・メッセージの送付、②会合・行事などへの参加、③選挙支援を受けること、④資金的な支援を受けることなど、慎むべき行動の具体例を表示したのである。
つまり、マスコミも自民党も、櫻井氏の予想をはるかに超えて、反統一教会の方向に大きく舵を切ったのである。「では、山上容疑者はどうすればよかったのか」(p.XII)という問いに対して櫻井氏が提示している回答は、民事訴訟による被害の回復と、「被害者」の支援グループによるセーフティネットの活用である。これらはこれまで長年にわたって行われてきた活動であり、対策がこの次元で済めば統一教会にとってはむしろ幸運であっただろう。ところが事態は櫻井氏の予想をはるかに超えて暴走し、統一教会の存在そのものを抹殺すべきという方向、すなわち解散命令へと向かって動き出したのである。
櫻井氏は「6 統一教会に対する宗教法人の認証・解散」の中で、オウム真理教に対する解散命令に触れたうえで、「統一教会の場合、オウム真理教とは異なり、刑事的事件となった例が少なく、民事的事件が大半であることから同様の対応をとることは極めてハードルが高いだろう。そもそも、宗教法人法は宗教法人の認証にかかわる法律であって、宗教法人を監視し行政指導を行うような法の構成ではない。」(p.XV)と述べているが、この予言ももののみごとに外れた。
実際には文部科学省は2022年11月22日から、統一教会に対して宗教法人法に基づく「質問権」を7回にわたって行使し、これに誠実に答えなかったことを理由に、統一教会に対して過料を科すよう求めた裁判が提起されるに至った。これらは実質的に宗教法人に対する監視と行政指導に等しい。しかもかなり恣意的な運用だ。
そしてついに2023年10月13日、文部科学省は、統一教会に対する解散命令の請求を東京地方裁判所に行った。これも「極めてハードルが高い」という櫻井氏の予想を裏切る結果となった。しかし私は、そのことで櫻井氏を責めようとは思わない。統一教会に対して極めて批判的なスタンスを取る櫻井氏ですら予想できなかったほど、安倍元首相暗殺事件から統一教会に対する解散命令請求に至るまでの一連の流れは、常軌を逸したものだったのである。むしろ櫻井氏の予想の方が良識的で合理的であった。しかし、現実は彼の予想をはるかに超えて暴走したのである。
一方で、宗教法人解散の意味を矮小化しようとする櫻井氏の言説は評価できない。彼は「本書で詳細に述べられるとおり、統一教会は一宗教法人だけの存在ではない。数多くの政治団体や企業体を含むコングロマリットである。仮に統一教会の名称による宗教法人として解散を命じられたとしても、別の宗教法人を設立したり新たな社団法人や財団法人などを結成したりして活動は継続されるだろう。その意味では、宗教法人としての処遇を問題化することは大いに意義あることであっても、もとより正体隠しの勧誘活動を行うこの教団にとって痛くも痒くもないのかもしれない。」(p.XV)
こうした「痛くも痒くもない」的な言説もこれまで山ほど聞かされてきた。解散命令請求が現実味を帯びる中で、マスコミや統一教会に反対する人々は、「解散命令が出されたとしても、法人格を失って税制面での優遇措置がなくなるだけで、宗教団体としての活動は継続できるので、信教の自由を侵害することにならない」といったような、問題を矮小化させるための発言を繰り返してきた。しかし、これらは嘘である。
宗教法人に対する解散命令は、宗教法人に対する「死刑宣告」を意味する。なぜなら解散とは宗教法人が宗教活動を行う目的を停止し、財産関係を清算すべき状態になることを意味するからだ。この根拠としては、宗教法人法四八条の2に「解散した宗教法人は、清算の目的の範囲内において、その清算の結了に至るまではなお存続するものとみなす」と書いてあり、この解釈として、『逐条解説 宗教法人法』(ぎょうせい)の二八七頁には「清算法人が従来の目的たる活動を復活させることは目的の範囲内に入らない」と書いてある。要するに、解散したら宗教活動はできないのである。
具体的には清算人がやって来て、法人は清算の目的の範囲内において存続し、清算手続きを経た後に消滅する。したがって、法人が解散されれば法人として所有する財産に対する所有権をすべて失い、礼拝堂を含む宗教施設は宗教目的では使えなくなる。仮に「宗教法人」の解散後、信徒たちが新たに別の団体を立てて宗教活動をしたいと思っても、鉛筆一本、紙一枚もない、文字通りゼロの状態から出発しなければならないのである。これ自体が信教の自由に対する重大な侵害である。「痛くも痒くもない」的な言説は、宗教法人解散の重大性から国民の目を背け、「それはいくらなんでもやり過ぎだ」という国民世論が起こることを防止するための、統一教会反対派の戦略に基づくものなのである。
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さて、いったん2020年8月26日に最終回を迎えた「書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』」シリーズに4回分の追加を執筆した理由は、前述のとおり櫻井氏が第三刷と第四刷にあたって、それぞれ「まえがき」に加筆をしているので、その部分について私なりの論評をするためであった。
しかし、そもそもその「まえがき」に注目するようになったきっかけを作ったより重大な出来事があった。それは、これまでブログで発表してきたこのシリーズの全文を書籍として発行しようという計画が持ち上がったということだ。このシリーズはもともと207回と非常に長く、文字数だけで80万字を超える。それを一冊の書籍として発刊するのは大仕事であり、コストもかかる。そんなに長い本を多くの人が買って読むとも思えないので、当然コスパは悪くなる。
それでも櫻井氏と中西氏の共著になる『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』は、日本では最も権威ある学術的研究という位置づけになってしまっているので、それに対してきちんとした反論を出版しておく必要があるとの声があり、書籍化に取り組むことにした。近いうちに、私がこれまで温めてきた内容が一冊の本として結実し、世に出ることを楽しみにしながら、このシリーズを終了したい。 <了>