櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第210回目である。
第四刷にあたって加筆された「まえがき」についての論評の続きである。
「4 統一教会と自民党」では、笹川良一や岸信介と教団との歴史的な関係に触れたうえで、国際勝共連合と自民党の関係について概観している。これもまた巷間言われていることをまとめただけの内容だが、一つだけ甚だしい勘違いに基づく記述があるので正しておきたい。櫻井氏は勝共連合の活動を一通り説明したうえで、以下のように述べている。
「ところが、1989年にベルリンの壁が崩壊して東西冷戦が崩れ、文鮮明が1991年に北朝鮮の金日成を電撃訪問して金剛山開発に資金援助の約束をして戻ってきた。共産主義打倒という理念は消え失せ、はしごを外された初代の日本統一教会の会長であり国際勝共連合を率いてきた久保木は傷心のうちに死去した。」(p.IX)
このような認識は、教団の内部には一切存在せず、文鮮明師の北朝鮮訪問の真意を理解できない外部勢力からの批判をそのまま文字化したに過ぎない。1991年12月6日、文鮮明師は北朝鮮の咸鏡南道にあるマジョン主席公館で金日成主席と単独会談して世界を驚かせた。文師は国際勝共連合の創設者として、早くから共産主義を批判克服する運動を世界的に展開してきた保守勢力の代表的人物として知られていたため、多くの者がこの会談の意味を理解できず、中には文師の売名行為であるとか、反共思想を棄てて変節したなどと批判した者もいた。そこでこうした誤解を正すため、ここで多少多めの紙幅を使ってでも文師訪朝の真意を解説することにする。
当時は冷戦末期であり、ソ連を中心とする国際共産主義の終焉が近づいていたのと同時に、北朝鮮の核兵器開発疑惑に対する国際社会の批判が高まっていた。こうした中で1990年4月、文師はモスクワを訪問してゴルバチョフ大統領と会談。ソ連がもう長くないことを直感した。宗主国のソ連が崩壊すれば、共産陣営は雪崩を打って崩壊するに違いない。そこで文師は冷戦終結後の朝鮮半島情勢を心配したのである。
当時アメリカでは、北朝鮮の核兵器開発に対する強硬論が台頭し、やられる前に北朝鮮の核施設を拠点攻撃してしまおうという「防衛的先制攻撃論」が急浮上した。もしそうなれば朝鮮半島で再び戦争が起こり、祖国が火の海になってしまう。文師はそのことを危惧した。文鮮明師の対北朝鮮戦略は、基本的に「軟着陸」による平和的統一であった。
そこで文師が考えた戦略は、ます金日成主席と直接会って、核兵器開発の野望を放棄させることであった。そして次にアメリカを説得して「先制攻撃」の妄想を捨てさせ、北朝鮮との直接対話をさせることである。
このようにして朝鮮半島に再び戦争が起きるのを防止することが、文師が訪朝を決意した第一の動機である。しかし、文師の胸中にはもう一つの動機が隠されていた。それはいつか北朝鮮を訪問して、彼らの「主体思想」の誤謬を暴いてやらなければならないという秘かな決意である。そして文師は実際にこれをやってのけたのである。
文師一行が北朝鮮を訪問して三日目、万寿台議事堂で尹基福朝鮮海外同胞援護委員会委員長と金達玄副総理一行との会談が準備された。その中で当初の予定にはなかった演説を文師が突如として初め、「主体思想」を批判し始めた。
「何が『主体思想』か。主体思想が人間中心の思想だと? どうして人間が宇宙の中心になるのか。人間も一つの被造物であることを知らないのか。人間は創造主ではない! 被造物である。だからその人間の上に創造主である神様がいらっしゃる。そんなことも知らずに、何が『主体思想』だ。その主体思想をもって祖国を統一するだと? とんでもない。主体思想の上に神様を戴かなければならない。神様を戴いてこそ北朝鮮は生きる。」
「主体思想をもって統一はできない。統一は神様がなさることである。したがって、神主義、頭翼思想によらずして統一はできない。統一は私がやる。私に任せてみなさい。私が北朝鮮を生かしてやる。」
これには同行した朴普煕・韓国世界日報社長(当時)も「終わった。われわれは皆、死んだ」と覚悟を決めたという。朴氏は文師に対して、金日成に会うことは断念しなければならないと提言した。しかし、文師の答えは意外なものだった。
「私は何も金日成主席に会いに来たのではない。私は真理を語るために来たのだ。これはまた金日成をテストすることである。私がちょっとひどいことを言ったからといって合わないというなら、度量が狭い男だろう」
万寿台議事堂での事件は当然、金日成主席に報告されたはずだか、結果として金主席は文師と会うことを決断した。金主席は「話しはみんな聞いたよ。文師が祖国統一をするってな。そうか。統一は誰がしてもいいじゃないか。統一がなればそれが一番だ。私はそういう腹のある人間が好きだ。」と言って痛快に笑ったという。金日成主席は文師のテストにパスしたことになる。
こうして12月6日の歴史的会談が実現した。万寿台議事堂における爆弾宣言とは打って変わって、金日成主席に対して文師は極めて外交的に接しながら、①離散家族の再会事業の開始、②北朝鮮が核査察を受け入れる、③北朝鮮に対する経済投資、④南北首脳会談の実現、⑤金剛山開発事業の実施――といった重要な案件を次々に合意していったのである。文鮮明師の訪朝は、売名行為でもなければ変節でもない、初志貫徹と実践躬行の模範例であった。
さて、櫻井氏は自民党と統一教会の関係について、「保守的な家庭・地域・民族など共同性を重視する価値観が共有されている程度」(p.X)であり、「イデオロギーや心情を共にした盟友というよりも、互いに相手を利用し合った戦略的互恵関係という方がよいだろう。」(p.IX)と分析している。それで十分ではないか。もとより特定の政党や政治家を応援する団体と、応援される政治家との関係は「戦略的互恵関係」そのものであり、政治家は多数の団体とそのような関係を結ぶことによって票を獲得しているのが現実である。仮に自民党の政治家と統一教会の友好団体である世界平和連合などがそのような関係を結んだとしても、そのこと自体は法的にも同義的にも何の問題もない。むしろそれは民主主義のあり方そのものである。
日本国憲法前文は「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し…」という文言によって始まる。したがって、国民が自分の意思や願いを実現しようと思えば、選挙で選ばれた国会議員を通じて行うのが筋である。すべての日本国民には政治に参加する権利が保障されており、選挙活動に携わり一票を投じることは、国民の権利であり責務である、というのが憲法の理念である。これは個人のみならず、団体にあっても同様である。統一教会の友好団体がこの権利を行使することは至極当然であるにもかかわらず、あたかもそれが問題であるかのように事件後のマスコミは差別的な報道を繰り返してきた。
その論調に乗っかって櫻井氏は、「こうした野放図な関係は途方もないリスクをはらむむのとなった。山上容疑者によるテロである。」(p.X)と言い放ち、統一教会と自民党の関係そのものに問題があったので、それがリスクとなってテロを引き起こしたかのような主張を展開している。これはまるで、「安倍元首相という大看板を利用して、統一教会問題を最大限にアピールしようという容疑者の意思」(p.X)に一定の理があるかのような言い方である。
たしかに櫻井氏は、「5 統一教会問題はいかに解決されるべきなのか」の中で、「テロは絶対に許されない」(p.X)とか、「安倍元首相の命を奪う暴挙は絶対に許されるものではない」(p.XI)と言っており、一応はテロを否定している。しかしそれは、「私自身は山上容疑者の家族や人生の経歴について同情を禁じ得ない」とか、「いかに社会的に意義のある主張であっても」(p.XI)という付帯条件付きでの否定なのである。事件後、この種の発言を山ほど聞いてきた私としては、こうした言説を述べる人々の本音は、むしろ「テロは許されない」は枕詞に過ぎず、本当に言いたいのは、「山上氏は被害者であり、統一教会に対する制裁が必要だ」ということだと断言できる。
それはその後の行動からそう言えるのである。もし「テロは許されない」が本音であれば、安倍元首相暗殺事件の真相究明と、テロ防止のための施策、警備体制の見直しなどが中心的な行動になったはずである。しかし実際にはそうしたことはほとんど行われず、マスコミは統一教会の糾弾に明け暮れ、自民党は統一教会との関係断絶宣言を行い、国会では「不当寄付勧誘防止法」が成立し、政府は統一教会に対する解散命令請求を裁判所に出すに至った。
もし本当にテロが許されないのであれば、テロリストである山上被告の名前をマスコミが連呼することはあり得なかったはずだ。こうした事件に対する模範的な対応として、2019年3月にニュージーランドでモスクが襲撃され、50人のイスラム教徒が死亡したテロ事件の後で、同国のアーダーン首相が議会で行った演説を挙げることができる。この事件は白人至上主義者が起こしたものだが、そこにはイスラム教徒によるテロが続いたことへの報復の意味合いがあったとみられていた。しかし、アーダーン首相は犯人の動機や背景には決して触れなかった。彼女は「テロの目的の一つは悪名をとどろかせることだ。だから私は今後、男の名前を言うことはない。むしろ命を奪われた人たちの名前を呼ぼう。ニュージーランドは男に何も与えない。名前もだ。」と述べた。これを安倍元首相暗殺事件に当てはめれば、テロによっては決して目的が果たされないことを明確にするために、容疑者の名前や動機を宣伝すべきではない、ということになる。同情は一切不要で、「テロは許されない」だけを言えばよいのである。テロの動機を詮索することは、「騒ぎを起こして統一教会を攻撃させよう」という犯人の目的を実現する結果になる。