神道と再臨摂理シリーズ02


 前回から、「神道と再臨摂理」と題する新しいシリーズの投稿を開始しました。今回はその2回目ですが、「神道における神とはいかなる存在か?」というテーマから始めたいと思います。

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 江戸時代の国学者・本居宣長は神を「尋常でない霊威を発するもの」と定義しました。ここで、神道における神の特徴をまとめてみましょう。
①神の数は八百万:神道は、キリスト教やイスラム教のような一神教ではなく、多神教です。ここで言う八百万(やおよろず)とは、「非常に多くの」「無数の」という大雑把な数を表しているのであり、数学的な800万を意味しているのではありません。
②神は姿を表さない:神は山川草木などの自然物に宿りますが、特定の姿を持ちません。
③神とは畏敬の対象:古代の日本人は、疫病や災害の発生は神の祟りであると考えていました。神は尊ばれる存在であると同時に、畏れられる存在でもあったのです。
④一定の土地と結びつく:神道には、神がその土地と結びついて、その土地の「氏神」となるという考えがあります。超越的な一神教の神に比べると、特定の土地との結びつきが強いといえるでしょう。

 これら4つの特徴に加えて、神道における神にはもう一つの重要な特徴があります。それは神道においては「神を祀る」ことによって神になる、という考え方があることです。これは一神教における神との大きな違いの一つです。

 キリスト教とユダヤ教の神である「ヤハウェ」や、イスラム教の神である「アッラー」は、人間が礼拝する前に既に超越者として存在しています。あくまでも神が原因・主体であり、人間が結果・対象であり、この関係が逆転することはありません。人間の行いによって何者かが神になるという発想はあり得ないのです。

 ところが、神道の場合には神を祀る主体は人間であり、聖域を定めたり、社殿を建てたりして「神を祀る」のです。ある意味では、「人が祀ることによって神になる」と言ってよいでしょう。この「神を祀る」ということと、神社の創建とは深く結びついています。神道で神を祀るということは、特定の場所と深く関係しています。イスラム教やキリスト教では、神は世界を超越しているか、あるいは世界に遍在していると考えられており、一定の場所に神を祀るということはありません。

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 それでは神社とは何でしょうか? 現代人であるわれわれは神社といえば建物を連想しますが、実は建物は神社の本質ではありません。神社は「神の社(やしろ)」であり、もともとは神を祀るべき神聖な空き地のことであり、普段は注連縄(しめなわ)で囲っておく禁足地だったのです。

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 鎌倉時代(13世紀)に描かれた京都府亀岡の「出雲神社ぼう示図」という絵が残っていますが、そこに描かれている神社には社殿がなく、鳥居の後ろに出雲神社の御神体である御影山が描かれているだけです。鳥居と神体山の間には建物はありません。このように社殿が一切ないのが、古代の神社の姿であると考えられています。

 神社には「御神体」がつきものですが、今回は御神体とは何かを解説します。御神体とは、神霊が宿る物体のことです。日本古来の信仰においては、神は祭のたびにはるか海の彼方にある常世の国から来訪して人々に祝福をもたらし、祭が終わると、再び常世の国に帰っていくものと考えられました。すなわち、神は神社に常駐しておらず、祭りの際に神が降臨するのです。そのとき、神霊が寄り付く有体物が、神社の本殿の内陣に安置されている「御神体」です。

 御神体は神そのものではないのですがが、そこへ神霊が宿ると神そのものとなるのです。つまり、御神体とは神が宿る「依代(よりしろ)」であり、その神社に祀られる祭神とご神体は同一ではありません。この御神体は歴史と共に変化してきました。古代においては、石や山、木などの自然物に神霊が降臨し、依りつくと考えられました。こうした古いタイプの御神体には、①磐座、②山、③御神木などがあります。

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 後に仏教の影響を受けて神社の敷地の中に社殿が設けられるようになると、本殿の内陣に御神体を安置するようになります。こうした比較的新しいタイプの御神体には、④御幣、⑤鑑、⑥神像などがあります。

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