先回は韓国独立運動の共産主義者たちの経歴を詳しく述べたので、時間が1945年まで進んでしまいましたが、ここで少し時間を戻して、高麗共産党の内部分裂について話します。高麗共産党は1921年にレーニンから支援を受けた李東輝によって創党されました。
韓国の民族主義の独立運動も分裂し闘争していたんですが、同じように、共産主義の独立運動の中にもいろんな派閥があり、内部分裂して闘争していました。大きく二つに分ければ、「上海派」と「イルクーツク派」に分かれます。
上海派のリーダーが李東輝です。イルクーツク派のリーダーが呂運亨と朴憲永ということになります。上海派はどちらかというと、共産主義でありながら民族解放が第一の課題であるという、民族主義に近い立場であったのに対して、イルクーツク派は完全にソ連の手先と言いますか、社会主義革命を優先させるという考え方をしていましたので、お互いに次のような非難をし始めるわけです。
イルクーツク派は上海派に対して、「民族資本主義的な機会主義グループである! 彼らの運動は、世界平和のための共産主義の大義に基づくものではなく、ロシアの援助を得る手段として共産主義の仮面を被っているだけだ。偽者だ!」と非難します。
一方で上海派はイルクーツク派に対して、「彼らは共産主義運動の正統にはずれた反党グループに他ならぬ。コミンテルンの承認と資金援助を受けているわれわれこそ真の共産主義政党である!」と主張し、お互いに正統性を主張して闘うことになります。
この二つの派閥があったので、大同団結するために行われたのが1921年の高麗共産党大会です。これはコミンテルン極東書記部のタルピロという人が開催を指示したのですが、彼には極東における共産主義運動を調整する任務があったため、両派の統一を図るために、1921年3月に高麗共産党大会を開くように指令しました。コミンテルンにとって最も大事なことは、ソ連に忠節を尽くすことを本分とした党を育成することであり、民族的色彩を帯びたと噂された上海派に韓人共産主義者を牛耳られることは、ソ連にとって好ましくないことでした。ソ連の国益を優先させるこの考え方により、高麗共産党大会の主導権争いは、イルクーツク派の勝利に終わり、主導権を握ったイルクーツク派は、共産党特有の粛清を定石通り敢行しました。
このように上海派とイルクーツク派の抗争はイルクーツク派の完勝に終わり、イルクーツク派を中心とする高麗共産党が誕生しました。こうして一度はソ連の完全指揮下にある高麗共産党ができたのですが、やがて時流が変わり、生みの親であり育ての親でもあるソ連共産党から、高麗共産党が裏切られることになってしまいます。1925年1月に、日本がソ連邦を承認して国交が樹立すると、ソ連は日本との間に結んだ条約に基づいて韓国人の独立運動を禁じ、韓国人の共産主義者はすべて各県の高麗部所属となりました。つまり、韓国人の党は完全に解体されたわけです。それはソ連の国益のためでした。
この時点でソ連は日本と一度国交を結ぶわけですが、日本政府から韓国の独立運動をなんとかしてくれと頼まれて、自分達が育てた韓国人の独立運動家を見捨てて、それをつぶしてしまおうとしたわけです。これに憤慨した李東輝は、スーチャン近くの寒村に遁世して再び世に出なかったと言われております。彼は10年後の1935年1月に死んだということですから、非常に淋しい最後だったと言えます。
ここで韓国国内の共産主義者の動きについてもおさえておきましょう。上海派とイルクーツク派のほかに、ソウル派という国内の共産党が生まれました。1921年1月末、「ソウル青年会」という共産主義運動が旗揚げをしましたが、これは韓国の国内に自然発生した共産党です。これは李東輝(上海派)の援助を受けていました。これに対抗して、イルクーツク派は「火曜会」を立ち上げます。これはレーニンの誕生日が火曜日だったことに因んだ名前です。火曜会は、いわばイルクーツク派の国内支部であり、幹部は金在鳳、朴憲永らが務めていました。
一方で東京の留学生は、これらと全く無関係に運動を開始し、帰国するとソウルに「北風会」を結成して活動を開始しました。これによって、「木曜会」(イルクーツク派)、「ソウル派」(上海派)、「北風会」(東京留学生)の三派が鼎立するようになりました。このように、共産主義者たちも一体化できずに派閥争いをしていたのです。
この三派が合同して結成されたのが、1925年4月18日に結成された「朝鮮共産党」(第一次党)でした。しかし、結党後わずか半年で「治安維持法」によって壊滅的な検挙を受けることとなります。以後、分裂と闘争を繰り返しながら、第四次党まで自壊と検挙を繰り返し、次第に朝鮮共産党は衰退していくわけです。このように内部闘争に明け暮れている韓国人の共産党を見て、コミンテルンは愛想を尽かしてしまいます。1928年12月にコミンテルンは「12月テーゼ」と呼ばれるものを出し、「朝鮮共産党は分派闘争に没頭し、実際闘争をしない」という理由のもとに、その承認を取り消してしまったのです。ということは、共産主義の総本山であるコミンテルンの支援を失い、国際的な援助を受けることができなくなってしまったということです。
その後も、共産主義運動は細々と続くわけですが、その一つが「コム・グループ(Communist Group)」です。1939年に出獄した朴憲永は、コム・グループの指導者となりました。これはソウルに潜んでいた超派的な組織で、朝鮮総督府のあらゆる局に同志を送り、電気、通信、放送機関に潜入し、地下に潜む党員の大部分を組織しました。さらに全国の主要都市に支部を設けました。党再建の最後の努力となったコム・グループは、太平洋戦争の勃発まで生き延びて、インテリ学生層に浸透していたと言われています。
派の統合に成功した朴憲永は、「赤い星」と呼ばれていました。しかし1941年12月までに大多数の国内共産主義者が検挙され、朴憲永は逃れて光州の煉瓦工場に身を潜めるようになりました。そして、太平洋戦争がはじまり、コム・グループが壊滅した後は、共産主義運動は衰退の一途をたどったのです。この時期の国内共産主義者は、獄中に呻吟するか、転向するか、転向を装うか、地下に逼塞(ひっそく)するか、満州に逃亡するか、延安に行くか、ほそぼそとサークル活動を続けるかのいずれかで、ほとんど息の根を止められていました。非常に厳しい日本の弾圧によって、韓国国内の共産主義運動は追い詰められていったわけです。
それでは共産主義運動が残ったのはどこだったかと言えば、中国でした。1928年に第四次党が崩壊した後には、海外における朝鮮人の共産主義運動は上海、延安、満州で個々別々に展開されることになりました。それでは上海派がどうなったかと言えば、結局は四分五裂して延安に逃れ、活動を休止してしまいました。延安派は「朝鮮義勇軍」と呼ばれていましたが、少人数で武装し、終戦後に北朝鮮に入って要職に登用されるようになりました。
一方で満州の運動は、内部抗争を繰り返した後、組織を解体して中国共産党に合流するようになりました。これは韓国人の組織を解体し、中共党の審査を受けて個人的に入党できるということですから、韓民族のアイデンティティーを完全に否定して中国共産党に屈服するという屈辱的手続でありました。しかし、彼らはそれにも甘んじて従い、中国共産党に入党したのです。彼らは中国共産党の支配下で、いつの日か祖国を解放することを誓って忍耐していたということになります。この人たちが、「パルチザン闘争」を行っていきます。その中の一人が金日成だったわけです。
さて、これらの共産主義運動は、民族の解放のために何か成し遂げたといえるのでしょうか。結果的に、韓国人の共産主義運動は国内でも、ソ連でも、中国でも崩壊し、独立のために力を発揮することはありませんでした。