ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳23


第3章 性に関する価値観:婚前の性行為と同性愛(7)

 統一運動の性に関する価値観を説明する上で、性を最高の価値である愛と関係づけなければ、それは不完全であろう。性は神の創造の一部であり基本的に善なるものであるが、、愛は神の心情から生じ、人間社会の永遠の幸福にとって必要不可欠であるという点で、最高の善である。もっぱら自己中心的な愛(サタンのとりことなっている愛)によって動機づけられたときには、性は人生における最も破壊的な力(の一つ)となり得る。(注57)しかし、神を中心とする愛によって動機づけられたときには、性は神が人間社会を復帰し統一する力の、最も強力な表現となるのである。性はこのように、「最も悲惨なものと最も聖なるもの」の両方になる可能性を秘めているのである。(注58)それはすべて、愛の方向性によるのである。

 運動における愛の強調は、第一に神に対する愛と他者に対する愛に置かれている。これは教会の文献に見られると同時に、個々のインタビュー対象者の反応にも見られる。実際、厳格なインタビューのスケジュールに制約された状況下では、私はしばしばメンバーたちを他の関心ごとに導かなければならなかったほどに、彼らは神への愛と他者への愛について情熱的に語った。私の主題の中でとくに重要な関心や熱意を見いだすことができなかったのは、自己愛であった。二人だけが自己愛に言及したが、それはインタビュアーが率先して促したときだけであった:
「他者を愛するには、人は自分自身を愛し、自分自身を成長させ、自分自身を大切にしなければならない。私たちはマゾヒズムを教えていない。」(注59)
「すべての存在は、それ自体のための目的と全体目的という、二重目的を持っている。全体目的とは、例えば公共の利益のようなものだ。統一原理はこれら二つの目的は互いに矛盾しないと教えている。自分を大切にすることは愛の二重目的の一部であるがゆえに重要だ。人は他者を愛することができるようになるために、自己を愛するのだ。」(注60)

 これらのコメントは、自己中心的な個人主義を「授受作用」の基礎としては認めず、個体目的よりも全体目的を優先する神の創造理想と一致している。その神学は、神と他者を愛するという脈絡の中での自己愛を認めてはいるものの、これはほとんどのメンバーにとってあまり重要であるようには思えない。さらに、私が会って観察した統一教会の信者たちは、「世界の救世主」の役割、すなわち神と他者に仕える役割を実現する上で、惜しみなく彼ら自身を与えることに夢中になっていた。メンバーたちは、世界史のこの決定的な瞬間、終末のときに、より高くより緊急の大義のために自分自身を犠牲にすべく、自分たちは神に召命されたとみているのである。運動の中で自己愛というものが、たとえ目的のための手段としてさえ高い優先順位を与えられてないことは、これによって理解可能なのである。私は、人間としての基本的欲求に関わることであるという意味において、自己愛と性は緊密に関わり合っていると仮定する。したがって自己愛を過度に強調すれば、特に独身のメンバーたちを、彼らの家庭的(兄弟姉妹としての)役割と世界の救世主としての役割を維持しようとするよりも、性的満足に関心を持つ方向へと導くかも知れない。共同体としての活動、伝道、そして資金調達の活動は、(運動の視点においては、逆に)自己愛により大きな強調を置くことによって、影響される可能性がある。

 統一運動の性に関する価値観は、統一原理における神学的・倫理的基礎と、地上に天国を実現することを目標とした終末論的共同体としての組織的なニーズの両方を反映している。婚前の恋愛関係と性関係を禁止することは、世界家族としてのグループの自己像を強化する。またそれは、多数の独身メンバーの安定的供給を確保する。彼らは性的な愛着から解放されることにより、相当な可動性を持つこととなり、彼らのほとんどの時間とエネルギーを組織の目標を達成するための活動(たとえば、資金調達活動)に捧げることができるようになるのである。この運動の経済および伝道における過去10年間の成功は、そのほとんどが独身であるメンバーたちの献身的な努力なくしては、不可能であったに違いない。人は、運動がこの件に関して、戦いに勝った一因は彼の軍隊の一時的な禁欲によるものであるとされる、ダビデ王の例に影響されたのではないかと思う。(注61)

 性的禁欲はまた、新しいメンバーが運動の宗教的教えを内面化することにだけ集中する機会を提供する。それは個人として成長し、より深くより「自然な」神との関係に入っていくことを意味する。禁欲が要求する社会的役割は、「神は元来、人間の外的な肉身を先に創造され、その次に内的な霊人体を創造されたので(創世記2:7)、再創造のための復帰摂理も、外的なものから、内的なものへと復帰していく摂理をされる」(注62)とされる、復帰のプロセスの基礎である。したがって、社会学的な理論によれば、この終末論的共同体が社会化と社会統制という不可欠な仕事を成就するための一つの方法(すなわち、婚前の禁欲)として理解されるものが、運動の救済論において正当性を与えられ、神の裁可とされるのである。

 私は大きな大学で学んでいるあるメンバーと、性に関する価値観についてざっくばらんに話をしたことがある。キャンパス内の彼の住処の階段に立ち、彼は統一教会の性に関する価値観が、いかに非メンバーにとって回心の主要な妨げになっているかを話した。彼は、通り過ぎる数名の学生たちを指さして、もし性的に活発でありつづけることが彼らの欲求でなければ、彼らは入教していたはずだと言った。彼の主要な考えは、運動はその高い性的水準の代価を払っているというものであった。彼の言ったことは疑いなく真実であるけれども、信仰の維持、献身の強化、組織的目標の達成という点に関しては、明らかに統一運動はその性に関する価値観から重要な恩恵を受けているのである。

(注57)「人間と国家の滅亡は、異性愛にせよ同性愛にせよ、誘惑によって引き起こされたのだ。」(インタビュー:キーン氏)。
(注58)インタビュー:リントン氏
(注59)インタビュー:ボルトン氏
(注60)インタビュー:ジョンソン氏
(注61)サムエル記上21:5 .
(注62)『原理講論』、p. 109.

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