書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』77


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第77回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、新生トレーニングにおいて説かれる実践的な信仰規律について説明しているが、前回は「(1)アダム・エバの教訓」に対する彼の批判に反論した。今回はその続きである。
「(2)カイン・アベルの教訓。二人はアダムの子供だったが、農耕者カインの供えものよりも牧畜者アベルの供えものを神は喜ばれた。嫉妬したカインはアベルを殺したために、あなたは呪われて地上の放浪者となるだろうという神の言葉を得た。ここから、統一教会は神に喜ばれるものアベルと、兄でありながらも本来弟に従うべきだったカインの関係を組織上の階梯と捉える。通常、アベルというのは信仰や組織において上にあり指令を下すものを指す。アベルへの絶対従順こそ摂理の中にいる人間がなすべきこととされる」(p.248)

 このようなカイン・アベルの教義に対する解釈は、一連の「青春を返せ」訴訟の中で原告たちが主張してきた内容と全く同じである。彼らは、カイン・アベルという統一教会の教義は「カイン(一般信者)がアベル(上司)に対して絶対服従しなければならない」という教えであり、上命下達の組織体制の根拠であると主張しているが、これは完全に曲解である。カイン・アベルの教えは、彼らが主張するような人間を強制的に組織が縛り付け、自由意思に反した方向に駆り立てるような教えではない。そこで統一教会側の出版物に見られる記述に基づいて、この教義の意味について解説をすることにする。

 櫻井氏がカイン・アベルの教えを間違って捉えているのは、カインとアベルという二つの存在が「お互いのために生き合う」という教義の全体像を正確にとらえようとせず、その一方向のみを抽出して曲解しているからである。統一教会には「為に生きる」という教えがあり、例えば「夫は妻のために、妻は夫のために」というように、お互いが相手のために生き合うことを勧めている。このうち「妻は夫のために生きるべきだ」という一方のみを抽出すれば、それは男尊女卑の教えに聞こえるし、「夫は妻のために生きるべきだ」という一方のみを抽出すれば、逆に女尊男卑の教えに聞こえる。したがってこの両方をバランスよく理解しなければ、その本質を外れた理解になってしまうことは明らかであろう。

 実は櫻井氏はカイン・アベルの教えに関して、これと同じ一面的理解をしているのである。日々の信仰生活において、ある者がアベルの立場、ある者がカインの立場に立つことはあるが、その際ただ一方的な服従と従順がカインに対して要求されているのではない。むしろアベルのほうがカインのために生き、犠牲となって、カインの信頼を勝ち取るように努力することが求められているのである。このことについては文鮮明師ご自身が再三にわたって語っておられる。
「カインを救うためには、神様から受けたその愛を全部与えると同時に自己の愛までも合わせて与えなければならない」。(『御旨の道』p.364)
「アベルは、そのサタン世界の底辺に住む僕のような人たちに仕えるようにして、感化させなくてはならないのですから、僕の歴史にいま一つの僕の歴史を積み重ねなくてはならないのです。しかしその場合、サタン世界の僕たちと、天の世界のアベルのどちらがより悲惨な道を歩んだのかを問われる時に、アベルがアベルとして認定されなくてはならないのです。その時にサタン世界の僕たちは、『何の希望ももてないどん底の中にあっても、あなたは希望を捨てることなく、力強く私を支えた』と認めるのです。アベルは『いかに耐え難い時も、信義の理念をもち、愛の心情をもち、天国の理想をもっていたから、最後まであなたを信じて尽くすことができました』と、言えるのです。そこで『地上で自分の生命も惜しまず、愛と理想をもって犠牲的に尽くしてくれたのはあなたしかいません。私は誰よりもあなたを信じ、国よりも世界よりも、あなたのために尽くします』と、なるのです。その認められた事実でもって、初めて『自分はアベルであり、あなたはカインである』と言うことができるのです。アベル・カインの関係はその時から始まるのです。」(『摂理から見たアベルの正道』p.9-10)
「アベルは、カインに尽くしたあとにアベルとなるのです。互いに相手を尊重しなければなりません。尊重されるためには先に、カインとなる人に尽くすのです。誰よりも信仰心が篤く、誰よりも愛の心情が深く、誰よりも理想的であるという模範を示し、自然屈服させたあとに、カインたちのほうから、『我々の代身となって指導してください』と願われた時、『はい』と答えてアベルになれるのです。」(前掲書p.37)
「カインのメシヤはアベルであり、アベルのメシヤはカインであるということを知らなくてはなりません。」(前掲書p.12)

 このようにカインとアベルは、兄弟間の心情関係の在り方、すなわちお互いに尽くし合い尊重し合う人間関係として教えられていることが、文鮮明師の直接の説教から理解できるであろう。また文鮮明師の弟子である李耀翰牧師の著書『信仰と生活』第一集(現在は『心情開拓』に改題)は、1974年に初版が発行されて以来多くの統一教会信徒たちの信仰生活を導いてきたロング・セラーであるが、そこでもカインとアベルがお互いに尊重し合うべき存在であることが強調されている。
「だから、カイン・アベルは、お互いが神の立場です。アベルの神様はカインであり、カインの神様はアベルです。(『心情開拓』p.249)

 また李耀翰牧師の著書の中では、アベル・カインという立場は固定された組織原理ではなくて、人に接するときの内的な姿勢であることが強調されている。
「言ってみれば、アベル・カインという立場は、いつも決定していないのです。……教会でいえば、経済的に責任をもった人がアベルになる時もあるし、伝道の時には説教する人がアベルになる時もあるし、要は、その仕事においてだれが中心になるかという問題になるのです。

 家庭に帰ってきても、物事の責任をもった人がアベルになるのです。ですから、その時間はそのアベルに対して謙遜に喜びながら侍って、その人を慰めなくてはいけないのであって、食事の時でも、いつも自分が上であるという立場には立てないのです。

 その時々の仕事によって、中心となる兄弟がアベルの立場で苦労するのです。そこに平和があるのであって、『一人だけがアベル』というように決まった考えをもったなら、その教会は苦しみ、家庭にも苦しみが来るのです。」(前掲書p.27)
「カイン・アベル(の問題)は、みなカイン、みなアベルと思ったらいいのです。自分を自分で、カインと思ったらいい。いわゆる謙遜で人を自分より貴重に思う素性を持てば、失敗はありません。」(前掲書p.216)

 文鮮明師ご自身も同様のことを語っておられる。
「堕落性を脱ぐ道は千万人を全部アベルとして侍ることである。」(『御旨の道』p.371)

 したがってカイン・アベルとは、自己の罪深さを深く感じて他者の中に宿る神性を貴重に思うときには、その人にとって万人がアベルとなり、また自分自身を神の愛を伝える使命を帯びた者として自覚するときには周囲の者すべてがカインとして認識されるという性格のものであり、個人の主観によって誰がアベルで誰がカインであるかが決定される、極めて流動的な概念であるということが分かる。このようにカイン・アベルの教えの本来の意味を理解すれば、アベルとカインの関係を「組織上の階梯」とする櫻井氏の主張は、真実からほど遠いということが分かるであろう。

 しかし統一教会の一部信者の中には、そのようなものとしてカイン・アベルの教えを誤解していた者がいたこともまた事実である。このような間違ったカイン・アベル観に対して、文鮮明師は激しく叱責しておられる。
「このような原則があるにもかかわらず、今日の統一教会の信者の中には、自分は不信仰であろうと、不心情であろうと、不天国であろうとどうでもよく、『ただ先に入ってきたからアベルであり、お前はカインだから屈服しなさい』と言う者がいます。そんな法がどこにありますか!」(『摂理から見たアベルの正道』p.10)

 カイン・アベルの教えはもとより組織論ではなく、信仰生活上の人間関係を通して自己の内面を成長させていくための宗教的な教えである。その意味を正確に描写できるのは、統一教会の現役の信徒たちだが、櫻井氏はその人たちにインタビューをしていないので、その意味を正確にとらえることができなかった。櫻井氏の記述は、統一教会信徒の一般的なカイン・アベル観を代表したものではなく、「青春を返せ」裁判の原告たちの歪んだ教義解釈をそのままトレースしたものにすぎない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク