米国におけるディプログラミングの始まりと終焉(3)


ダン・フェッファーマンによる2010年の論文

C.強制的ディプログラミングに対する刑事および民事訴訟(の続き)

ダーリーン・センス事件

米国中西部の一部裁判所は、宗教の自由の問題に対してそれほど敏感ではなかった。1970年代に、ウィスコンシン州のいくつかの郡の判事と法執行官(警察官など)が、中西部に約200人の会員をもつ根本主義のキリスト教団体である「主イエス・キリストの弟子たち」という団体の成人会員数人の拉致を許可し、支援した。

1977年8月、ウィスコンシン郡控訴裁判所判事により非公開審議が行われた。その審議の後、判事はダーリーン・センス(32)に対して、自分自身と彼女の2人の子供を管理する精神的能力を欠いていると判断した。判事は、センス夫人と2人の子供の一時的後見人に彼女の両親を指名した。ひどいことに、センス夫人はこの審議について全く知らされず、自分の立場を主張する機会も与えられなかった。判事はまた、拉致計画を秘密にするために裁判所記録を封印することに合意し、救出のいかなる試みもできなくした。さらに、センス夫人は弁護士の助言を受ける権利や自分のために証言してくれる証人を確保する権利も否定された。彼女は別の判事が解放を命じるまでの13日間、自分の意思に反して拘束された。この別の判事は、センスが不法に拘束されたと判決した。彼はまた後見人命令を棄却し、子供たちを彼女のもとに復帰させた。センスはウィスコンシン東部地区の米連邦地方裁判所で訴訟を起こした。同裁判所は1980年5月19日、彼女の自由を剥奪するため陰謀に加担した判事は裁判官の免責のゆえに、ディプログラミング計画への参加について法的責任を問われないという判決を下した。しかしセンスが起こした民事訴訟の被告として名指しされた他の人々は、25000ドルを支払うことで示談に応じた。

ナンシー・ロフグレン事件

1976年7月2日、「主イエス・キリストの弟子たち」の別の教会員ナンシー・ロフグレンがディプログラマーに拉致され、脱出するまで12日間拘束されてディプログラミングを受けた。ロフグレンは日曜日に、礼拝に参加した後、ミネソタ州ロチェスターのハワード・ジョンソンのモーテルに入ろうとするところを取り押さえられた。拉致者により彼女は車に放り込まれた。彼らは制服もバッジも着用しておらず、何が起こっているか何も説明しなかった。しかし実際には、彼らは郡保安官代理だった。その後、連邦裁判所での宣誓供述で、3人の保安官代理は自分たちの行為について認めた。故人となった郡保安官の妻も、拉致計画の立案における夫の役割を認め、家族の友達だったからやったことだと述べた。

拉致の第1段階は長くはかからなかった。ミネソタ州高速道路パトロール警官は拉致について通報を受け、約25分後にミネソタ州ザムブロータ付近で銃を突きつけて車を停車させた。ロフグレンは保安官が急いで殴り書きした72時間の精神病院への監禁命令によりロチェスター州立病院に連れてゆかれた。「弟子たち」の仲間の教会員が彼女の居場所を知り、その解放を要求したとき、看護婦たちが彼女を病院の横のドアから連れ出して、待ち受けていた両親に引き渡した。彼女はそれから手足をバタバタさせ叫びながら、車に引きずり込まれ、ミネアポリス郊外のローズビルに連れてゆかれて10日間ディプログラミングを受けた。

そこにいる間、ロフグレンは両親の属する教会の牧師による訪問を数回にわたり受けた。キリスト教会牧師でもあった強制棄教業者は、教会牧師と教会区民の間の秘密保持を侵害したくないという理由で、警察から尋ねられたときにも彼女の居場所を明らかにしなかった。警官はそのことをそれ以上追及しなかった。ロフグレンはそれからミネソタ州ゴールデンバレーの住宅に移され、次の日に監視がいなくなった隙に脱出し、ゴールデンバレー警察署に逃げ込んだ。そこで彼女はようやく、自分の所属する宗教団体の指導者に電話することを許された。そのとき彼女が知ったのは、保安官が既に「彼女は医師の治療を受けており、自分の自由意志で両親のもとにいるのだ」という報道発表を出していたということだった。保安官は彼女に手錠をかけ、州立病院に連れ帰った。最終的に彼女が解放されたのは、病院の職員が彼女を精神病患者として拘束し続ける理由がないと判断した後であった。彼女は最終的にミネアポリスの連邦裁判所で起こした訴訟での示談決着で、拉致者から21000ドルの支払いを勝ち取った。

裁判は示談決着に終わったので、センス事件とロフグレン事件は明確な判例にはならなかったが、それらはたとえ判事や警察の支援を受けていたとしても、信者の権利を侵害する陰謀に加担した者は代価を支払わねばならないことを示した。

スーザン・ピーターソン事件

しかしピーターソン事件は、宗教の自由の後退となり、一時的にディプログラマーを勇気づける結果となった。この事件で、ミネソタ州最高裁は、個人が拘束者に抵抗するのを止めた場合、たとえ彼女が強制によって「協調」していたとしても、彼女が自分の意志に反して拘束されていたという事実は、「不法監禁の判決を支持するのに十分なだけの個人の自由剥奪」を構成しないという判決を下した。

1976年5月、マーガレット・ジャンクラウス夫人は41件の「ディプログラミング」の実績をもつプロの強制棄教業者キャシー・ミルズに、「ウェイ・ミニストリー」という宗教団体に入ったジャンクラウスの娘スーザンのディプログラミングの可能性についての話を持ちかけた。当時スーザンは21歳で、「ウェイ」の会員だったケビン・ピーターソンと婚約中で、その後彼女は彼と結婚した。この会合で、ディプログラマーのミルズは、会ったことがないジャンクラウス夫人の娘は「洗脳」されたのだと述べた。しかしジャンクラウス夫人は娘を「ディプログラム」してもらうことを決断する前に、このことをミネソタ州バードアイランドのルーテル教会の牧師と話し合った。

1976年5月24日、スーザンは学生として勉強していたムーアヘッド州立大学で、父親と牧師により連れ去られた。3人はやはり「ディプログラマー」だったキャシー・ミルズの母親ヴェロニカ・モーゲルが住んでいた家に車で行った。スーザンの父親は成人である娘をモーゲルの家の小さな寝室に連れて行き、彼女はそこで本人の意志に反して5月24日から5月31日まで拘束された。スーザンは泣き叫び、数人の人に解放してくれるよう嘆願したが、その嘆願は無視された。彼女の抗議は5月31日の午前3時頃まで継続した。この間に、キャシー・ミルズは、もし彼女がディプログラミングへの協力を拒否するならば、アノカ州立病院に入院させるための書類が作成されたことをスーザンに告げた。彼女はそれから異議を唱えることを止め、もっと受動的な態度を取り、拘束者の信頼を勝ち取ろうとした。6月9日に厳重な監視の下で「リハビリテーション」のためにオハイオに移動させられた後、スーザンはその家から抜け出し、手を振って警察の車を停車させ、逃走した。彼女は2人の警官によりミネアポリス北東区警察署に連行され、彼女の婚約者の父親に付き添われて解放された。

スーザンはその後、民事訴訟を起こした。陪審裁判が行われ、1978年2月17日に、キャシー・ミルズに6000ドル、ヴェロニカ・モーゲルに4000ドルの支払いを命じる、スーザン側勝訴の判決が下された。しかし控訴審において、ミネソタ州最高裁はこの判決を覆し、次のように述べて拉致者に味方する判決を下した。

親またはその代理人が、成人である子供の判断能力に障害があるという確信のもとで行動し、彼らが「宗教的または擬似宗教的カルト」であると合理的に信じる団体からその子供を救い出そうとする場合で、その子供がある時点で問題となる活動を容認する場合、その子供の移動に対する制限は、不法監禁の判決を支持するに足るだけの個人の自由の剥奪を構成しない

ウォール判事は反対意見の中で、法廷の判決において打ち出された理論においては、ディプログラミングの後期段階における個人の「黙従」は、初期の3日間の出来事にも「遡及的に関連する」同意という効果を持ち、それらの日々に関する彼女の主張の「権利放棄」を構成することになると指摘した。多数派判決の危険を認識したウォール判事は、それを「危険な判例」として非難した。オティス判事もまた別個の反対意見で、次のように述べて抗議した:

私はウォール判事が表明した見解に同意見であり、とりわけ親または親を代理する他人が、専門家の意見あるいは司法の介入なしに、主観的に成人の子供の「判断能力」に障害があり宗教または擬似宗教カルトと見なされる団体から「解放される」べきだと決断するときにはいつでも、「成人の子供の移動に対する制限」と婉曲的に表現されていることを認可するような判決には反対である。

こうした警告にもかかわらず、この判例は重要判決となり、全米の反カルト運動がディプログラミング活動を正当化する根拠にしてきた。しかしミネソタ州最高裁の判決はその後、ウィリアム・エイラーズ訴訟において、連邦裁判所によって否定された。

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