神学論争と統一原理の世界シリーズ23


第五章 救世主(メシヤ)について

4.統一教会にはなぜ十字架がないのか?

キリスト教は十字架の宗教である。伝統的なキリスト教会の建物には尖頭が設けられており、その頂点には十字架が掲げられている。敬虔なクリスチャンたちは常に十字架を首にかけたり、持ち歩いたりしている。そして人々が祈り、神の言葉に耳を傾ける礼拝堂の正面には必ず十字架が掲げられている。なぜクリスチャンたちはそれほどまでに十字架を仰ぎ見るのだろうか?

それは十字架がキリスト教信仰における救いの核心部分をなしているからである。キリスト教の教義によれば、イエス・キリストは全人類の身代わりとして、人々の罪を背負って十字架上で死んでいったと理解されている。このことは一見理解しがたいが、たとえば次のように考えてみれば分かる。もしあなたが交通事故に遭いそうになり、それを助けようとし身代わりに死んだ人がいたとしたら、あなたはその人に対してどういう感情を抱くだろうか? もしあなたが死刑にならざるを得ないような罪を犯し、その罪をかぶって身代わりとして処刑された人がいたとしたら、あなたはその人の霊前で何を思うだろうか? 敬虔なクリスチャンが十字架上のイエスに対して抱いている思いは、そのようなものだろう。

彼らは十字架の出来事を二千年前のユダヤ人たちによる殺人であるというような、客観的なものとしてとらえているのではない。イエス・キリストを十字架につけたのは、罪深いこの「私」であると思っているのである。それをイエスは受けとめて、「父よ、彼らをお許しください」ととりなしの祈りをされた。だからこそ十字架は救いの源泉となっているのだ。

見方によってはグロテスクな十字架
教会に掲げられている十字架にも色々なタイプがある。ただ十字に組んだ木だけが掲げられている場合もあれば、そこにイエス・キリストの体が描かれているもの、さらには立体的なイエスの像がぶら下がっているものもある。中にはそのイエスの像が非常にリアルなものもあって、肌色に塗られた木造の足には釘が刺さっていて、そこから血が流れているのが描かれていたり、兵士に槍で刺された傷跡がザックリと胸に描かれていたりする場合もある。これをもしキリスト教というものを全く知らない人が見たら、グロテスクで悪趣味だとしか思わないだろう。

実際、キリスト教が中南米の原住民であるインディオに宣教されたとき、このような十字架像は現地人にとって大きなつまずきとなった。なぜならインディオたちの土着の宗教には、人間を犠牲として神にささげる風習があったからだ。彼らは毎日部族のうちの一人を殺し、その心臓を神にささげなければ、明日の朝の太陽が昇ってこないと信じていた。人間が惨殺されて神にささげられる姿を見慣れていた彼らにとっては、キリストの姿はどうみても犠牲(いけにえ)にされた人間の姿であり、とうてい神や救い主のものとは思えなかったのである。

このことは十字架が異文化の人々にとっては非常に奇異なものであり、世界的な版図をもつ宗教の教祖の姿としては異常なものであることを我々に思い起こさせてくれる。それはクリスチャンたちにとってはあまりに日常的なものとなっているので気がつかないのであるが、磔にして殺された教祖の像をおがんでいるというのは尋常ではない。八十歳の生涯を終えて入滅した釈迦の涅槃像と比べるならば、イエスの十字架像はあまりにも悲惨で残酷な印象を受ける。

さらに、キリスト教の「十字架の贖罪論」は、一歩間違えば「スケープ・ゴート」に堕してしまう危険性をはらんでいる。スケープ・ゴートは今でこそ陰喩だが、昔は実際に山羊に人々の罪を転嫁する儀式をして、その山羊を荒野に追い払うことによって厄払いをしていた。もしこの発想で十字架の贖罪論をとらえれば、我々は自分の罪を神になすりつけ、その神を殺すことによって厄払いをしたことになってしまう。

十字架のないキリスト教
統一教会には十字架がない。どこの国の本部教会のどこへ行っても、礼拝堂に十字架は見当たらない。これをもってクリスチャンたちは「統一教会はキリスト教ではない」と言う。十字架こそキリスト教のシンボルだからだ。ではなぜ統一教会には十字架がないのか? それは十字架が見るに忍びないものだからである。クリスチャンたちは十字架につけられた神(教祖)の姿を仰ぎ見ている。しかし私は思う、「あなたはなぜ彼を十字架から降ろしてあげようとしないのですか? あなたはなぜ彼をあそこで苦しむままにさせておくのですか? もし彼を十字架につけたのがあなたであるというならば、なぜ自分の罪をかぶせたまま平気でいられるのですか?」と。

「統一原理」は、イエスが人類の罪を背負って十字架にかかったことを否定しない。しかし、それは本来イエスが行くべき道ではなかった。人々が彼を受け入れなかったため、彼は死の道を選ぶほかはないところまで追い込まれてしまったのである。それは神の本意ではなかったが、イエスが人類をとりなすことによって、人類はかろうじて許されるようになったのだ。したがって十字架は神に対する人類の反逆の象徴であり、決して喜ばしいものではない。十字架上で苦しむイエスの姿は、人類を救済するためにあらゆる手を尽くしながらも、その人類から反逆され続ける神の姿の象徴でもある。だからこそ「統一原理」は、今もなお十字架にかかって苦しむ神を、そこから解放しなければならないと主張するのである。

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