アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳65


第8章 被暗示性(2)

心理分析のアプローチ
ムーニーの研究をしている期間中、数多くの同僚、友人、知人たちが、統一教会のような変わった団体にどうして人々が入会するかについての貴重な意見を私に惜しみなく与えてくれた。ほとんどがムーニーには一人も会ったことがなかったが、世界と人間性についての一般的な知識から彼らは、ムーニーは初めから「かなり哀れな変人」であったというのが「真の」説明に違いないと確信していた。何かが欠けているか、少し変だったに違いないし、おそらくムーニーは不幸な子供時代を過ごしたであろうし、あまり賢くはなかったか、(最も役に立たなかったのは)「ムーニーになるような種類の人だった」というものであった。より精神分析的な志向の強い人々は、ムーニーは深刻な出生時のトラウマや、母乳拒絶、あるいは思い出したくないような不快な経験に苦しんだに違いないといった、大胆な示唆をした。大いにありそうなのは、ムーニーは実が安心を探し求めており、全能の父のシンボルを求めているとか、彼は根本的に性的なコンプレックスを持っているとか、合理化しているとか、昇華しているとか、現実の生活および正気を失って混乱した自己との折り合いをつけることができないでいる転移神経症である、などと聞かされることだった。

恐らくそうかもしれない。だが、実際にその通りであるかどうかを、いかにしてチェックできるだろうか? 「簡単なことだ」と答える人がいる。「必要なことは、患者(ムーニー)をある期間にわたって分析することであり、そうすれば分析者は、彼がこの運動に入会するよう導いた根深い問題を表面に浮かび上がらせるだろう」。分析者がムーニーの個人史の中からそうした根拠を実際に見いだすであろうことを、私は少しも疑うものではない。しかし私は、彼らの大部分はわれわれの精神史の中にも、われわれがなぜムーニーになったかを説明するための、同じように説得力のある理由を発見するであろうということを確信している。それは、私、教皇、ジェリー・ファウエル、ジェーン・フォンダ、身元不明者、あるいはこの本を読んでいるあなた、その中の誰かがムーニーになったとしても可能である。ムーニーと同様に、精神分析学者は、世界を見つめ、解釈するための独自の方法を持っている。私は彼らの(さまざまな)洞察が、それを信じる人々にとってなんらかの役に立つということを否定するものではないし、彼らの(さまざまな)解釈にはまったく真実がないと示唆しているのでもない。私が言っているのは、そのような分析は私がいま探求していることに関しては役に立たないということである。それらは入教者と非入教者を区別することを(事後的な区別を除いては)認めていないし、明らかに「能動的」感受性と「受動的」感受性を区別することを認めていないのである(注1)。

心理テスト
信頼性の分布(注2)のもう一方の端には、心理学者たちが被験者の精神的健康や精神状態を評価するためにデザインした一連の検査がある。私は自分の研究でそのような検査を行わなかった。それは一部には、その検査が測定すると主張していることを、すべて本当に測定するとは完全には納得していなかったからであり、また私は既に自分の仕事を、私が主要な関心を抱いている疑問にとってより中心的であると信じるデータを集め分析することに限定していたからでもある。しかし他の何人かが、報告すべきいくつかの結果をもたらす検査を行っている。

そのような一連の検査の一つが、ウォルフガング・クナーによってドイツの統一教会(および他のグループ)の会員に対して実施された。彼が到達した結論は、運動が「精神障害を抱えた若者たちの集まり」であるといった世間のイメージを裏付ける証拠は発見できなかったというものだった。実際、「正常でない」ケースの割合は、ムーニー(303人中15人)においてよりも学生の対照群(125人中9人)においてより高かった。しかしながら、クナーの報告によると、統一教会、アーナンダ・マルガおよび「神の子供たち」の会員はすべて「自己陶酔的な特性」の兆候を見せており、社会的評価を必要としているという(注3)。

マーク・ギャランターはアメリカのムーニーのサンプルが、年齢と性別では一致するが(注4)、結果に影響を及ぼし得るその他の社会的な変数については一致しない(注5)対照群よりも、一般的な精神的健康度の数値において低い値を示したという結果を見いだした。ギャランターはその後、統一教会のロサンゼルスでの修練会を調査したが、それについてはすでに言及した(146ページの表5を参照)。この過程で彼は、ゲストに対して同じ健康度の検査を行った。そこで彼が見いだしたことは、もともとの対照群が最高点(「健康」度が最も大きい)を示し、次に来るのが入教しなかったゲストであった。彼らは2日間の修練会に参加した後に脱落した者たちであり、彼らの点数は初期の調査における長期間ムーニーである者たちの点数と実質的に同じであった。最も点数が低かったのは、修練会に参加したばかりの新しい入会者であった。ギャランターはこの結果が、ムーニーの精神的健康度は同世代の者たちよりも低いが、運動のメンバーであることがこうした状況の改善を助けている可能性があることを示唆している、という仮説を立てた(注6)。この仮説は正しいかもしれない。しかしギャランターは残念なことに、明らかに少人数である新しい入教者たちのその後の運命を、さらに1ヶ月ほど追跡するということをしなかった。これをする目的は、私のデータがそうであるかもしれないと示唆しているように、初期の離脱者の存在が相違の主な原因であり得るか否かを見るためである。

(訳注:ここでバーカー博士が示唆しているのは、ムーニーの精神的健康度が同世代の者たちより低くなるのは、やがて離脱するであろう初期の入会者が含まれているからであり、こうした人々の中に精神的な健康度の特に低い者たちが含まれているということである。こうした人々が淘汰された後の、長期間ムーニーである者たちの精神的健康度は、実は同世代の若者と比較してそれほど低いとは言えないのではないか、ということである。)

(注1)そのような課題に対して精神分析的手法を用いることについての厳しい批判は、以下を参照せよ。H・J・アイズネック「心理学の使用と乱用」ハーモンズワース、ペンギン、1953年;カール・R・ポパー「推測と反駁:科学的知識の発展』第二版、ロンドン、ルートレッジ&ケイガン・ポール、1965年、第1章;T・S・スザースズ「精神病の神話」ロンドン、セッカー&ワーバーグ、1962年;T・S・スザースズ「イデオロギーと精神病」ハーモンズワース、ペンギン、1974年(初版は1970年);T・S・スザースズ「心理療法の神話:宗教、レトリック、抑圧としての精神療法」ガーデンシティ、ニューヨーク、アンカー・プレス/ダブルデイ、1978年。
(注2)私は「信頼性」(reliability)という言葉を、その結果が再現可能であるという、専門的な意味で使用している。(これに対立するのが測定の「妥当性」(validity)であり、それはわれわれが測定したいものを測定しているか否かについて言っている)
(注3)W・クナー「新宗教運動と精神衛生」、アイーリン・バーカー(編)『神々と人間について:西洋における新宗教運動』、ジョージア州アトランタ、マーサー大学出版、1984年に掲載。
(注4)M・ギャランター他「ムーニー・現代の宗教的カルトにおける回心と会員についての心理学的研究」、『アメリカン・ジャーナル・オブ・サイコロジー」136巻、2号、1979年。
(注5)「比較グループは、通常このセクトに入会することを連想させるような人々よりも、住居的にまた社会的により安定している人々の中から選び出された。・・・したがって、数値の相違は部分的には、修練会に来ること選択した人々の多くが経験した、相当量の社会的混乱に起因するかもしれない」。M ・ギャランター「大グループへの心理的な誘導:現代の宗教セクトからの発見」アメリカン・ジャーナル・オブ・サイキアトリー、第137巻、第12号、1980年、1579ページ。
(注6)同書。

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