神学論争と統一原理の世界シリーズ13


第三章 罪について

3.原罪とは何か?

聖書によれば、人類始祖アダムとエバは、神から「取って食べてはならない」と禁じられていた木の実を、戒めを破って食べてしまうことによって堕落したとされている。伝統的なキリスト教の解釈によれば、これは神が人間の従順をテストするための試練であったと考えられているが、「統一原理」ではその罪の具体的な内容は愛の過ち、すなわち「淫行」であったと主張している。このような「原罪淫行説」は、ユダヤ・キリスト教の歴史の中では決して珍しいものではなく、そういう解釈をする者は数多く現れた。第一、聖書自体が、アダムとエバは堕落前は裸を恥ずかしいと思わなかったのに、木の実を取って食べた途端に裸が恥ずかしくなって下部を隠したと記述しているのだから、そういう解釈はむしろ自然で、ちっともおかしくないはずである。にもかかわらず、カトリック教会が1909年に開いた聖書委員会の決議では、アレキサンドリアのクレメンス(150?~215年)やアンブロシウス(340?~397年)が主張したような、原罪が性的な罪であるという教説は受け入れられないとしている。そこでこの節では、ユダヤ・キリスト教の中の原罪淫行説の歴史と、それが正統になりえなかった理由を追求したい。

アレキサンドリアのクレメンス

アレキサンドリアのクレメンス

アンブロシウス

アンブロシウス

原罪淫行説の歴史

アダムとエバの罪が性的なものであったという考えは、ユダヤ教のラビ(律法の教師)の間では非常に一般的なものであった。ラビ文学においては、悪魔がエバに対して欲望を起こしたことが堕落の動機とされている。ヘブル語においては、先に述べたように「エバ」と「蛇」は同根であり、非常に発音が近い。そこでエバが蛇から誘惑されたように、アダムはエバから誘惑されたと解釈されている。そしてエバが蛇から性的に誘惑されたという考えは、キリスト教以前から広く行き渡っていた。そして禁断の果実は結婚関係を意味し、悪魔がアダムとエバの結婚生活をうらやんで堕落させることにより、罪が世に入ったという教説が多く見られる。アダムとエバがサタンと霊的性交をしたという考えも広く行き渡っており、それによってサタンから堕落した性質を受け継いだという概念も存在した。これらの教説は、統一原理の主張とほぼ一致する内容である。
また数ある旧約聖書の外典・偽典の中には、同様の教説や、さらに突っ込んだ描写も見られる。ちなみに外典・偽典とは正典には含まれなかった文書のことだ。「アブラハムの黙示録」では、人間始祖の堕落の原因を肉欲としてとらえている。そしてユダヤ教とキリスト教の伝統が入り混じって書かれた「アダム記」には、人類始祖の堕落について描写した三つの文書が含まれている。まず「モーセの黙示録」では、サタンがアダムとエバをうらやんで誘惑したことが描かれている。ここでも堕落は性的欲情であり、堕落における女性の責任の重さが強調されている。「アダムの生涯」には、サタンの嫉妬が詳しく描写されている。神がアダムを「神の似姿(Imago Dei)」として創造し、天使たちに彼を敬うように命令した。このときミカエルは従ったが、天使長ルーシェル(堕落してサタンになる)は従わなかったことが描写されている。そして「創造およびアダムの罪の歴史」には、サタンは神を拝することを拒否してその元を離れ、人間を誘惑したことが描かれている。そしてエバが堕落した後、アダムはエバに対する愛のゆえに、神よりも妻とともに生きることを選んで、罪を犯したことも描かれている。

アウグスチヌス

アウグスチヌス

キリスト教の教父の中で原罪を性や情欲の問題と結びつけて考えた人物としては、やはりアウグスチヌスを挙げるべきだろう。彼は自分自身激しい情欲との闘いで悩んだ人物であり、その青年時代の放蕩な生活が彼の神学に大きな影響を及ぼしたともいわれている。彼は結婚の正当性を否定しはしなかったが、夫と妻の性関係といえども肉欲によって汚されていると考えていた。この性行為が罪深い情欲によって汚れているために、すべての子供が罪の中にはらまれ、アダムとエバの罪を相続するのであると考えたのである。

 

原罪淫行説が主流にならなかった理由

このように原罪淫行説は昔からある教説であり、罪の遺伝という観点からしても説得力のある教説であるのに、なぜキリスト教の正統的な教えとして受け入れられなかったのだろうか? その一つの理由として考えられるのは、初期のキリスト教をおびやかした異端であるグノーシス主義やマニ教などの影響が考えられるだろう。影響といっても、これはいわば逆の影響であり、グノーシス主義やマニ教に対する反発から原罪淫行説を否定したという意味である。

グノーシス主義やマニ教は極端な霊肉二元論に立つ思想であった。彼らにとっては霊こそ善であり、肉や物質は悪なる存在であった。したがって物質世界を創造した旧約聖書の神は悪なる神であり、霊的な真理を啓示するために来たイエス・キリストの神とは異なる神であると説いた。すなわち彼らには善なる神と悪なる神の二つが存在し、旧約聖書は物質を造った悪なる神の記録であるから、これを聖典として認めなかったのである。彼らは物質を罪悪視したため、これに付随する肉欲も悪なるものであると教え、結婚も否定した。すなわち真理に目覚めた者はすべての肉欲を否定し、生涯独身で過ごすべきであるという極端な禁欲主義を説いたのである。

彼らの教えによれば、人間の霊はもともと自由な霊的世界に住んでいたのであるが、地上にいる人間たちの霊は、それが堕落して肉体という刑務所の中に閉じ込められているのであると説いた。そして、今の人間たちは肉欲に縛られているために霊的真理が見えないでいるが、イエスの言葉を聞いて霊的真理に目覚めた者は、自分の本来の住居に帰るようになると教えたのである。この教えによれば、結婚して子供を産むことは新たな刑務所を繁殖することになるので、その意味においても罪深い行為であった。

このように原罪を肉欲や性関係と結び付けてとらえることは、グノーシス主義やマニ教などの異端の教説を連想させたので、キリスト教としては受け入れ難いものであったに違いない。これらの異端との戦いにおいてキリスト教が守ろうとしたことは、イエス・キリストを遣わした神はあくまで旧約聖書の神であるということと、結婚の正当性であった。彼らは物質は神の被造物であるから基本的に善であり、結婚や繁殖も、それ自体は罪ではないと主張したのである。もしこれがなかったら、キリスト教は結婚を禁止する宗教になってしまい、子孫を増やして信仰を相続させることができなくなってしまうので、地上に存続し得なかったかもしれない。

こう考えると、原罪淫行説がキリスト教の中心思想にならなかったのには、神の配慮が働いていたとさえ思えてくる。もし罪と性関係が結びついていることを教え、それに対する解決策を与えなければ、救いを真剣に求める人々はすべての性欲を差し控えるか、少なくとも子供を生むことをやめなければならない。それでは人類は存続できない。それはあたかも治療の方法が解明されていない病気の患者に、その病名を教えるようなものである。そこでこの真理は神がこの問題を完全に解決するための摂理を展開できる時代まで、隠されていたのである。そこには人々を絶望させないようにという神の配慮があったのではあるまいか。

原罪はメシヤによってのみ解決される

「統一原理」では、この原罪の問題は再臨のメシヤによってしか解決されないと説いている。そして今や彼がこの地上に来て人類の原罪を清算し、神が祝福する本来の結婚をすることができる時代になったので、はじめて原罪が性の問題であったことを正式に明かすことができるようになったのである。

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