シリーズ「人類はどのようにして信教の自由を勝ち取ったか?」第5回


イギリスの宗教改革
イギリスにおいてはヘンリー8世の時代に、ヨーロッパ大陸からヒューマニズムと共にプロテスタント思想が渡ってきて、オックスフォード大学の知識層を中心に広まっていった。そしてヘンリー8世の3人の後継者であるエドワード6世、「ブラディー(血まみれの)・メアリー」として有名な女王メアリー、そして次の女王エリザベス1世の治世に、イギリスの宗教事情は大きく変動することになる。

ヘンリー8世の離婚問題とカトリックとの断絶

ヘンリー8世の離婚問題とカトリックとの断絶

ヘンリー8世はもともと熱心なカトリック教徒であったが、自分の離婚問題をめぐってローマ教皇と対立し、その結果としてイギリスの教会をローマの支配から独立させ、1531年に自らを「イギリス教会および全聖職者の最高首長」であると宣言した。これがローマの権威から独立した英国国教会のさきがけとなるものである。

ヘンリー8世はローマ教皇とは絶縁したとは言っても、信仰内容としては熱心なカトリックに留まった。しかし1547年にヘンリー8世が死去し、当時9才だったエドワード6世が王位につくと、政治はプロテスタントを支持する護民官達の手にゆだねられるようになった。この時ヨーロッパ大陸に逃れていた多くのプロテスタント信奉者達が国内に戻ってきて、ヘンリー8世の時に定められた反プロテスタント的な勅令を廃止した。こうしてイギリス国内では、急速なプロテスタント化が進んだ。

ところが1553年にエドワード6世が死去し、メアリーが女王の位につくと、彼女はカトリック信仰を再び確立することに全力を注ぐようになった。彼女はカトリックの牙城であるスペインの国王フェリペ2世と結婚し、イギリス教会を再びローマの支配下に戻した。そして国内のプロテスタント信奉者に対する激しい迫害が始まったのである。このうち800名はヨーロッパ大陸へ避難し、国内に残ったものはほぼ全員がその信仰の故に処刑された。

テューダー王朝における後継問題と宗教

テューダー王朝における後継問題と宗教

1558年にメアリーが死ぬと、こんどはエリザベス1世が女王の位につくこととなった。彼女は無益な血を流すことはせず、いわばカトリックとプロテスタントを折衷するかたちで、いわゆるアングリカン(英国国教会)を設立し、再びローマ教会の支配から独立することを宣言した。

しかしこの国教会も国内において更なる試練を経験することとなる。それはメアリーの迫害時代にヨーロッパ大陸に逃れ、ジュネーブで本場のプロテスタント信仰を吹き込まれて帰ってきた人々が、まだまだカトリック的色彩を多く残したアングリカンには満足できず、さらに徹底したプロテスタント化を押し進めようという運動を始めたからである。これがピューリタン(清教徒)と呼ばれる人々で、イギリス国内では次第にアングリカンとピューリタンの対立が激化するようになっていく。

さて、エリザベス1世には後継者がなかったため、彼女の死後、親戚にあたるスコットランドの国王ジェームズ7世が、1603年にそのままジェームズ1世としてイギリスをも統治するようになった。彼はすでにスコットランドにおいて長老派などのプロテスタント教会と戦ってきた人物であったため、英国においては国教会を支持する立場に立った。このジェームズ1世とその後継者チャールズ1世の治世には、ピューリタンたちは多くの迫害を受けるようになったため、その多くが新天新地を求めてアメリカへと旅だって行った。1620年にメイフラワー号でプリマスに上陸した有名なピルグリム・ファーザーズは、この様なピューリタンの中の一会衆にすぎない。

ところが、1637年にスコットランドで内乱が起こった時に、最も過激なピューリタンであったクロムウェルが、最新鋭の軍隊を率いて国王軍を打ち破り、ついには国王を処刑してイングランド、アイルランド、およびスコットランドをピューリタン政権によって統一してしまったのである。彼は国王の信奉者達と議会とを完全に制圧して、いわゆる護民官による独裁政治を行うようになり、イギリス国内はピューリタン一色に染まるかに見えた。しかしこの様な民意に基づかない政権は本来的に不安定なものであったため、1658年にクロムウェルが死ぬと再び王政が復活してチャールズ二世が王位についた。

チャールズ二世はアングリカンの復興に力を尽くしたが、その後継者である息子のジェームズ二世はカトリックの復活を試みた。これに反発した民衆はオランダよりオレンジ公ウィリアムを招いて、いわゆる「名誉革命」を成功させた。彼は1689年に寛容令を出し、これによってプロテスタントの礼拝の自由は保証されたのである。

このようにイギリスでは為政者たちの信仰によって国家の宗教が何度も変更され、それによって国民の信仰生活が大きく揺さぶられたばかりか、多くの貴い生命が犠牲になった。一つの教派が国家の強制権を握れば、それに反する信仰を持つ人々の生命や人権が踏みにじられるという経験を幾度となく経て、イギリスでは国教という制度を残しながらも、信教の自由、礼拝の自由を保証する法制度へと進んで行ったのである。

現在政府の行政機関には、宗教を所轄する省庁は全く存在しない。「イギリス国教会」の国教としての地位は、法によって定められているが、その他の宗教、宗派に対しても、別段の差別待遇をせず、信教の自由を認めている。即ちいかなる宗教団体も完全に自治の権利をもっており、信仰の告白、礼拝の執行、財産の所有、学校の経営、説教、文書等による伝道は全く自由であり、国や地方自治体によって何らの制約も受けることはない。したがってイギリスにおける国教制は、王室の宗教としての地位が、伝統を重んずる国民性によって支えられている建前上のもので、一般国民の宗教生活は、政教分離国とほとんど変わらないと言える。

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